Episode 30. 帰ってきたあとで
クレスティアへ着いたのは、夕方もだいぶ傾いたころだった。
長い道のりだった。
サンダレインの潮の香りはもう遠く、代わりに馴染んだ土と草の匂いが風に混じっている。
見慣れた城壁が近づくにつれ、ミュレットの胸は落ち着くどころか、かえって騒がしくなっていった。
帰ってきた。
そう思うのに、素直に安堵できない。
サンダレインでのことは、きっともう伝わっている。
夜会のことも、グレン王子のことも、手の甲への口づけも、別れ際の抱擁も。
アランは、どんな顔をするだろう。
それを考えるだけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「門が開きます」
先を行く護衛の騎士がそう告げる。
重い音を立てて、クレスティアの城門が開く。
ミュレットは思わず背筋を伸ばした。
門をくぐる。
石畳を踏む馬の蹄の音が、懐かしい響きで城内へ返る。
侍女たちがこちらを見た。
門番の騎士が一礼する。
使いの者が慌ただしく奥へ走る気配もある。
けれど、その中にアランの姿はなかった。
当然だ、とミュレットは自分に言い聞かせる。
王太子なのだから、ずっと玄関ホールで待っていられるはずもない。
公務だってある。
自分の帰城ひとつに、すぐ駆けつけられなくても当たり前だ。
当たり前なのに、少しだけ残念だと思ってしまった自分に、ミュレットは小さく息を呑んだ。
馬を降りる。
侍女が裾を整え、荷が下ろされる。
玄関ホールへ続く大扉の向こうには、夕刻の光を受けた白い石床が広がっていた。
一歩、また一歩と中へ入る。
そのときだった。
奥の回廊の向こうで、ざわりと空気が揺れた。
足音。
速い。
普段の王城では、あまり聞かない種類の足音だった。
文官たちが慌てて道を開く。
侍女たちが息を呑む。
夕光の差す玄関ホールへ、黒い影が鋭く現れた。
アランだった。
ミュレットは目を見開く。
明らかに急いで来たのだと分かる姿だった。
外套の裾がわずかに乱れ、呼吸もほんの少し速い。
あの人が、息を切らしている。
その事実だけで、胸がひどく揺れた。
アランは数歩のところで足を止める。
まっすぐにミュレットを見る。
顔を、肩を、旅装の乱れを、ひとつひとつ確かめるような目だった。
ミュレットは、知らず知らずのうちに少しだけ微笑んでいた。
帰ってきた。
ちゃんと、帰ってきたのだと。
そのことを、この人へ最初に伝えたかった。
「ただいま戻りました」
声は思ったより穏やかに出た。
アランの目が、わずかに揺れる。
ミュレットはその目を見たまま、もう一度口を開く。
「アランさ……っ」
名前を呼びきる前だった。
次の瞬間には、強い力で引き寄せられていた。
「……っ」
息が止まる。
抱きしめられている、と理解するまで、一瞬遅れた。
衝動のまま腕の中へ閉じ込めるような抱擁だった。
乱暴ではない。
けれど、あまりにも迷いがない。
玄関ホールの空気が、ぴたりと止まる。
門番も、侍女も、護衛の騎士たちも、誰も動けない。
ただ息を呑んで、その光景を見ていた。
ミュレットもまた、何が起きたのか分からないまま、アランの胸元へ頬を押し当てる形になる。
近い。
苦しいほど近い。
旅の埃と、外気の冷たさと、その下にある体温。
それがいっぺんに押し寄せてきて、心臓がどうしようもなく騒ぎ出す。
「……アラン、様」
ようやく絞り出した声は、驚きで掠れていた。
けれどアランはすぐには答えなかった。
ただ、抱きしめる腕の力だけが、ほんのわずかに強くなる。
その沈黙のほうが、言葉よりずっと切実だった。
どれほど急いで来たのか。
どれほど会いたかったのか。
どれほど、無事な姿を確かめたかったのか。
何も言わないまま、その抱擁だけが全部を語っているようで、ミュレットは息をするのも苦しくなる。
しばらくして、ようやく頭上から低い声が落ちた。
