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グレンの花選び



グレン・サンダレインは、花を見るのが好きだった。


もちろん、それは庭に咲く花だけの話ではない。社交の場に咲く花。言葉の端に香る本音。人の視線が、ほんの一瞬だけ誰かを追う時の揺らぎ。そういうものを眺めるのが、好きだった。


クレスティア王城で開かれた晩餐会でも、目に留まる花はいくつもあった。


王都の令嬢たちは華やかだった。衣装も、宝飾も、仕草も洗練されている。グレンの周囲へ寄ってくる令嬢たちは、確かに美しく、品があり、言葉の選び方も巧みだった。


だが、その中で一番気になったのは、会場の中央で微笑む花ではなかった。


少し離れた場所で、客人の案内をしながら、会場内の小さな手伝いに奔走していた娘。没落伯爵令嬢、ミュレット。


晩餐会で案内役を務める彼女は、ただの城の手伝いにしては少し目立った。派手な装いではない。声を張るわけでもない。誰かの視線を奪おうとしているわけでもない。むしろ、本人はできるだけ目立たないようにしている。


それなのに、目に留まる。


なぜかと聞かれれば、答えは難しい。彼女はどこか、他の令嬢と違った。そうとしか言い表せなかった。


華やかな花ではない。けれど、人が踏みしめた道の端で、それでも静かに咲いている花。


面白い。


グレンは、そう思った。


晩餐会から一週間ほど経った頃、クレスティア王城にはまだサンダレインの使節団が滞在していた。表向きは親交を深めるための訪問だったが、実際には交易路の見直しや物資の融通、今後の協力体制について、細かな話し合いが続いていた。海路を持たぬクレスティアにとって、港と海運を握るサンダレインとの関係は軽くない。王城のあちこちで、サンダレインという国名が聞こえるようになっていた。


そんな中で、グレンは庭の片隅にいるミュレットを見つけた。


乾かした薬草の束を整理している姿は、相変わらず控えめだった。けれど、ただ控えめなだけではない。庭の草花に触れる手つきや、薬草を分ける目つきに、彼女が何を大切にしているのかが出ていた。


声をかけると、ミュレットは案の定、困った顔をした。


王子殿下と自分では身分が違う。自分には仕事がある。礼を受けるほどのことはしていない。彼女は、こちらが差し出したものを受け取る前に、まず断る理由を探す。


それもまた、面白かった。


だからグレンは、少しだけ芝居がかった言い方をした。海路を持たぬクレスティアにとって、港と海運を握るサンダレインは重要な相手だ。そんな王子が丁重に頼んでいるのに断られてしまうのか、と。


もちろん冗談だった。


なのに、ミュレットは本気で慌てた。港を閉じないでください、と真面目に言うものだから、グレンは思わず笑いそうになった。


この娘は、言葉を悪意として受け取るより先に、相手を困らせてはいけないと考えるらしい。


やっとのことで「一回だけなら」と頷かせた時、グレンは思わず彼女の両手を取った。喜んでみせたのは半分本心、半分は反応を見るためだった。


すると、ミュレットは頬を染めるどころか、明らかに困った顔をした。


この私、グレン・サンダレインに手を取られて、喜ぶでもなく、舞い上がるでもなく、ただ困る。


非常に面白い。


そう思った矢先だった。


背後の空気が冷えた。


振り返ると、アラン・クレスティアが立っていた。


表情は変わらない。だが、その目はグレンの手元を見ていた。ミュレットの両手を包んでいた、グレンの手を。


おお、こわっ。


グレンは心の中で、素直にそう思った。


そいつに触るな。そう言いたいのに、王太子としても、外交の場としても、それを口にできない。そんな顔だった。あの王太子がそのような表情をする様を見たのは、この時が初めてだった。


