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Episode 27. 手の甲に残るもの



夜会は、表向きにはどこまでも華やかだった。


高い天井から灯りが落ち、磨き上げられた床に音楽がやわらかく広がる。

海洋国家サンダレインらしく、会場には明るい色の花々と、波を思わせる硝子細工が多く飾られていた。

壁際には海の幸を使った料理が並び、窓の向こうには、夜の海が静かに揺れている。


グレン王子の誕生会という名の夜会は、滞りなく進んでいた。


ミュレットも、クレスティアからの客人として、必要な範囲で人と会話を交わしていた。


最初は年配の領主夫人だった。


「まあ、クレスティアからいらした方なのね」

「はい」

「お若いのに落ち着いていらして、素敵」

「ありがとうございます」


微笑んで返す。

ごく短く、礼を失さないように。

それだけで終わるはずだった。


けれど、そうはいかなかった。


次に声をかけてきたのは、地方領主の息子だった。

その次は、友好的な立場の令嬢。

その次は、港湾都市を治める一族の姉妹。


みな、悪い人ではない。

むしろ親切で、感じのよい人が多かった。


「クレスティアの冬は、やはり厳しいのですか?」

「ええ、かなり」

「ではサンダレインの気候は珍しいでしょう」

「とても。空気の匂いまで違って、驚いております」


そんなふうに、社交辞令程度の会話を交わす。


それだけならよかった。


問題は、その距離だった。


話しかけてきた壮年の領主が、聞き取りやすいようにと肩へ軽く触れる。

若い貴族が「こちらのほうが海がよく見えますよ」と、背中へ手を添えて位置を勧める。

令嬢たちは悪気なく、親しげに腕へ触れて笑う。


サンダレインでは、ごく普通の距離なのだろう。


クレスティアより、近い。

人との間合いが、少しだけやわらかい。


分かる。

分かるのだが、そのたびにミュレットの胸はひやりとした。


――アラン様がいたら。


その考えが、何度もよぎる。


肩へ手が触れるたびに。

背中をそっと押されるたびに。

近くで笑いかけられるたびに。


もしここにアランがいたら、どんな顔をするだろう。

いや、顔には出さないかもしれない。

出さないまま、あとでひどく低い声で何かを言うのかもしれない。

あるいは、その場の空気だけが少し冷えるのかもしれない。


そんなことを思ってしまって、また勝手に落ち着かなくなる。


「ミュレット様?」

同行していた侍女が、そっと小声で呼ぶ。

「……あ、ごめんなさい」

「お疲れではありませんか」

「大丈夫です」


大丈夫、と答えたものの、本当は少しも大丈夫ではなかった。


夜会というものは、こんなに人との距離が近いのか。

それとも、クレスティアから来た女というだけで珍しがられているのか。

どちらにせよ、ひどく気を遣う。


そのうえ、ひとりだけ明確に距離を詰めてくる人がいた。


グレン・サンダレインだ。


彼は誰に対しても明るく、礼を尽くし、軽やかに会話を回す。

王子として申し分のない振る舞いだ。

けれどミュレットには、それとは少し違う温度で近づいてくる。


話し相手が途切れたところへ自然に現れる。

疲れていないかと聞く。

海の見える窓辺へ案内しようとする。

他の男が長く話しすぎると、やんわり会話を切り上げる。


露骨ではない。

けれど、確実だった。


「人気者ですね」


ふいに、そんな声が落ちた。


気づけば、グレン王子がすぐ横に立っていた。


「……え?」

「今夜の話です」

彼は笑う。

「かなり声をかけられていたでしょう」

「皆さまがお優しいだけです」

「そういう返し方をするところも、また好まれる」

「……」


困る。


本当に、この人は困る。


ミュレットが返答に迷っていると、グレン王子は少しだけ身をかがめるようにして、他の者には聞こえない声で言った。


「それにしても」

「……」

「あなたはやはり、特別な花です」

「……っ」


見られていた。


思わず顔を上げると、グレン王子はどこか面白がるような、それでいて探るような目をしていた。


「そんな、ことは」

ミュレットは小さく答える。

「身分も、もうないようなものですし」

「身分、ですか」

「……はい」

「なるほど」


グレン王子は納得したように頷く。

それから、少しだけ視線を細めた。


「では」

「……?」

「身分を与えれば、あなたは唯一無二の美しい人であると、お認めになるのでしょうか?」


心臓が、どくりと鳴る。


ミュレットは返せなかった。


「あなたを思い、慕う者の目は節穴だと?」


否定も、肯定もできない。


この人の言葉は、明るくて、やわらかい。

けれどときどき、思っているよりずっと深く踏み込んでくる。


困る。

そういうふうに言われると、困る。


ミュレットは視線を伏せたまま、小さく言う。


「……そういうお話では、ありません」

「では?」

「わたしがどう思うかより」

少しだけ息を置く。

「どうあるべきか、の話です」


グレン王子はしばらく黙っていた。


やがて、ふっと小さく笑う。


「やはり、大した女性だ」


その言葉は独り言にも似ていた。

けれど、たしかにミュレットへ向けられていた。


「……え?」

「静かで、やわらかく見えるのに」

グレン王子は、夜会の灯りの向こうでミュレットを見る。

「芯がある」

「……」

「流されない」

「……」

「誰かの言葉に酔うより先に、自分の足で立とうとする」

「……」

「そういう人は、そう多くありません」


褒め言葉なのだと分かる。

分かるのに、ミュレットは素直に受け取れなかった。


ただ、自分がいまどんな顔をしているのか分からなくて、少しだけ視線を落とす。


そのとき、楽団の音が変わった。

夜会の終わりが近いことを知らせるような、少し落ち着いた旋律だった。


周囲では客人たちがゆるやかに別れの挨拶を始めている。

侍女も護衛の騎士も、そろそろ戻る頃合いだと察したらしい。


「今夜は、お疲れさまでした」

グレン王子が静かに言う。

「サンダレインは、いかがでしたか」

「……とても、美しい国だと思いました」

「それはよかった」


その返事と一緒に、グレン王子がミュレットの手を取る。


反射的に身体がこわばる。


けれど、振り払うほどではない。

振り払ってはいけない気もした。

ここは夜会の終わりで、王子は礼として手を取っただけなのだと、自分に言い聞かせる。


グレン王子はミュレットの手を軽く持ち上げた。


その動きの意味を理解した瞬間、息が止まる。


「グレン王子――」


止めるより早く、唇が手の甲へ触れた。


ほんの一瞬。

けれど、社交辞令として片づけるには、あまりにも印象が強い口づけだった。


「また、お会いできるのを楽しみにしています」


顔を上げたグレン王子は、いつものように明るく微笑んでいた。

だがその目だけは、明らかに好意を隠していなかった。


ミュレットは何も言えない。


手の甲が熱い。

そこだけが、まるで別のものみたいに強く意識される。


背後で、同行していた侍女がかすかに息を呑む。

護衛の騎士は表情こそ変えなかったが、こめかみがぴくりと動いた。

たぶん皆、同じことを思ったのだろう。


――これを、アラン様にどう説明するのか。


その言葉にならない悲鳴が、場の空気にうっすら滲んでいた。


ミュレットは熱を持った手の甲を見下ろしたまま、ただ困りきったように小さく息をついた。



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