「……怪我は」
「ありません」
それだけのやり取りのあと、また短い沈黙が落ちる。
玄関ホールの白い石床に、夕方の光が長く伸びている。
侍女も、門番も、護衛の騎士たちも、誰ひとり口を開かない。
けれどミュレットには、その沈黙のすべてが、自分たちを見ているように感じられた。
やがてアランは、ほんのわずかに息を吐いた。
それから体を離し、ミュレットの手を取る。
「……時間がほしい」
低い声だった。
断らせるつもりのない響きだったのに、どこか頼むようでもあって、ミュレットはただ目を瞬かせるしかない。
「アラン様……?」
「来い」
そう言って、アランはそのまま歩き出した。
ミュレットは手を引かれるまま、慌てて後をついていく。
玄関ホールを抜け、長い回廊を曲がり、誰もいない静かな奥へ向かう。
行き先に気づいたとき、胸がひときわ大きく鳴った。
アランの私室だった。
そこへ入るのは、随分前に茶をしたとき以来だ。
あの時だって緊張したのに、今は旅装のままだし、髪も乱れているし、馬で戻ったばかりで埃もついているかもしれない。
こんな姿で入っていい場所ではない気がして、急に落ち着かなくなる。
「アラン様、あの、わたし」
「何だ」
「まだ旅着のままですし、少し汚れているかもしれなくて」
「そうだな」
「あ」
「湯を浴びたいなら、俺の風呂に入るといい」
あまりにも当然のように言われて、ミュレットは固まった。
「……え」
「着替えは用意させる」
「え、いや、でも」
「入れ」
気づけば、ほとんど押し込まれるようにして浴室の前まで連れて行かれていた。
「アラン様!?」
「何だ」
「何だ、ではなく」
「冷えているだろう」
「それは、そうですけれど」
「なら入れ」
「で、ですが」
「着替えはあとで届く」
「……」
何をどう抗議したらいいのか分からないうちに、扉が閉まった。
ひとり取り残された浴室は、湯気と湯の匂いに満ちていた。
広い。
そして、どう考えても王太子の私的空間だった。
「……どうしよう」
そう呟いても、誰も答えない。
結局ミュレットは、観念して湯を使わせてもらうことにした。
温かい湯が身体の疲れをほどいていく。
サンダレインからの長旅で張っていた肩も、頬のこわばりも、少しずつ緩んでいくようだった。
けれど心のほうは少しも落ち着かない。
帰ってきたこと。
アランが息を切らして迎えに来たこと。
何も言わずに抱きしめられたこと。
そして今、自分はアランの私室の浴室にいる。
ひとつずつ考えるたび、胸が熱くなる。
湯から上がるころには、たしかに身体は軽くなっていた。
浴室の前には、見覚えのないやわらかなドレスが用意されていた。
侍女が後から運び込んだのだろう。
淡い色合いで、派手すぎず、けれど布地は上質で、いかにもアランが選びそうな、静かな美しさのある一着だった。
恐る恐る袖を通し、髪を軽く拭いてから扉を開ける。
私室の中央には、もう小さな茶の支度が整えられていた。
温かな湯気を立てる紅茶。
甘い香りの焼き菓子。
ソファの前の卓に、ちょうど二人分。
アランは窓際から振り返り、そこで一瞬だけ動きを止めた。
ミュレットは気づかない。
「お、お待たせしました」
「……」
「アラン様?」
返事が少し遅れて、アランはようやく小さく息をする。
「いや」
それだけ言って、視線を逸らした。
「座れ」
ミュレットは促されるままソファへ腰を下ろす。
髪はまだ少し濡れていた。
肩のあたりへ落ちる水気が気になって、近くに置かれていた布で軽く拭く。
それから自分で簡単に髪を後ろにまとめた。
いつものように、仕事の邪魔にならない程度に。
その何気ない仕草を、アランは黙って見ていた。
じっと。
ひどく真剣な顔で。
けれどミュレットは、そこまで見られているとは思わない。
湯上がりで火照った頬のまま、目の前の紅茶へ手を伸ばす。
ひとくち含む。
ふわりと甘い香りが広がって、思わず目を丸くした。