その後の茶会は、想像以上に難しかった。


庭のことを聞けば、ミュレットは答える。薬草のことを聞けば、少しだけ言葉が増える。けれど、自分自身のことになると、とたんに壁が厚くなる。


望みを聞けば、役目の話に変わる。居場所を聞けば、置いてもらっているだけだと言う。好みを聞けば、誰かの役に立つかどうかの話に戻る。


なるほど、防御が固い。


けれど、その固さは計算ではない。彼女は、自分が何かを望むことに慣れていないのだ。


そしておそらく、グレンとの茶を断りきれなかった理由も、好意ではない。


サンダレインの王子を無下にしてはいけない。クレスティアのためになるなら、自分が少し困るくらい構わない。きっと、そう考えたのだろう。


面白いが、厄介だ。


この娘は、自分を取引材料の端に置こうとする。だからこそ、あのアラン・クレスティアは苛立つのだろう。


茶会を終えてミュレットを戻したあと、グレンは遠ざかる彼女の背を見ながら、ふと先ほどのアランの顔を思い出した。


あの王太子は、おそらく彼女を止める。


「クレスティアのため」などという理屈で、他の男の茶に付き合うなと。


いや、あの男のことだ。もっと不器用に言うかもしれない。


もう行くな。断れ。困るなら俺を呼べ。


そんなところだろうか。


グレンは小さく笑った。


もしそうなら、やはり面白い。


アラン・クレスティアは、恐れられる王太子でありながら、ミュレットの前では妙に余裕がない。そしてミュレットは、その余裕のなさに気づきながら、自分へ向けられた感情の名前をまだ知らない顔をしている。


これはもう少し見ていたい。


それから、グレンは後日、正式にサンダレインへの招待状を渡した。


あの時のアラン殿下の顔も、なかなかよかった。


「……分かった」


そう言いながら、まったく分かっていなさそうだったからだ。


いや、分かってはいる。受け入れるべき理由も、外交上の意味も、全て理解しているのだろう。ただ、気に入らない。そういう顔だった。


その時、グレンの中に、ひとつの確信めいたものが浮かび上がった。


もしかして、この王太子殿下は。


ミュレットを、かなり特別に見ているのではないか。


では、彼女はどうなのだろう。


その答えは、サンダレインで少しだけ見えた。


海の見える回廊で、ある領主の話をした時のことだ。


「さっきの領主、領土の半分を失ったと言っていたけれど」


グレンは淡々と続けた。


「失った半分は、もともと奪ったものだ。アランは奪われた小国へ領土を返還させる条件として、物資生産の国有化を行った。国内外の皆が恐れる。けれど、クレスティアは兵の統率力が高い」


ミュレットは黙って聞いていた。


「あんな性格をしていても、あの男が目指す世界は、ただ平和な世界だ。戦争など、もう起こさせないと」


ミュレットは、言葉を失っていた。


それは意外だった。


アランは、彼女にそういう話をしていないらしい。何を背負い、何を見て、何を選んでいるのか。どういう世界を目指しているのか。そのあたりを、彼女に丁寧に語る男ではないのだろう。


