Episode 29. 別れ際のちがい
サンダレインを立つ朝、海はひどく穏やかだった。
夜のあいだに風が落ち着いたのか、窓の外に広がる水面はやわらかく光を返している。
港にはすでに船が出入りしはじめ、白い帆が朝日に透けていた。
こんな景色を前にしているのに、ミュレットの胸の中は少しも静かではなかった。
結局、昨夜もあまり眠れなかった。
夜会のこと。
手の甲への口づけ。
そして、今日クレスティアへ戻れば、あの話がきっとアランの耳にも入るのだろうということ。
考えれば考えるほど落ち着かず、朝になってしまった。
身支度を整え、侍女に髪をまとめてもらいながら、何度も小さく息をつく。
「お加減はいかがですか」
侍女が控えめに問う。
「大丈夫です」
「本当に?」
「……たぶん」
「それは大丈夫ではない時のお返事です」
少しだけ困ったように言われて、ミュレットはかすかに頬をゆるめた。
それでも時間は止まらない。
帰路につくための準備はすでに整っていた。
クレスティアから同行している騎士と魔導師は馬の状態を確認し、侍女たちは荷をまとめ、セレスティアはなぜか朝から少しだけげっそりしていた。
「眠れなかったの?」
と聞くと、
「誰のせいだと思ってるの」
と、たいへん恨みがましい声が返ってきた。
「……ごめんなさい」
「いいのよ」
セレスティアは遠い目をした。
「私もだいぶ慣れてきたから」
「何に?」
「心労に」
「慣れたくないわね……」
そんなやり取りをしているうちに、出立の時間は来る。
城門前へ出ると、潮の香りがひときわ濃かった。
白い石造りの門と、その向こうに広がる青。
サンダレインらしい明るい空気の中で、見送りの者たちが並んでいる。
その中央に、グレン・サンダレインがいた。
今日もよく似合う明るい装いで、朝の光の中でも不思議なくらい軽やかに見える。
王子として、人前に立つのが生まれつき上手い人なのだろうと思わせる立ち姿だった。
「短い滞在でしたが」
グレンはにこやかに言う。
「楽しんでいただけましたか」
「はい」
ミュレットは一礼する。
「とても美しい国でした」
「それはよかった」
その返しもまた、明るく柔らかい。
本当に、この人は言葉がうまい。
場を和ませるのが上手で、相手に気を使わせない。
少しも身構えずに済むような、そんな雰囲気を自然につくってしまう。
「また、いずれ」
グレンがそう言って、ミュレットへ一歩近づく。
「クレスティア以外の景色も、あなたにはよく似合う」
「……ありがとうございます」
「次はもっと、ゆっくり案内したい」
その言い方に、ミュレットは少しだけ困ったように目を伏せた。
けれどグレンは、そこで引かなかった。
ほんの一拍だけ間を置いてから、静かにミュレットの肩へ手をかける。
そのまま、やわらかく引き寄せた。
抱きしめられたのだと理解するまで、ミュレットは一瞬遅れた。
「……っ」
近い。
けれど、嫌ではない。
拒絶したいほどではない。
ただ、ひどく戸惑う。
夜会の終わりの手の甲のときとは違い、今度は腕の中へ収められている。
王子としての別れの礼、と言われれば、そうとも見えるかもしれない。
けれど、そこにほんの少し個人的な温度が混じっていることくらい、ミュレットにだって分かった。
耳元で、グレンの声が落ちる。
「また会える日を」
ミュレットは息を止めた。
返事をしないのは不自然だ。
けれど、すぐに言葉も出ない。
「…………は、はい」
ようやく絞り出した返事は、ひどく小さかった。
グレンはそれで満足したように、ゆっくりと体を離す。
その顔は、いつもと変わらず明るい微笑みを浮かべていた。
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
「王太子殿下にも、よろしく」
その一言に、ミュレットの心がまた小さく揺れる。
アランの名を聞くだけで、胸のどこかが過敏になる。
けれど今はそれを顔へ出すわけにはいかなかった。
見送りの挨拶はそれで終わり、ミュレットは馬のほうへ向かう。
足元の石畳に、海からの光が揺れていた。
セレスティアが小声で寄ってくる。
「……また抱きしめられたわね」
「……」
「今度は帰国前」
「……」
「報告項目が増えたわ」
「ごめんなさい」
「もうそこは諦めてる」
低い声でぼやく彼女を横目に、ミュレットはなんとか馬へ乗った。
護衛の騎士が位置につき、魔導師が周囲を確認する。
侍女たちも支度を終え、ほどなく一行はサンダレインの城をあとにした。
帰路の空はよく晴れていた。
海沿いの道をしばらく進み、やがて潮の匂いが薄れていく。
波の音が遠くなり、代わりに土と草の匂いが戻ってくる。
サンダレインの青は少しずつ背後へ消え、景色はまた慣れた大陸の色へと変わっていった。
馬上で揺られながら、ミュレットはひとり考えていた。
どうしてだろう。
グレン王子はやさしい。
言葉もうまい。
明るくて、隣にいる人を緊張させない。
令嬢たちが憧れるのも、よく分かる。
抱きしめられても、不快ではなかった。
こわくもなかった。
むしろ、あたたかくて、丁寧で、好意さえ感じた。
それなのに。
嬉しい、とは思わなかった。
このままずっとここにいたいとも、
離れたくないとも、
もう少しこの人のそばで笑っていたいとも、思わなかった。
どうして、こんなに違うのだろう。
アランに抱きしめられた時は、あんなに苦しかったのに。
逃げたくなるほど近くて、胸が壊れそうなほど熱くて、それなのに離れたくなかった。
グレン王子の腕の中では、そんなふうにはならなかった。
ただ戸惑って、
ただ返事に困って、
ただ、礼を尽くして終わった。
それだけだった。
ミュレットはそっと、自分の胸元へ手を当てる。
何かが足りないのではない。
たぶん逆だ。
アランの前では、いろいろなものが多すぎるのだ。
嬉しさも。
苦しさも。
安心も。
不安も。
どうしようもなく惹かれてしまう気持ちも。
ひとつずつ分けて考えられないほど、全部が一度に押し寄せてくる。
だから、あの人だけが特別なのだと、認めるしかないのではないか。
そんな考えが浮かびかけて、ミュレットは小さく首を振った。
だめだ。
まだ、そこをはっきり見てしまうのは怖い。
「ミュレット様」
前を行く侍女が振り返る。
「お疲れではありませんか」
「え?」
「少しお顔色が」
「あ……大丈夫です」
大丈夫、と答えながら、自分でもまったく大丈夫ではないと思う。
海を見ても、グレン王子に抱きしめられても、
結局いちばん強く残っているのは、クレスティアにいるあの人のことだ。
帰ったら、どんな顔をされるだろう。
手の甲のことも、抱擁のことも、きっと伝わっている。
いや、もう確実に伝わっているだろう。
セレスティアが報告しないはずがない。
そう思うと胃のあたりがきゅっと縮むのに、
それでも会いたいと思ってしまう自分がいる。
本当に、どうしてこんなに違うのだろう。
馬の蹄が一定のリズムで道を打つ。
サンダレインを離れ、クレスティアへ戻るその道すがら、ミュレットはずっと、誰にも聞かれない胸の内で答えの出ない問いを繰り返していた。




