Episode 24. 待つことしかできない男
アランは、自分が言葉の少ない男だと知っている。
昔からそうだった。
必要なことは言う。
命じるべきことは命じる。
だが、それ以上を口にすることは少ない。
思ったことをそのまま柔らかく伝えるのは得意ではない。
慰める言葉も、安心させる言葉も、いつだってひとつ遅れる。
だからこそ、ミュレットと出会ってからは意識していた。
彼女が困っている時。
泣いている時。
不安で足を止めてしまう時。
なるべく言葉で支えようと。
前を向けるように、伝えようと。
雨の日もそうだった。
城を出ようとした時もそうだ。
「愛している」と告げたあの夜でさえ、アランは不器用なりに、言葉で届けようとしてきた。
けれど、グレン・サンダレインは違う。
あれは、まるで自分とは真逆の男だった。
明るい。
口がうまい。
表情も、雰囲気も、柔らかい。
場をほぐし、人を笑わせ、相手に負担をかけずに懐へ入ることができる。
ああいう男のもとへ嫁ぎたいと言う令嬢は多いだろう。
実際、多いはずだ。
王子という立場を抜きにしても、女に好かれる種類の男だと分かる。
アランは、自分にはその才能がないことを知っていた。
だからこそ、懸念していた。
ミュレットは、自分といるのを息苦しいと思っているのではないか。
自分の隣は重く、静かで、緊張ばかり強いるのではないか。
それに比べてグレンといれば、もっと楽しく、もっと自然でいられるのではないか。
そういう考えは、普段のアランなら切り捨てる。
だが、ミュレットのことになると、それが切り捨てきれなかった。
庭で招待状が差し出された時も、そうだった。
ミュレットは一度も返答を保留しなかった。
迷うより先に、
「クレスティアのためになるなら」
「わたし、行きます」
と、そう言った。
その瞬間、胸の奥へまたあの言葉が刺さった。
――恋人でもないのに。
城門の前でこぼされたあのひと言。
あれはたしかに、アランの中の何かを深く裂いた。
恋人でもない。
だから言うな。
だから踏み込むな。
だから止めるな。
そう言われたくせに、自分はまだ懲りずに、彼女を呼び出した。
行ってほしくないと、告げた。
私情だと分かっていても、懇願した。
サンダレインへ行くなと。
グレンの誕生会へなど行くなと。
だが、ミュレットは自分の手を離れた。
背を向けた。
アランは、分かっている。
自分のそばにいれば、ミュレットは国のことを考えねばならない。
王太子の隣という立場に晒される。
心無い言葉を受けることもある。
自分が断界王である以上、巻き込まれる危険もある。
泣くこともある。
傷つくこともある。
そんなことは、最初から分かっていた。
何度も考えた。
何度も手放すべきかと思った。
彼女が穏やかに生きられるなら、そのほうが正しいのではないかと考えた。
だが、それでも。
ミュレットが城を出て、帰ってこない。
それだけは、どうしても耐えられなかった。
だから思いを告げた。
覚悟を決めた。
はっきりと、愛していると伝えた。
それなのに、ミュレットはサンダレインへ行くことを決めた。
その事実が、静かに、重く、アランの胸の内へ積もり続けた。
誕生会までの一週間は、ひどく長かった。
近づけば困らせる気がして、以前のようには顔を出せない。
引けば、そのまま遠ざかる気がして、完全に離れることもできない。
できるのは、公務をこなし、護衛を選び、道中の安全を整え、滞在先の情報を洗い出すことだけだった。
サンダレイン側は馬車を用意すると申し出た。
アランは断った。
揺れの少ない上等な馬車より、クレスティアの腕利きの騎士がつく馬のほうが、ミュレットを守れると判断したからだ。
建前はいくらでもつく。
道が狭い。
警護動線が読みにくい。
クレスティアの者が最後まで責任を持つべきだ。
だが本音は、もっと単純だった。
他国の手に、最初から最後まで委ねたくなかった。
だから護衛は自分で選んだ。
口の堅い、腕の立つ騎士を。
ミュレットに余計な気を遣わせず、それでいて命を預けられる者を。
見送りの日。
ミュレットは、支度を整えて城門前に立っていた。
美しいと思った。
思った瞬間、舌打ちしたい気分になった。
サンダレインへ向かうために選ばれた衣装。
きちんと結い上げられた髪。
控えめなのに品のある装い。
侍女の手で整えられた顔立ちは、いつもより少しだけ華やかで、それでもミュレットらしいやわらかさを残している。
こんな姿を、他国へ向かうために見ることになるとは思わなかった。
しかも自分は、離れた場所から見ていることしかできない。
城門前のざわめきの中で、ミュレットが顔を上げる。
「アラン様」
久しぶりに、まっすぐ目が合った気がした。
その一瞬だけで、胸の奥の冷えがほどけそうになる。
「行って参ります」
そして、微笑んだ。
ほんの少しだった。
それでも、アランには十分だった。
止められなくなるには。
気づけば、もう動いていた。
腕を引く。
自分のほうへ寄せる。
そのまま、抱きしめる。
周囲の気配が止まった。
侍女も、騎士も、門番も、皆息を呑んだのが分かる。
戸惑う小さな声が耳元で揺れる。
けれど離せなかった。
「かえってきてくれ、必ず」
自分でも驚くほど、低く掠れた声だった。
「俺のもとに」
腕の中で、ミュレットが小さく震える。
それから、こくりと頷いた。
「……はい」
その返事だけで、喉の奥が熱くなる。
「愛している」
囁くようにそう言って、アランはミュレットの額へそっと口づけた。
触れた瞬間、ミュレットの頬がみるみる赤くなる。
そのまま照れたような、困ったような顔をして、逃げるみたいに馬のほうへ小走りで向かった。
「あ、……アラン様も、ちゃんと、食べてください、ね」
振り返りざま、そう言われる。
たったそれだけの言葉だった。
それだけなのに、アランは胸を突かれた。
自分のことを考えているのか、と。
まだ自分を気にかけているのか、と。
そんなことで、どうしようもなく浮かれてしまう自分に呆れる。
「わかった」
返すと、ミュレットはまたこちらを見る。
アランがわずかに微笑んだのを見て、今度はさらに慌てたようにフードを深く被った。
そして、護衛の騎士の馬へ乗る。
付き添いの侍女も後ろへ続く。
手綱が引かれる。
蹄の音が石畳を打つ。
ミュレットはもう一度だけ、こちらを見た気がした。
けれどそれはほんの一瞬で、すぐに視界の向こうへ溶けていく。
アランは、ミュレットの姿が完全に見えなくなるまで、その場を動かなかった。
城門が閉じる。
重い音が響く。
それでも、しばらくそこに立っていた。
風が吹く。
夏へ向かう空気が、外套の裾を揺らす。
隣でディルクが何も言わず控えている。
門番たちも、誰も言葉を発しない。
アランはただ、閉じた門を見ていた。
待つしかない。
それがどれほど苦いことか、知っている。
だが今は、待つしかない。
ただひとつだけ、胸の奥で静かに決めていた。
次にミュレットが帰ってきたとき。
そのときまだ彼女が自分のもとへ戻るなら、
もう二度と、この手を離すつもりはないと。