実にあの男らしい。


「君も、そういうところを慕っているの?」


後ろには護衛の騎士たちがいる。侍女もいる。先ほどの騒ぎのあとだからこそ、皆がこの会話をひそかに聞いていた。


ミュレットはしばらく黙っていた。


海の光が、頬を照らす。風が、髪を揺らす。


それから静かに、口を開いた。


「強大すぎる力は、きっと本来、抑止のために使うものなのでしょう」


グレンはわずかに目を細めた。


「戦うのは怖い。恐れられるのも、怖い。でも、本当に大切なものを奪われてしまったら」


そこでミュレットは、まっすぐグレンを見る。


「それでも、その力を使わずにいられるでしょうか」


廊下の空気が、しんと張った。


護衛の騎士のひとりが、はっとしたように息を呑む。侍女の手も、わずかに強張った。


ミュレットは続ける。


「わたしは……戦争で、家も、家族も、領地も、失いました」


声は震えていない。けれど、その静けさの奥に、確かに痛みがあった。


「奪われる痛みを知ってしまった人に、どうして使ったのかと、責めることはできないと思います」


ミュレットは、海の向こうを見つめるように小さく目を伏せた。


「……それでも、使わなくて良い世界であったならと、願います」


グレンは何も言わなかった。


言えなかった、という方が正しいかもしれない。


その沈黙は、軽いものではなかった。目の前の娘を、改めて見直している沈黙だった。


「……大した方だ」


やがてグレンは、静かにそう言った。


ミュレットは不思議そうに顔を上げる。


「え?」


「君は、ただ静かなだけの人ではないんだね」


ミュレットは少しだけ目を伏せた。


後ろで控えていた侍女たちは、はっとした顔のまま動けなかった。護衛の騎士たちも、先ほどまで“守るべき存在”として見ていたミュレットを、今は少し違う目で見ている。


ただ庇われる人ではない。ただ儚いだけの人でもない。この人には、この人なりの強さがあるのだと、その場にいた者たち全員が、静かに思い知らされていた。


その時、グレンは確信した。


この娘は、ただの没落令嬢ではない。


社交界にいる華やかな令嬢たちとは、一線を画している。


人の痛みが分かる。そして、己の痛みさえ耐える力のある人。

本来、平和のために必要な人とは、こういった考えをもてる方なのだと。


もし、自分の妃となる人が現れるのなら——


彼女のような女性がいい。


そう思った。


だから、手の甲に口づけた。別れ際には、少し強引に抱きしめた。


グレンなりの、精一杯のアピールだった。


しかし、彼女は動揺しなかった。


いや、困りはした。驚きもした。だが、頬を染めてこちらを見ることはなかった。一瞬も、こちらへ心が傾かなかった。


グレンの脳裏に、あのアラン・クレスティアの存在が浮かぶ。


確かに。


あんなものに執着されてしまったら、こちらへ振り向いてもらうのは難しいか。


その日は珍しく、自室でひとり落ち込んだ。


そして、少し酒を飲んだ。


少し、で済んだかどうかは覚えていない。


しばらく時が経つと、驚くべき報せが入った。


帝国の動きが怪しくなってしばらくした頃、ある情報網から、ミュレットがクレスティア王城で死の間際にいた人間の傷を癒やしたと報告が届いた。


高位治癒。選別。広範囲。


茶をした時の彼女の表情を思い出す。


あの防御の固さ。自分のことを語らなかった理由。


ただ控えめだったのではない。


隠していたのだ。


程なくして、アランから会談の申し入れと、同盟に関する打診が上がった。


エルニアでクーデターを沈める。


そして、三国同盟。


アラン・クレスティアを、彼女の存在が変えた。


あの男はもともと強かった。だが、ただ強いだけの男ではなくなった。守るものの形が変わったのだ。


その中心に、ミュレットがいる。


そもそも彼女は、あれだけ私が望んで、言葉も、行動もかけたというのに、サンダレインへは来なかった。


グレン・サンダレインなど、眼中にない。


そう考えて、少しだけ悶々としていた時だった。


同盟締結後の席で、リリナ・エルニアがあっさり言った。


「合わなかったのよ」

「え?」

「あなたとミュレット」

「それはまた、ずいぶんはっきり言いますね」

「絶対合わない」

「どういうところがですか?」

「あなたは“面白さ”を追求する。ミュレットは“安心”を求める。ほら、噛み合わないじゃない」


グレンは思わず黙った。


反論しようとして、言葉が出なかった。


確かに。


非常に、確かに。


グレンは少し離れた場所にいるアランとミュレットを見た。


アランは相変わらず無表情に近い顔をしている。しかし、ミュレットが足を止めれば、自然に歩調を緩める。彼女が何か言いたげにすれば、わずかに身を傾ける。言葉は少ないのに、彼女の周りだけ、妙に空気が安定している。


