Episode 26. 夕映えの海で
夜会は、表向きには滞りなく進んでいた。
グレン王子の誕生を祝う名目の華やかな席。
音楽が流れ、硝子器には琥珀色の酒が満ち、笑い声が絶えない。
海洋国家らしく開放的で明るい空気に包まれているはずなのに、ミュレットはどこか落ち着かなかった。
クレスティアからの使者。
その立場でここにいる以上、笑っていなければならない。
けれど、笑えば笑うほど、見られている気がした。
少し空気を入れ替えたくて、ミュレットは席を外した。
静かな廊下だった。
海の見える大広間から少し離れただけなのに、音楽はぐっと遠くなる。
窓の外には夕暮れの海が広がっていた。
昼間よりも深い青に染まり、水平線には赤みの残る光が揺れている。
その廊下の先で、鋭い怒鳴り声がした。
「なぜクレスティアから使者が招待されている!」
ミュレットは足を止める。
声の先には、サンダレインの侍女がひとり、壁際に追い詰められていた。
まだ若い。立場も強くないのだろう。
両手を前で強く握りしめ、顔を青ざめさせている。
その前に立っていたのは、年配の領主だった。
酒が入っているのか、頬が赤く、目も据わっている。
「我が領地は、アラン・クレスティアによる一方的な侵攻を受け、領土の半分を失った!」
「……」
「そのアランの部下と仲良く同じワインでも飲めと申すか!」
侍女は何も言えない。
言える立場ではないのだろう。
ただ頭を下げ、震えながら耐えている。
次の瞬間、男の手が振り上がった。
「――っ」
考えるより先に、ミュレットは前へ出ていた。
乾いた音が、廊下へ響く。
侍女を庇うように立ったミュレットの頬へ、平手打ちが飛んだのだ。
視界が一瞬だけ揺れる。
熱が遅れて頬に走る。
けれどミュレットはよろめかなかった。
そのまま、領主を見上げる。
何も言わない。
ただ、見ていた。
その目に、男の眉がぴくりと動く。
「なんだ、その目は……」
再び手が上がる。
だが、今度は振り下ろされる前に止まった。
「そこまでにしていただけますか」
明るい声音だった。
けれどその明るさの下に、冷たい鋼があった。
グレン・サンダレインが、男の手首を掴んでいた。
領主の顔色が変わる。
「グ、グレン王子……」
「申し訳ありません」
グレンは笑っていた。
だが目は笑っていない。
「文句がおありなら、客人を招待した私に」
「……」
「せっかくの誕生会です」
さらに一歩だけ近づく。
「楽しんでください」
その言葉と視線に、領主は逆らえなかった。
酒気の残る顔を歪めながらも、何も言えずにその場を立ち去る。
ようやく空気が動いた。
侍女は青ざめたまま深く頭を下げる。
護衛たちも、少し遅れて前へ出ようとしていた足を止めた。
「申し訳ない」
グレン王子が、今度は本当にやわらかくミュレットへ向き直る。
「彼は少し、酒が入ると厄介でね」
「……」
「頬を見せて」
そう言って、手が伸びてくる。
ミュレットは一瞬だけ迷った。
避けたほうがいいのか。
けれど、ここで露骨に避けるのも不自然に思えた。
そのまま動かずにいると、グレンの指先が頬へ触れる。
ほんのわずかに、撫でるように。
その瞬間、背筋へぴりっと何かが走った。
え、とミュレットは内心で息を呑む。
嫌悪感――?
