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Episode 28. 報告係の絶望



夜会が終わって宿泊部屋へ戻るころには、ミュレットはすっかり疲れ果てていた。


海沿いの城は夜になると、昼とはまた違う静けさを帯びる。

遠くから波の音が届き、窓の外には月を映した海が淡く揺れていた。


けれど、部屋の中の空気は静かではなかった。


扉が閉まった瞬間、セレスティアがその場で両手を頭に当てた。


「無理」

とても真剣な声だった。

「もう無理」

「え?」

「無理よ」

「な、なにが?」

「全部が」


ミュレットは外套を脱ぎかけたまま、目を瞬いた。


同行の侍女たちは、そっと視線を逸らしている。

護衛として来ていた騎士は扉の近くで腕を組み、魔導師は壁際で天井を見ていた。

誰も何も言わない。

けれど、沈黙の方向が完全に一致しているのが分かる。


セレスティアは、ぎり、と歯を食いしばった。


「手の甲にキスされてたって、アラン様に報告するの、私………………」

そのまま、ゆっくり膝を折る。

「絶望なんだけど」


本気だった。


ミュレットはぎょっとする。


「ほ、報告って」

「いるでしょ報告は!」

勢いよく顔を上げる。

「公務には関係ないもの」

「だめよ! しない方があとで怖いわ!」

「どうして?」

「あとから別経路で耳に入った時がいちばん怖いからよ!!」


その理屈だけ妙に説得力があった。


ミュレットは言葉に詰まる。


たしかに、アランならそういうことを後で知った時の方が静かに怒りそうではある。

いや、怒るというより、あのひどく低い声で「なぜ先に言わなかった」と問われそうだ。


考えた瞬間、少しだけ背筋が寒くなった。


「で、でも」

ミュレットは小さく反論する。

「これは、その、夜会の礼儀みたいなものでは」

「違うわよ!」

セレスティアは即答した。

「礼儀の顔じゃなかったもの!」

「え」

「え、じゃないの! あれは完全に“好意あり”の顔だったわ!」

「そ、そう……?」

「そうよ!」


侍女のひとりが、控えめに手を挙げる。


「あの」

「何!」

「私も、そう思いました」

「でしょ!?」

「はい……かなり」

「かなり!?」


ミュレットは自分の手の甲を見下ろした。


そこはもう熱くない。

けれど、思い出した途端にまたじわりと意識される。


夜会の終わり。

持ち上げられた手。

触れた唇。

そして、“また、お会いできるのを楽しみにしています”の一言。


「……だとしても」

ミュレットは困ったように眉を寄せる。

「わたし、振り払うのも変だったでしょうし」

「それはそう」

セレスティアは即座に頷く。

「止められなかったのも分かる」

「でしょう?」

「でも、だからって私の胃が無事で済む話じゃないのよ!」

「そこなの!?」

「そこよ!」


騎士が、扉のそばで一度だけ咳払いをした。


「セレスティア殿」

「なによ」

「声量を」

「無理よ」

「廊下に響く」

「私の絶望も響いてるわよ」

「それは知らん」


魔導師が、壁にもたれたまま淡々と言う。


「報告は簡潔にすればよろしいのでは」

「簡潔に?」

セレスティアが振り返る。

「どう簡潔にするのよ」

魔導師は真顔で答えた。

「“夜会は滞りなく終了しました。なお終盤、グレン王子がミュレット様の手の甲へ口づけました”」

「最悪」

セレスティアが即答した。

「簡潔すぎて最悪」

「事実だけです」

「事実が最悪なのよ!」


騎士は腕を組んだまま、低く言う。


「隠しても無駄だ」

「分かってるわよ!」

「なら報告するしかない」

「分かってるって言ってるでしょう!」

「では腹を括れ」

「無茶言わないで!」


部屋の中に、なんとも言えない沈黙が落ちる。


ミュレットは小さく肩をすくめた。

自分のせいでこうなっているのは分かる。

分かるのだが、どうしたらよかったのかと言われると、本当に困る。


「……ごめんなさい」

ぽつりとこぼすと、

セレスティアは頭を抱えたまま言った。


「ミュレットは悪くないのよ」

「……」

「悪くないんだけど」

「……」

「悪くないまま事態を悪化させる天才なの」

「そんな言い方ある!?」


侍女のひとりが、思わず吹き出しそうになって慌てて口を押さえた。

もうひとりは完全に俯いて肩を震わせている。


セレスティアはまだ頭を抱えたままだ。