アランの力と執着が、ミュレットにとっての安心だったということか。


グレンはため息を吐いた。


「私もそろそろ結婚を、と父上が嘆いているそうで」

「気が合うわね、私もよ!」


リリナが腕を組んで言う。


グレンは一瞬、彼女を見た。


「リリナ王女は、ちょっと……」

「安心して。あなた、私の好みじゃないもの」


即答だった。


グレンは胸に手を当てる。


「傷つきますね」

「嘘ね! 今、少し安心した顔をしたわ」

「見抜かれましたか」

「見抜くわよ。あなた、隠しているようで、面白いことがあるとすぐ顔に出るもの」

「リリナ王女ほどではありません」

「私は隠す気がないの」

「それは強い」

「まあでも、面白い女って……個性強くて厄介なのが多いわよ、私とか、ミュレットとか見てみなさいよ」


グレンは少し考えた。


「確かに……」

「お見合い結婚が一番の近道ね」

「では、リリナ王女は既に?」

「いいえ、私は歴史書に載るくらいの男でないと興味がないわ」

「生存している範囲でお願いした方がよろしいのでは」

「嫌よ。生きている男はだいたい面倒だもの」

「それは私への批判ですか?」

「含まれているわ」


グレンはとうとう笑った。


リリナも、少しだけ口元を緩めた。


その時、遠くでミュレットが何かにつまずきかけ、アランがすぐに手を差し出した。


ミュレットは少し照れたように、その手を取る。


アランは何も言わない。


しかし、その無言の手つきだけで、十分だった。


グレンはそれを見て、もう一度小さく息を吐く。


「……なるほど。安心、ですか」

「そうよ」


リリナはあっさり頷いた。


「あなたではないわね」

「二度言わなくても」

「大事なことは二度言うものよ」

「では、私も大事なことを言いましょう」

「何?」


グレンはにこやかに微笑んだ。


「リリナ王女も、かなり面倒な方です」


リリナは一瞬だけ黙った。


それから、にっこり笑う。


「あなたに言われたくないわ」

「気が合いますね」

「合わないわよ」

「では、退屈はしなさそうです」

「そういうところよ、グレン王子」


リリナは呆れたように言った。


グレンは笑った。


ミュレットには、届かなかった。


それは少し残念で、少し悔しくて、けれど不思議と納得できる結末だった。


彼女は面白さでは動かない。言葉の華やかさでも、手の甲への口づけでも、抱擁でも動かない。


彼女が求めていたのは、きっと。


何も言わなくても隣に立ち、怖いほど強い力で世界を断ちながら、それでも彼女の前では不器用に手を差し出すような安心だった。


それなら、仕方ない。


相手が悪い。


非常に悪い。


何しろ、アラン・クレスティアである。


グレンは笑いながら、もう一度アランとミュレットの背を見た。


ミュレットが何かを言い、アランが短く答える。それだけで、彼女は小さく笑った。


ああ。


勝てない。


そう思った。


けれど、負けたからといって、すべてが悪いわけではない。


グレン・サンダレインは、面白いものが好きだ。


そして今、目の前にはひどく面白いものがある。


断界王を変えた娘。


その娘に変えられた王太子。


そして、その周囲で新しく動き出した国々。


これを見逃すほど、退屈な王子でいるつもりはなかった。


「リリナ王女」

「何?」

「あなたの好みではないと分かって安心しました」

「失礼ね」

「ですが、退屈しない相手ではあります」


リリナは目を細める。


「それ、褒めてるの?」

「もちろん」

「信用ならないわね」

「お互い様です」


二人はしばらく睨み合い、それからほとんど同時に笑った。


遠くで、ミュレットがこちらを振り返る。


グレンはいつものように優雅に手を振った。


ミュレットも、少し不思議そうにしながら微笑み返す。


その横で、アランの視線がほんの少しだけ鋭くなった。


グレンは笑みを深める。


やはり、こわい。


そして、やはり面白い。


サンダレインの王子は、その日も変わらず、退屈とは無縁の時を過ごした。



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