いや、違う。違うはずだ。
ただ、驚いただけ。
そう言い聞かせるのに、ほんの一拍かかった。
「少し、掠ったようなものでしたので」
ミュレットは静かに言う。
「控室を用意しよう」
グレンはすぐに返した。
「冷やせば、すぐ赤みも引くでしょう」
結局、ミュレットは控室へ通された。
侍女が冷たいタオルを頬へ当てる。
ひんやりした感触が、火照りを少しずつ奪っていく。
「自分でできます」
「いけません」
侍女は首を振る。
「私の役目です」
その声は少し震えていた。
先ほどの場面を見ていたのだろう。
ミュレットはおとなしく椅子に座ったまま、黙っていた。
赤みが引き、髪を整え直され、軽く装いを直して控室を出ると、グレン王子が待っていた。
海の見える廊下だった。
夕日に照らされる海は、昼間とはまた違う色を見せていた。
深い群青の上に、溶けかけた金が揺れている。
窓の向こうの水平線は静かで、世界の果てのようにも見えた。
グレンはその海を見ながら、ぽつりと言った。
「……アラン・クレスティアは、戦争を終わらせただけではない」
「……」
「帝国をはじめ、領土拡大を狙う各国の領主たちは、ことごとく自国を裏切り、兵を無駄死にさせ、民を苦しめ、女子供を虐殺した」
「……」
「アラン殿は、あの強大な力を、侵略ではなく戦争終結のために使い、クレスティアに確固たる世界的地位を作り上げた」
ミュレットは目を上げる。
グレンの横顔は、さっきまでの柔らかさとは少し違っていた。
軽やかな王子の顔ではない。
政を知る王子の顔だった。
「さっきの領主、領土の半分を失ったと言っていたけど」
グレンは淡々と続ける。
「失った半分は、奪ったものだ」
「……」
「アランは奪われた小国へ、領土の返還を条件に、物資生産の国有化を行った」
「……」
「国内外の皆が恐れる。しかしクレスティアは兵の統率力が高い」
「……」
「あんな性格をしていても、あの男が目指す世界は、ただ平和な世界だ」
「……」
「戦争など、もう起こさせないと」
ミュレットは、言葉を失っていた。
初めて聞いた。
アランが、そんなふうに考えていたなんて。
政治の話など、アランは自分の前でほとんどしない。
何を背負い、何を見て、何を選んでいるのか。
それを語ることは少ない。
だから、皆、震えていたのだ。
怒っていたのだ。
あの領主だけではない。
あの人の力そのものにではなく、その力で突きつけられた現実に。
「君も」
グレンが、ミュレットを見た。
「そういうところを慕っているの?」
後ろには護衛の騎士たちがいる。
侍女もいる。
先ほどの騒ぎのあとだからこそ、皆がこの会話をひそかに聞いていた。
ミュレットはしばらく黙っていた。
海の光が、頬を照らす。
風が、髪を揺らす。
それから静かに、口を開いた。
「強大すぎる力は、きっと本来、抑止のために使うものなのでしょう」
グレンがわずかに目を細める。
「戦うのは怖い」
「恐れられるのも、怖い」
「でも、本当に大切なものを奪われてしまったら」
そこでミュレットは、まっすぐグレンを見る。
「それでも、その力を使わずにいられるでしょうか」
廊下の空気が、しんと張った。
護衛の騎士のひとりが、はっとしたように息を呑む。
侍女の手も、わずかに強張った。
ミュレットは続ける。
「わたしは……」
一度だけ、言葉を探すように息を置く。
「戦争で、家も、家族も、領地も、失いました」
「……」
「奪われる痛みを知ってしまった人に」
「どうして使ったのかと、責めることはできないと思います」
ミュレットは、海の向こうを見つめるように小さく目を伏せた。
「……それでも、使わなくて良い世界であったならと、願います」
グレンは何も言わなかった。
けれど、その沈黙は軽いものではなかった。
目の前の娘を、改めて見直している沈黙だった。
「……大した方だ」
やがてグレンは、静かにそう言った。
「え?」
「君は」
グレンはまっすぐミュレットを見る。
「ただ静かなだけの人ではないんだね」
ミュレットは少しだけ目を伏せた。
後ろで控えていた侍女たちは、はっとした顔のまま動けなかった。
護衛の騎士たちも、先ほどまで“守るべき存在”として見ていたミュレットを、いまは少し違う目で見ていた。
ただ庇われる人ではない。
ただ儚いだけの人でもない。
この人には、この人なりの強さがあるのだと、
その場にいた者たち全員が、静かに思い知らされていた。
窓の向こうで、海が夕暮れの光を跳ね返していた。
ミュレットはその光の中で、胸の奥へひとつ、静かな熱が落ちるのを感じていた。
アラン様は、そんな世界を目指していたのだ。
何も語らずに。
ひとりで立って。
誰より恐れられながら。
そのことが、どうしようもなく誇らしかった。




