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ディルクの見た春②

本編後



夜の城下町は、王城とは違う静けさを持っている。


高台の上にある王城は、夜更けてもどこか張りつめている。

灯りは落ち着いていても、見張りの交代があり、文官の足音があり、遅くまで消えない執務室の窓がある。

眠っているようでいて、決して完全には眠らない場所だ。


城下は違う。


店の戸は閉まり、通りには夕餉の名残の匂いが薄く漂っている。

どこかの家の窓から、遅い食器の触れ合う音が漏れる。

それは国を動かす音ではなく、人が暮らしている音だった。


ディルクは外套の襟を少し寄せ、石畳の坂を下った。


王城勤めの近衛が、こうして夜に城下町の自宅へ戻ることは、以前は今ほど多くなかった。

主君が若く、国そのものが不安定だった頃は、泊まり込みのような日も珍しくない。城を離れても、心だけは常に王城へ残しているようなものだった。


だが、最近はどうだ。


主君が城へ残ることと、ひとりで残ることは、もはや同じではない。


家の前へ着く。


王城から少し離れた一角にある、小さな二階家だった。

華美ではないが、きちんと手入れされている。

窓辺には小さな鉢植えが二つ置かれ、玄関脇の灯りは、帰りを待つように淡く灯っていた。


扉を開けると、あたたかな空気が迎えた。


「おかえりなさい」


妻が、奥の卓から顔を上げる。


やわらかな茶色の髪を後ろでゆるくまとめ、肩に薄いショールをかけている。

年若い頃の華やかさとは違う、落ち着いたあたたかさを持つ女だった。


「ただいま」

ディルクは短く返す。

「遅くなったわね」

「思ったより早い」

「王城基準なら、そうかもしれないけど」


そう言って妻は笑う。


その笑顔を見るたび、ああ帰ってきたのだと思う。

王城を出て、城下の坂を下り、この灯りの前へ立って、ようやく一日が終わる。


卓の上には、温め直された夕食が並んでいた。

湯気の立つスープ。

焼いた白身魚。

少し遅くなっても固くならないよう、工夫されたパン。


「先に湯を使う?」

「いや、食事を先に」

「そう。今日はちゃんと座って食べてね」

「いつも座っている」

「王城では書類を見ながらでしょう」

「……」

「図星ね」


ディルクは外套を外し、椅子へ腰を下ろした。


妻は向かいへ座り、スープの位置を少し寄せてから、自分も卓につく。

その何気ない手つきが、昔から好きだった。


しばらくは、穏やかな沈黙のまま食事が進む。


王城では、沈黙はしばしば緊張を伴う。

報告を待つ沈黙。

判断が下る前の沈黙。

誰も余計なことを言わぬための沈黙。


この家の沈黙は違う。

言葉がなくても、そこにいていいと知っている静けさだった。


スープを半分ほど飲んだ頃、妻がふと口を開いた。


「最近、あなたが帰ってくることが増えたのも、ミュレット様のおかげね」


ディルクは手を止めた。


「そうかもしれない」

「殿下が、以前よりずっと落ち着いておられるのでしょう?」

「落ち着いたというより」

ディルクは少しだけ考えた。

「帰る場所ができた、というほうが近い」


妻は小さく頷く。


「ミュレット様ね」

「ああ」


それから、少し間を置いて続けた。


「最初は小さな変化だった。花が置かれるようになった。茶器が一つではなくなった。誰かを待つようにもなられた」

「そう」

「執務室に、人が溜まるようにもなった」

「……それは大きいわね」


妻はしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。


「春が来たのね」

「そうだな」


妻は楽しそうに目を細めた。

そして、そのまま話を継いだ。


「本当にあの殿下が、ミュレット様を愛していらっしゃるのね……あなた、いつ知ったの? 街で広まったのは最近だけど……」

「最初からだ」

「最初から?」


妻の声が、少しだけ上ずった。


無理もない、とディルクは思う。

あのアラン・クレスティアが誰かを愛しているというだけでも、城下の者たちにとっては十分に驚きだろう。

まして、それが最近芽生えた感情ではなく、ずっと前からあったものだと言われれば、なおさらだ。


王城の中で日々殿下を見ていた者でなければ、おそらく気づけない。

いや、近くにいた者でさえ、気づけたかどうかは分からない。


