Episode 23. 招待状
サンダレイン第一王子、グレン・サンダレインの再訪は、夜会の前、茶会のあとに訪れた。
王城の応接間では、すでに一度、公式の茶会が開かれていた。
表向きは和やかで、穏やかで、文句のつけようのない席だった。
サンダレインは明るく、洗練されていた。
グレン王子はその中心に立つにふさわしい人だった。
よく笑う。
空気を読んで言葉を選ぶ。
誰にも無礼にならず、それでいて自分の意志はちゃんと通す。
向かいに座るアランも、王太子として何ひとつ崩さなかった。
静かで、正確で、隙がない。
けれどその静けさは、茶会のあいだじゅう、どこかひそかに張りつめていた。
ミュレットは茶会の補助としてそこにいた。
正面に座る立場ではない。
茶を運び、必要に応じて控え、視線を上げすぎずにその場を整えるだけの役割だった。
それでも分かった。
グレン王子は、茶会のあいだに何度かミュレットへ目を向けていた。
ほんの一瞬の、さりげない視線。
誰もが気づくほど露骨ではない。
けれど、気づく者には気づく程度には、たしかに。
そしてそのたびに、アランの空気はわずかに冷えた。
ディルクはその様子を、少し離れた位置から黙って見ていた。
口は挟まない。
表情も変えない。
だが、内心では早くも嫌な予感が育っていた。
茶会が終わり、夜会まで少しだけ時間が空く。
その合間に、グレン王子は庭を見たいと言った。
戦後に荒れ、少しずつ整えられつつあるクレスティアの庭。
そこを、アラン、グレン、そしてなぜかミュレットまでが歩くことになった。
夏のいろが芽吹いた庭だった。
名のない花のまわりには新しい葉が伸び、細い茎の先には小さな蕾も見える。
水路のほとりには青々とした薬草が風に揺れ、整えられたばかりの低木が陽の光を受けていた。
空気の匂いまで、春の終わりから夏のはじまりへ移ろうとしている。
「見違えましたね」
グレン王子が、感心したようにあたりを見回す。
「茶会の席から見た時も美しいと思いましたが、近くで見るとまた違う」
「まだ整備の途中です」
アランが淡々と返す。
「それでもこれだけ落ち着いた空気になるのは、庭師の尽力でしょう」
ミュレットは少し後ろを歩いていた。
王子二人のあいだに入るつもりはなく、ただ必要な時に返答できる位置を保っている。
そのつもりだったのに、グレン王子はふと足を止めると、振り返った。
「ミュレット」
「……はい」
「以前、お会いしたときも思いましたが」
「……」
「あなたは本来、こういうことに興味のある方だと思っているのですが」
ミュレットは目を瞬く。
「こ、こういうこと、ですか?」
「ええ」
グレン王子は笑う。
「庭も、土地も、他国の空気も」
「……」
「見て、知って、考えることに向いている方だと」
その言い方はやわらかいのに、妙にまっすぐだった。
茶会のときより、ずっと個人へ向けた言葉に近い。
ミュレットが返事に詰まるのを見て、グレン王子は続けた。
「サンダレインに、ぜひあなたを招待したい」
「……え」
「我が国を知っていただくのも、悪くないでしょう?」
「……」
「あなたは本来、そういうことに興味のある方だと思っているのですが」
そこでグレン王子は、後ろに控えていた側近へ軽く手を差し出した。
側近は心得たように一歩進み、両手で一通の封書を差し出す。
深い青の封筒。
金の細い飾り罫。
そして封蝋には、サンダレイン王家の紋章がくっきりと刻まれていた。
ミュレットは、その招待状が自分のためのものだと理解した瞬間、息を止めた。
グレン王子はそれを受け取り、今度は自らの手でミュレットへ差し出す。
「私の誕生会を開きます」
「……」
「クレスティアと関係の悪い領主もいる」
「……」
「またとない、外交の機会です」
その声は先ほどまでより、少しだけ真面目だった。
軽く微笑んではいる。
けれど、これはただの気まぐれでも、単なる社交辞令でもないのだと分かる。