「しかもよ」

「……」

「夜会で何人にも声かけられて」

「……」

「肩触られて」

「……」

「背中に手を添えられて」

「……」

「最後に王子が手の甲にキス」

「……」

「これをどうやってアラン様の前で“特に問題はありませんでした”にまとめろっていうのよ」

「問題はなかったわよ」

「アラン様の基準では問題だらけよ!!」


それは、なんとなく否定できなかった。


ミュレットはますます小さくなる。


「……怒る?」

「怒る、というより」

セレスティアは遠い目をした。

「たぶん静かになるわね」

「それがいちばん怖いのでは」

と侍女が小さく言う。

「怖いのよ」

セレスティアが頷く。

「ものすごく怖いの」

騎士も低く付け足す。

「機嫌が悪い時の殿下は、声が低くなる」

「知ってる」

「知っていてなおか」

「知ってるから絶望してるのよ!」


ミュレットは、そっと寝台の端へ腰を下ろした。


海の国の客室。

大きな窓。

月の光。

遠くの波の音。


本来なら、もっと穏やかに旅の夜を終えてよいはずなのに、部屋の中だけが妙に切迫している。


ふと、手の甲へまた指先が伸びた。

その仕草を見て、セレスティアがぴたりと止まる。


「……やめて」

「え?」

「その、無意識にそこ触るの、やめて」

「な、なんで」

「報告の難易度が上がる」

「どういう理屈なの!?」

「“あ、これ、気にしてるな”って情報が追加されるでしょ!」

「気にしてない!」

「いま触った!」

「……っ」


完全に言い逃れできなかった。


ミュレットは慌てて両手を膝の上に戻す。

頬が少し熱い。

自分でも分からないくらい、いろいろなことが混ざっている。


困る。

本当に困る。

けれど、いちばん困るのは、これを聞いたアランがどんな顔をするのか、少し想像できてしまう自分だった。


セレスティアは深く深く息を吐いた。

それから、まるで戦場へ赴く兵士のような顔で言う。


「……分かった」

「な、なにが」

「私、報告する」

「本当に?」

「ええ」

「今?」

「今じゃないわよ! せめて明日の朝よ! 夜のうちに言ったら、あの方たぶん眠らないもの!」

「それは」

「それは?」

「……そうかもしれない」

「でしょう!?」


そしてまた、頭を抱える。


「でも朝には言う」

「……」

「言わないと私が落ち着かない」

「……ごめんなさい」

「だからミュレットは悪くないの!」

セレスティアは力強く断言した。

「悪くないんだけど!」

「……」

「グレン王子が容赦なかっただけ!」

「……はい」

「そしてそれを報告する私がひたすら可哀想!」

「最後だけ自分の話だったわね……」

「当たり前でしょう!?」


その勢いのまま、セレスティアは寝台の反対側へどさっと腰を下ろした。


「もう今夜は寝る!」

「切り替えが早いわね」

「明日に備えるの!」

「何に」

「報告に決まってるでしょう!!」


そう言い切ると、またひとつ大きなため息をつく。


ミュレットは思わず、少しだけ笑ってしまった。


「……笑わないで」

セレスティアがじとっと睨む。

「ご、ごめんなさい」

「笑える話じゃないのよ」

「そうだけど」

「そうだけど?」

「……少し、気が楽になったの」


その言葉に、セレスティアは一瞬だけ目を丸くした。

それから、やれやれと肩を落とす。


「それならまあ、半分くらいは役目を果たしたと思っておくわ」

「半分?」

「もう半分は、明日アラン様に報告してからよ」

「やっぱりするのね……」

「するわよ」


きっぱり言い切って、セレスティアは寝台へ倒れ込むように横になった。


部屋の灯りは少し落とされ、波の音がまた近くなる。

騎士は夜番の位置を確認し、魔導師は結界の確認へ向かった。

侍女たちも、静かに寝支度を整え始める。


その中でミュレットは、もう一度だけそっと手の甲を見た。


あの熱も、困惑も、夜会の華やかさも、全部まだ胸の奥に残っている。

けれどそれ以上に、明日その話がアランへ渡るのだと思うと、別の意味で眠れなくなりそうだった。


「……どうしよう」

小さくこぼすと、

寝台からセレスティアが半ば死んだ声で返した。


「それはこっちの台詞よ……」


波の音が、夜の向こうで静かに続いていた。



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