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ディルクの見た春①

本編後



春の午後だった。


執務棟の回廊には、やわらかな光が満ちていた。

窓の外では、庭のミレイアが風に揺れている。冬の終わりにようやく芽吹いた白が、いまでは城のあちこちに静かな春の気配を運んでいた。


ディルクは報告書の束を腕に抱え、執務室の前で一度だけ足を止めた。


中から声がする。


それだけで、珍しいと思った。

しかも一人や二人ではない。女の声が二つ、男の声が一つ。低く落ち着いた主君の声は聞こえない。


昔なら、この部屋から漏れてくるのは紙をめくる音と、簡潔な命令だけだった。

用件を終えた文官は一礼してすぐ去る。近衛も報告を終えれば扉の外へ出る。必要以上に長居をする者などいない。


そういう部屋だった。


父王と王妃を失ってからのアランは、あまりにも早く王の代わりになった。

悲しみも怒りも表へ出す暇のないまま、判断を求められ、決断を迫られ、国を背負った。


この部屋もまた、それに似ていた。


暖炉に火があってもどこか冷たい。

整然としていて、隙がない。

正しく、静かで、息苦しいほどに感情が入り込む余地のない場所。


だからこそ、こうして扉の向こうから笑いを含んだ声が聞こえることが、ディルクには未だに不思議だった。


扉を叩く。


「入れ」


低い声が返る。


開けた瞬間、真っ先に飛び込んできたのは、リリナの弾んだ声だった。


「気になる女性ですって?」


その一言とともに、リリナがぴくりと身を乗り出す。

長椅子の端に腰掛けた王女は、まるで面白い獲物でも見つけた猫のような顔をしていた。


その向かいで、グレンが茶器を持ったまま苦笑する。


「リリナ王女、まだ何も言ってないよ」

「言ったも同然じゃない?」

「そんなことはないでしょう」

「あるわよ!」


隣ではミュレットが、目を丸くしてグレンを見つめる。

彼女の前にも茶器があり、机の端には白い花が小さく飾られていた。ミレイアだ。今朝、庭から切ってきたものだろう。


そして、執務机の向こうにはアランがいた。


いつものように書類へ目を落としている。

視線は動かず、口も開かない。だが完全に無関心というわけではないことは、長く仕えてきたディルクにはよく分かった。


「気になる女性、ですか」

とミュレットが静かに問い返す。

「グレン王子に、そのような方が?」


「ほら」

とリリナが指を差す。

「ミュレットまで気になってるじゃない」

「わたしは、ただ……」

「その“ただ”で人はだいたい巻き込まれるのよ」


グレンは楽しそうに肩をすくめた。


「巻き込まれるって言い方はどうなんだろうね」

「否定しないのね」

「しても無駄だからね」


ディルクは扉を閉め、報告書を抱えたままその光景を一瞥した。


執務室の中に、茶器が四つ。

リリナとグレンが当然のように居座っている。

ミュレットは困ったように笑いながらもその場に馴染んでいて、主君もそれを追い出さない。


それだけでも十分、昔とは違う。


だがもっと驚くべきことに、部屋の端にはまだ文官が二人、騎士が一人残っていた。

若い文官の一人は書類を胸に抱えたまま、明らかにもう退出の機を逃している。もう一人は、逃したというより、むしろ残って聞く気でいる顔だった。騎士も壁際に直立しているが、その目は会話のほうへちらちらと向いている。