「ぜひ、遊びに来てください」
最後の一言だけ、ふっとやわらかく落ちる。
ミュレットはすぐには手を伸ばせなかった。
自分が受け取っていいものなのか。
受け取ること自体に、どれほどの意味があるのか。
考えるより先に、横に立つアランの存在が重く胸へ落ちてくる。
そっと視線を向ける。
アランは何も言わなかった。
ただ、見ているだけだった。
その無言がかえって息苦しい。
静かな横顔のまま、少しも口を挟まず、グレン王子の言葉を聞いている。
その態度が王太子としては正しいのだと分かるからこそ、ミュレットには余計に苦しかった。
少し離れたところで控えていたディルクは、表情を動かさなかった。
だが、内心はかなり冷や冷やしていた。
やめてくれ、とまでは言わない。
言える立場でもない。
だが、これ以上その場が“個人的な空気”を帯びると、さすがに後が怖い。
「……わたしに、務まるでしょうか」
ようやく出たミュレットの声は、小さかった。
けれどグレン王子はすぐに頷く。
「きっと」
「……」
「少なくとも、私はそう思っています」
また、困るような言い方をする。
ミュレットは一瞬だけ俯いた。
そして考える。
クレスティアのためになるなら。
少しでも何か、よいことができるなら。
自分が動くことで、この国にとって利益があるなら。
その理屈に縋るのは、たぶん逃げでもあった。
感情で考えたくないからだ。
アランの前で、それを個人的な問題にしたくないからだ。
ミュレットはゆっくりと手を伸ばした。
差し出された招待状を、震えないように気をつけながら受け取る。
封筒の紙は、驚くほどしっかりしていた。
その重みが、そのままサンダレインからの正式な誘いの重みみたいに思える。
「……クレスティアのためになるなら」
「……」
「少しでも何か、良いことができるなら」
「……」
「わたし、行きます」
言った瞬間、庭の空気が変わった気がした。
グレン王子は、嬉しそうに目を細めた。
ディルクは、内心でそっと額を押さえた。
そしてアランは――
「……わかった」
公の場にふさわしい声で、ただそれだけを言った。
それ以上は何もない。
賛成も、反対も、感情も、全部その一言の奥へ沈めたような声だった。
それが、かえって怖かった。
そのあとの時間は、ミュレットにとってひどく曖昧だった。
夜会の準備が進み、王城内は華やかなざわめきに包まれていく。
けれど自分だけは、その華やかさの外に取り残されたような気がしていた。
夕餉の時間になっても、胸の奥は少しも静まらない。
食堂でひとり、あまり味の分からない食事を口へ運んでいると、重い靴音が近づいてきた。
顔を上げると、ディルクだった。
いつもの無表情、いつもの端正な立ち姿。
けれど、今夜はその無表情が少しだけ疲れて見える。
「ミュレット様」
「……はい」
「殿下がお呼びです」
「……」
「夕餉を終えたら、執務室へ」
それだけ告げると、ディルクはそれ以上何も言わなかった。
言わないが、その目だけがほんの少しだけ、気の毒そうに見えた。
ミュレットは、胸の奥がひやりとするのを感じる。
やはり来た。
来ないわけがなかった。
「……わかりました」
小さくそう返すと、ディルクは一礼して去っていく。
食堂の灯りが、急に遠く感じられた。
執務室へ向かう回廊は、夜になると昼より静かだ。
灯りは落ち着き、遠くで文官の声がかすかに響く程度。
けれどミュレットの心臓だけは、やけに大きな音を立てていた。
扉の前で立ち止まり、ひとつ息を整える。
「……失礼いたします」
「入れ」
返ってきた声は低かった。
静かで、整っていて、昼の庭で聞いたときと同じように感情が見えない。
扉を開けると、アランは机の向こうにいた。
書類の山はまだ残っている。
けれどもう目はそれを見ていない。
最初からミュレットだけを見ていた。
「来たか」
「……はい」
「座れ」
