Episode 25. 海の見える部屋
サンダレイン王国は、クレスティアとはまるで違う国だった。
城へ入る前から、それはよく分かった。
潮の香りが風に混じっている。
空気はやわらかく湿り、遠くから絶えず波の音が聞こえる。
王都へ続く街路には、鮮やかな布を張った露店や、異国の香辛料を売る商人の声が並び、石造りの建物の隙間からは、何度もきらきらと海が見えた。
「すごい……」
馬を降りる前に、ミュレットは思わずそう漏らしていた。
サンダレインの王城は海沿いに建っていた。
切り立った白い石壁の向こうに、陽を受けて煌めく青が広がっている。
クレスティアの城が山風と緑に抱かれているなら、こちらは光と潮騒の中にある城だった。
案内された客室は、さらに息を呑むほど見晴らしがよかった。
大きく取られた開口部の向こうに、水平線がまっすぐ伸びている。
眼下には白い波が寄せては返し、沖にはいくつもの船が行き交っていた。
陽の角度によって海面の色が絶えず変わる。
深い青、白金、やわらかな水色。
それがひとつところに留まらず、風に合わせて表情を変えていく。
「まあ……」
ミュレットは部屋へ一歩入ったところで立ち止まった。
後ろからついてきた侍女たちも、さすがに少しだけ誇らしげだった。
けれどそれ以上に、室内に満ちた海の明るさに、誰もが一瞬ことばを失った。
「お気に召していただけましたか?」
ふいに、背後からやわらかな声が落ちる。
振り返ると、グレン王子が立っていた。
案内を終えたあと、そのまま立ち去るのではなく、客室の入り口まで同行していたらしい。
「はい、とても」
ミュレットは素直に頷く。
「こんな景色、初めて見ました」
グレン王子は満足そうに笑った。
その笑い方は軽やかなのに、妙に人の心をほどく。
「毎日、こんな景色を見て過ごせたら」
彼は窓の外へ視線をやる。
「深く考えがちなあなたの心も、もう少し明るくなりますか?」
明らかな口説き文句だった。
ミュレットにだって、それくらいは分かる。
分かるのに、あまりにさらりと言われるものだから、返しを探す前に言葉だけが先に出た。
「とても素敵です」
にこり、と微笑んでしまう。
その瞬間、背後の空気が凍った。
侍女たちが息を呑む。
護衛として同行していた魔導師が、目だけで天井を仰ぐ。
部屋の隅に控えていたセレスティアに至っては、今にも口を押さえて崩れ落ちそうな顔をしていた。
だが、当のグレン王子はますます機嫌がよくなっただけだった。
「それはよかった」
「……」
「しばらくのあいだ、どうか海の国を楽しんでください」
「ありがとうございます」
ミュレットが改めて礼をすると、グレン王子は最後にもう一度だけ、海辺の陽差しのような笑みを残して立ち去った。
扉が閉まった瞬間だった。
「ミュレット様! いけません! 狙われています!!」
ほとんど悲鳴だった。
さっきまで優雅に控えていた侍女のひとりが、両手を顔に当てて真顔になる。
もうひとりは本気で青ざめていた。
「そうよ!」
セレスティアが勢いよく両手を広げる。
「なにをにっこり“とても素敵です”なんて言ってるの!?」
「え?」
「え、じゃないわよ!」
「ふ、普通よ、これくらい」
「普通!?」
「だって本当に素敵だったし……」
「世の中にとって普通でも!」
セレスティアは胸を押さえてよろめいた。
「アラン様第一主義の私たちには、もう胸がくるしいのよ~~~~!」
うわぁぁあー、と本当に頭を抱える。
ミュレットは目を丸くした。
どうしてそこまで大げさなことになるのか、自分にはよく分からない。
グレン王子は確かに距離が近いし、口もうまい。
けれど、それは王子として洗練されているだけで、いちいち動揺していては話にならないではないか。
そう思っていると、同行していたアラン指名の騎士が、呆れたような顔で一歩前へ出た。
「セレスティア殿」
「なによぉ」
「近隣を巡回するぞ」
「いま!?」
「いまだ」
「私がいなくなったら、ミュレット様がまた無防備ににこってするでしょ!?」
「それを防ぐのはお前の役目ではない」
「でも胸が苦しいのよ!」
「外の確認が先だ」
反論を聞き流すように、騎士はセレスティアの肘を半ば強引に引いた。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! まだ言いたいことが」
「あとで聞く」
「聞いてくれるの!?」
「必要なら」
「必要しかないわ!」
そんな言い合いをしながら、セレスティアはずるずると引きずられていく。
扉が閉まる直前まで、「くれぐれも窓辺で黄昏れて“この海、素敵……”とか言わないでね!」という叫びが聞こえていた。
室内には、侍女ふたりと、護衛役の魔導師、それにミュレットだけが残された。
しん、と静かになる。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいだった。
「……わたし、なにか変でした?」
ミュレットが控えめに聞くと、侍女たちは顔を見合わせる。
それから、どちらともなく、なんとも言いがたい微笑みを浮かべた。
「変では、ありません」
「ええ、とても」
「ただ……」
「ただ?」
「少し、無防備でいらっしゃいます」
そう言われても、やはりよく分からない。
ミュレットは小さく首を傾げたまま、もう一度窓のほうを見た。
侍女が、旅装をほどきながら髪を整える。
櫛が、やさしく髪をすいていく。
潮を含んだ風が、室内の薄布を揺らす。
護衛を任された魔導師は、窓際から少し離れた壁際に立ち、外と室内の両方へ目を配っていた。
「お疲れではありませんか?」
侍女が問う。
「大丈夫です」
「では、少しだけ楽な髪に整えますね」
「お願いします」
ゆるく結われた髪の重みが変わる。
肩が少し軽くなる。
そのまま大きな開口のほうへ歩み寄ると、外の景色がひらけた。
煌めく海。
まっすぐな水平線。
白い帆を上げて進む船。
港へ戻る小舟。
空の青がそのまま海へ落ちたみたいな、広く明るい世界だった。
クレスティアとは、まるで違う。
あちらにはあちらの美しさがある。
山の気配。
庭の緑。
水路の音。
冷たい風の匂い。
静かで、少しだけ張りつめた空気。
それを思い出した瞬間、ミュレットの口から、考えるより先に言葉がこぼれた。
「アラン様にも、みせたかったな」
ほんの独り言のつもりだった。
けれど、背後で侍女の手が一瞬止まる気配があった。
魔導師も、壁際でわずかに視線を上げる。
ミュレット自身も、言ってから気づいた。
ああ、自分はこんな景色を見ても、まずあの人を思い出すのだと。
どういう顔をするだろう。
海を前にしても、きっと最初は静かな顔のままなのだろう。
でも、しばらく見ているうちに、あの人なりに目を細めるのかもしれない。
船の動きや潮の流れを先に見てしまうのかもしれない。
それでも最後には、少しだけ、きれいだと感じてくれる気がした。
それを隣で見たかった。
そう思ってしまった自分に、ミュレットは小さく息をのむ。
窓の外の海はどこまでも明るい。
けれど胸の奥だけが、少しきゅうと痛んだ。
「……」
侍女は何も言わなかった。
魔導師も沈黙したままだった。
ただ、どちらもその独り言を聞かなかったふりはできなかったらしい。
ミュレットは、また海を見る。
こんなに遠くまで来たのに。
知らない国の、知らない景色の中にいるのに。
それでも心の向く先は、クレスティアにいる。
あの、静かで不器用で、でも誰よりもまっすぐな人のところへ。
海の光が、ミュレットの横顔をやわらかく照らしていた。