「初めて飲む味です」
「……」
「ブルーベリーが入っているんですね」
「……そうだ」
「でも、フルーツの味がする紅茶なんて、アラン様は甘いもの、あまり……」
言いながら、止まる。
そうだ。
この人は、あまりこういうものを好まない。
「好まない、ですものね」
「……そうだな」
アランの手が、触れる。
ミュレットの指に、指先を絡めるように。
撫でるように、そっと。
唐突すぎるほど静かなその接触に、ミュレットは息を止めた。
視線を感じて、隣を見る。
目が合う。
近い。
さっきまで離れて座っていたはずなのに、いつの間にかアランはすぐ横まで来ていた。
「……グレン王子に、色々されたと聞いた」
低い声が落ちた。
「あ……」
やはり、と思う。
伝わっている。
夜会でのことも、別れ際のことも、きっと。
アランはミュレットの指へ、自分の指を絡めたまま言った。
「…………ミュレットは、あの男の方が好ましいと思うか」
ミュレットは目を見開く。
「……俺は、つまらない男……だろうか」
その一言が、胸を強く打った。
あまりにも思ってもいなかった言葉だった。
この人が、そんなことを考えるなんて。
この人が、自分をそんなふうに比べるなんて。
「もっと、楽しませろというなら、努力する」
「アラン様」
「どうしたら、俺をみてくれる?」
その言葉に、ミュレットの息が止まる。
――どうしたら、俺をみてくれる?
どこかで聞いたことのある響きだった。
以前にも似たように、ひどく切実な声で問われたことがある。
あの時と同じだ。
静かな顔のまま、内側ではどうしようもなく揺れている。
「え、あ、あのっ」
ミュレットは完全に動揺した。
どうして、そんなことを言うのか分からない。
アランのことを、つまらないと思ったことなど一度もない。
むしろ逆だ。
グレン王子は明るく、口がうまく、人を楽しませるのが上手だった。
けれど一緒にいて胸が苦しくなったり、目が離せなくなったり、抱きしめられて息もできなくなったりするのは、いつだってアランだけだった。
「そ、そんなこと、ないです!」
ようやく声が出る。
「ありません、本当に」
「……」
「つまらないなんて、思ったこと、一度も」
「……」
「だってアラン様は」
そこまで言って、ミュレットは慌てて言葉を探した。
何から言えばいいのか分からない。
分からないまま、思いつく限りを口にしてしまう。
「だってアラン様は、素敵で、強くて、優しくて……」
「……」
「つまらないと思ったことなんて、本当に一度もありません!」
「……」
「むしろ、わ、わたしの方が」
「ミュレット」
「だって、ほら!」
止まれなかった。
「こんな、フルーツ味の紅茶とか、お菓子とか、わたしのために用意してくださるところとか!」
「……」
「そういうところ、すごく……」
「……」
「とても!かわいい、です、し……」
言ってしまった。
部屋が、しんとする。
ミュレットは固まった。
自分でも、いま何を言ったのか理解するまでに一拍かかった。
「……あ」
終わった、と思う。
なぜ今そこへ行ったのか。
なぜよりによって“かわいい”なのか。
アランは、何も言わなかった。
ただ、ミュレットを見ている。
ひどく静かに。
ひどくじっと。
それが逆に怖い。
「い、いまのは」
「……」
「ちが、違うのです、違わなくはないのですけれど、そういう意味ではなくて」
「そういう意味だろう」
「ちがいます!」
「どこがだ」
「ど、どこがって」
「かわいいと言った」
「……」
ミュレットは顔から火が出そうだった。
湯上がりで火照っていた頬が、今はもう別の意味でどうしようもなく熱い。
アランはしばらく黙っていた。
そしてようやく、ごく小さく息を吐く。
「……そうか」
その声は、思っていたよりずっとやわらかかった。
「グレンより、俺の方がいいのか」
「……っ」
「そう聞こえたが」