勧められた椅子へ腰を下ろす。
アランはしばらく何も言わなかった。
その沈黙に耐えきれなくなりそうになったころ、ようやく低い声が落ちる。
「断らないのはなぜだ」
まっすぐだった。
遠回しでも何でもない。
ミュレットは膝の上で手を重ねる。
包帯の巻かれた手が、妙に熱い。
「……断る理由が、ありませんでした」
「ある」
「……」
「少なくとも、俺にはあった」
その一言で、胸が強く鳴る。
アランは視線を逸らさない。
「行ってほしくない」
「……」
「サンダレインに」
「……」
「グレンの誕生会になど」
そこまで言われて、ミュレットは一瞬だけ息を止めた。
それは完全に私情だった。
王太子としてではなく、アランというひとりの男の声だった。
けれど、だからこそ受け止めきれない。
「……ただのお誕生会ですし」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
アランの眉が、わずかに寄る。
「ただの誕生会ではない」
「……」
「グレンが自ら言ったはずだ」
「でも」
「外交だ」
「……はい」
「外交である以上、なおさら面白くない」
その最後の言葉が、ひどく低く落ちた。
ミュレットは視線を伏せた。
困る。
そんなふうに本音を出されると、困る。
けれど、自分が返せるのはやはり別の言葉しかなかった。
「私は、グレン王子のお誘いを断ることはできません」
「……」
静かな沈黙。
次の瞬間、アランが立ち上がった。
机を回り込み、迷いなくミュレットの前まで来る。
「アラン様」
「ミュレット」
「……」
「本当に行く気か」
「……はい」
低く問われるたび、心が揺れる。
それでも、ここで感情に流されたらいけないと思ってしまう。
アランの手が伸びて、ミュレットの腕を掴んだ。
強くはない。
けれど、止めるつもりのある手だった。
「行くな」
「……っ」
「そう言えば、やめるか」
「……」
「やめるなら、いま言え」
その声は切実だった。
アランには珍しいほど、押し殺しきれない何かがそこにあった。
だからこそ、ミュレットはますます苦しくなる。
「……そういうことを、言わないでください」
「なぜだ」
「困るからです」
「困ればいい」
「……」
「俺は困っている」
その真っ直ぐさが、ひどくつらい。
ミュレットは唇を噛み、思い切るように腕を引いた。
アランの手が離れる。
「私は」
声が震える。
「グレン王子のお誘いを、断ることはできません」
「……」
「クレスティアにとって必要なら、なおさらです」
アランの目が、静かに細くなる。
「また、国を理由にするのか」
「理由ではありません」
「では何だ」
「……わたしにできることです」
言い切った瞬間、自分の声のかたさにミュレット自身が傷ついた。
これでは、まるで本当に感情がないみたいだ。
でも、そうでもしなければ耐えられなかった。
アランはしばらく黙っていた。
やがて、ひどく低い声で言う。
「そうか」
たったそれだけ。
けれど、その二文字に込められたものは重かった。
「行くなと言っても、ミュレットは行く」
「……」
「俺が行ってほしくないと告げても、行く」
「……」
「わかった」
最後の「わかった」は、昼の庭で聞いたものよりもずっと冷たく聞こえた。
ミュレットの胸が、ひどく痛くなる。
それでも、引き返すことはできなかった。
「……失礼、いたします」
そう言って立ち上がる。
アランは止めなかった。
止めなかったことが、逆に痛かった。
扉へ向かう数歩が、やけに長く感じられる。
背中へ突き刺さる視線だけが、最後まで離れなかった。
その夜、ミュレットは自室へ戻ってからもしばらく動けなかった。
行くと、自分で言った。
アランに、真正面から。
あの人の私情を、押し返すみたいに。
胸の奥はひどく苦しいのに、もう決めてしまったことは変えられない。
夜会の灯りが、窓の向こうで遠く滲んでいた。