ただ、ディルクには分かっていた。


あの方は最初から、ミュレット様を見る時だけ、少し違った。


「恐らく、殿下は一目惚れだ」

「……ひ、ひとめぼれ? あの殿下が?」

「ああ」

「つ、つまり……最初は殿下の片思いだったということ?」

「そうだ」


妻は言葉を失った。


目を丸くし、次いで口元へ手を当てる。

驚きと、好奇心と、少しばかりの笑いを堪えている顔だった。


ディルクは、その反応を見て少しだけ息を吐いた。


王城の者たちにとっては、あれは決して軽い話ではなかった。

殿下が誰かを見つめ、待ち、言葉を探し、時に判断を誤る。

それは微笑ましいだけではなく、周囲を巻き込む重大事でもあった。


それでも、こうして家の食卓で話せば、不思議と少しだけ穏やかなものに変わる。


「あの殿下が……片思い……」

妻はしみじみと呟いた。

「……私、王城にまだ勤めているんだったわ……見たかったぁ」

「やめておけ、苦労も多い」


妻はすぐに顔を上げた。


「苦労というと?」

「……ミュレット様のことになると、殿下は感情の制御ができない」

「まあ〜っ」


妻は楽しそうに声を弾ませた。


その響きに、ディルクは少しだけ口元を緩めかけた。

だが、すぐに胸の奥へ別の感情が落ちてくる。


殿下が感情を乱すほど大切にしている方。

その方が、この城にもたらしたものは、ただの春めいた空気だけではない。


自分にとっては、もっと直接的な意味を持っている。


ディルクはそこで、自分の右手へ視線を落とした。


卓の上に置かれた手。

剣を握り、馬の手綱を引き、幾度も傷を負ってきた手だ。

もう消えかけた古傷が、うっすらと残っている。


その手を、静かに見つめる。


「私の命を繋いでくれた」


低く、ほとんど独り言のような声だった。


妻の表情がやわらぐ。


「あの時のこと?」

「ああ」

「……」

「私は本来、死んでいてもおかしくなかった」


近衛たるもの、自分の傷をいちいち家で語るものではない。

そう思ってきたし、妻も無理に聞こうとはしなかった。


それでも今夜は、その名を口にすることが自然だった。


「ミュレット様が、あの時、ためらわず手を伸ばされた」

「……」

「だから私は生きている」

「ええ」

「殿下のそばに今も立てている」

「……」

「こうして家へ帰って、君と話しているのも、その先にある」


妻は何も言わなかった。

ただ、卓の上のディルクの手に、そっと自分の指先を重ねた。


「なら」

と、やわらかく言う。

「私も感謝しなくてはね」

「そうだな」


しばらく、二人の手はそのままだった。


外では、夜の風が窓辺を撫でていく。

王城では、今もどこかの灯りが遅くまで残っているのだろう。

それでも今日は、そこへ戻らなくていい。


「最近、帰ってくる回数が増えたのも」

妻が少しだけいたずらっぽく笑った。

「やっぱり殿下が、ちゃんと帰れるようになったからでしょう?」

「……否定はできないな」


妻は頷いた。


「よかったわね」

「何がだ?」

「殿下も」

「……」

「あなたも」


ディルクは、そこでようやく少しだけ口元をやわらげた。


「そうだな」


窓の外では、城下町の夜が静かに更けていく。

王城から離れたこの家の灯りは、小さい。

それでも、確かにあたたかい。


ディルクはその灯りの中で、ようやく一日の終わりに息をついた。


主君にはようやく帰る場所ができた。

自分には昔から帰る家があった。

その違いを知っているからこそ、今の変化がよく分かる。


そして、それをもたらした名を、今夜は素直に思った。


ミュレット。


城の中をやわらかく巡り、主君の名を呼び返し、この国へ春を根づかせた娘。


「……私は」

ディルクは静かに言った。

「あのお二人を、生涯お守りしたい」


妻は少しだけ目を見開いた。

それから、やわらかく微笑む。


「私も」


その一言が、灯りの下で静かに重なった。


ディルクは妻の手のぬくもりを感じながら、目を伏せる。


王城にも、城下にも、春は来ている。


その春が、今度こそ長く続くようにと。

その灯りが、二度と失われぬようにと。


彼はあたたかな食卓の向こうで、静かに願った。



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