「そ、それは」
「違うのか」
「違わ、なくて」
「そうか」
今度の「そうか」は、もっとはっきり満足そうだった。
ミュレットはうなだれた。
完全に墓穴を掘った。
しかも自分で掘って、自分で飛び込んだ。
アランの指が、絡めたままのミュレットの手をゆっくり撫でる。
「ミュレット」
「……はい」
「安心した」
「……」
「ずっと待っていた」
「……」
「サンダレインへ行ってから、帰るまで」
「……」
「考えないようにしても、考えた」
アランの声音は静かだった。
けれどその静けさの下に、長く溜め込んでいた不安が確かにあった。
「グレンは、俺にないものを持っている」
「……」
「明るく、口がうまい」
「……」
「女に好かれるのも分かる」
「……」
「ミュレットが、あの男といる方が楽しいのではないかと」
「……」
「考えた」
そこまで言われて、ミュレットは胸がきゅうとした。
アランが、そんなことを思っていたなんて。
ずっと待っていたからだ。
待つしかできなかったから。
自分の知らない場所で、自分の知らない言葉を交わし、自分の知らない表情を見せていたかもしれないと考えてしまったのだ。
「……そんなこと、ないです」
ミュレットは小さく、でも今度ははっきり言った。
「……」
「グレン王子は、素敵な方です」
「……」
「でも」
「……」
「一緒にいたいと思うのは、アラン様です」
「……」
「帰ってきて、顔を見たかったのも」
「……」
「抱きしめられて、うれしかったのも」
「……」
「アラン様だから、です」
言いながら、また顔が熱くなる。
けれどもう止まれなかった。
アランはそれを黙って聞いていた。
それから、絡めた指へほんの少しだけ力を込める。
「……そうか」
「はい」
「なら、よかった」
その言い方があまりにも安堵に満ちていて、ミュレットはかえって胸がいっぱいになった。
アランは、ようやく少しだけ笑った。
ほんのわずかだ。
けれど、確かに笑った。
「俺は、かわいいのか」
「っ、そこを拾わないでください!」
「大事なところだ」
「違います、そこじゃなくて」
「俺にはそこが大事だ」
「アラン様!」
「何だ」
「もう……!」
ミュレットはとうとう空いている方の手で顔を覆った。
こんなふうに安心されて、こんなふうに少しだけ意地悪に笑われて、
もう何をどうしたらいいのか分からない。
けれど、さっきまでアランの中にあった硬さが少しほどけたことだけは、はっきり分かった。
それがうれしかった。
アランは、顔を覆ったミュレットをしばらく見つめていた。
それから、低く言う。
「今夜は、もうどこにも行くな」
「……行きません」
「そうか」
「アラン様に押し込まれて、ここにいるのに、どこへ行くんですか」
「そうだな」
「それに」
「……」
「紅茶も、まだ半分しか飲んでません」
「そうだな」
ようやく少し落ち着きを取り戻し、ミュレットは紅茶へ手を伸ばす。
その指先を見て、アランもまた隣へ腰を落ち着ける。
今度はもう、不安からではない沈黙が、二人のあいだに落ちた。
ミュレットは、甘いブルーベリーの香りを含んだ紅茶をひとくち飲む。
その味はやっぱり少し意外で、でも不思議とやさしかった。
隣にいるアランへちらりと目を向けると、まだこちらを見ていた。
「……そんなに見ないでください」
「見てはいけないのか?」
「いけない、ことはない……ですけど」
「かわいいと言った口で、それを言うのか」
「もう! 忘れてください……!」
「忘れない」
即答だった。
ミュレットはまた顔を覆いそうになる。
けれど今度は、さっきより少しだけ笑ってしまった。
その小さな笑い声を聞いて、アランの目が静かにやわらぐ。
長く待って、悶々として、不安を抱え込んだ末にようやく取り戻した時間だった。
そのことを、二人とも言葉にはしなかった。
けれどきっと、同じように感じていた。