昔ならあり得なかった。


この部屋で用が済んだあと、わざわざ残る者はいない。

残りたくないからではない。残ってよい空気ではなかったからだ。


「で?」

とリリナは畳みかける。

「どんな方なの」

「まだそこまで答える義務はないと思うけど」

「あるわよ」

「ないよ」

「あるったらあるわよ!」

「王女、強引だなあ」

「今さらでしょ?」


ミュレットは少しだけ考えるように視線を落としたあと、やがてグレンへ向き直った。


「わたし、少しだけ分かるかもしれません」

「おや?」

グレンが目を細める。

「聞こうか」

「外れていたら申し訳ないのですが」

「外れても面白いから大丈夫」


リリナはすでに満面の笑みである。


ミュレットはほんの少しだけ迷ったあと、静かに言った。


「グレン王子は、お話上手ですから」

「うん」

「表情や仕草がよく変わって、分かりやすいご令嬢が合いそうですね」

「……」

「一緒にいて退屈しなくて」

「……」

「思ったことがそのままお顔に出るような方が」


そこで、ぐ、と妙な音がした。


グレンが茶を吹きかけたのだ。


ミュレットが目を見開く。


「だ、大丈夫ですか?」

「っ……いや」

グレンは口元を押さえながら咳き込む。

「ちょっと思ったより、まっすぐ来たなと思って」


リリナは一瞬黙ったあと、とうとう吹き出した。


「ちょっと待って、ど真ん中当たってるわよ?」


ミュレットはなおも少し心配そうにグレンを見ていた。


「そうなのですか?」

「まあ、うん……」

グレンはようやく息を整え、肩を落とすように笑った。

「かなり近い」

「あらまぁ〜っ!」

リリナはますます楽しそうに手を叩き、甲高い声をあげる。

「グレン王子は、そういう方に振り回されるのがお好きなのねっ!?」

「言い方」

「でも間違っていないでしょう?」

「……まあ、そこも否定はしないかな」


その時だった。


机の向こうで、紙の擦れる音が不意に止んだ。


本当にわずかな変化だった。

アランは依然として書類を見たまま、視線すら上げない。だが、髪をかき上げようとしていた手だけが途中で止まっている。


ディルクは内心で小さく目を細めた。


主君は会話には決して入らない。

だが、聞いていないわけではない。


グレンもまた、その一瞬を見逃さなかったらしい。

口元に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。だが何も言わない。


言えばややこしくなると分かっているのだろう。

あるいは、その沈黙すら面白がっているだけかもしれない。


リリナはそこまで見抜いたうえで、あえて触れなかった。

その代わり茶をひと口飲み、面白そうにミュレットへ問い直す。


「でもたしかに、そういう分かりやすい方が合いそうね」

「はい」

とミュレットが頷く。

「少し面白みのある方でないと、グレン王子はすぐふらりといなくなりそうです」


「た、たしかに……」

リリナが満足そうに言う。

「やっぱり、王子ってまともな奴いないわね……」

「リリナ王女に言われたくないかなぁ」

「おだまりっ!」


そのやり取りを聞きながら、ディルクはゆっくりと机へ歩み寄った。


昔の執務室なら、こんな空気はあり得なかった。


主君が書類を読む。

周囲は息を詰める。

余計な一言など誰も挟まない。


文官は順番を誤らぬように言葉を選び、騎士は命令が落ちるまで動かない。

報告を終えれば一礼し、早々に退室する。


逃げるように、とは言わない。

だが少なくとも、長居したいと思える場所ではなかった。


なのに今はどうだ。


机の前には茶がある。

花がある。

ミュレットがいて、リリナがいて、グレンがいる。

しかも部屋の端では、以前なら早々に辞していた文官や騎士たちまでが、なんとなく残っている。


この場が仕事の場であることは変わらない。

決めるべきことも、報告すべきことも、山のようにある。

その上に、茶を飲みながら他愛もないことを言える空気が乗っている。


それがどれほど大きな変化か、ディルクにはよく分かった。


「殿下」

とディルクは報告書を差し出す。

「東部三領からの追加報告です」

「ああ」


短く答えたアランは、それを受け取った。


書類を開く手つきは昔と何も変わらない。

早く、正確で、無駄がない。

だが、部屋の温度はもう違う。


アランは一枚目へざっと目を通すと、低く言った。


「雪解け水で東部街道の一部が崩れたか」

「はい」

ディルクは頷く。

「橋脚も二か所、流されています。人の被害は軽微ですが、物資の流れが止まりました」

「備蓄は」

「三領とも十日は持ちます。ですが、それ以上は厳しいかと」

「……なるほど」


その声に、グレンが茶器を置いた。


「陸路が駄目なら、水路だね」

「水路?」

とミュレットが顔を上げる。

「うん。東部の河口はまだ使えるはずだろう?」

「使えなくはないが」

とアランが書類へ目を落としたまま答える。

「内陸へ上げるには、小回りの利く船が要る」

「サンダレインの浅底船なら入れるよ」

グレンはさらりと言った。

「大船は無理でも、小型なら支流の手前までいける」

「……」

「荷を分けて何往復かさせれば、街道が直るまでの繋ぎにはなる」


リリナもすぐに言葉を継ぐ。


「エルニアからは、仮設の天幕と炊き出し隊を出せるわ」

「炊き出し隊?」

とミュレットが問い返す。

「ええ。街道が切れると、まず困るのは温かい食事よ」

リリナは指で机を軽く叩いた。

「食料があっても、運べない、炊けない、配れない、で人心が荒れる」

「……」

「避難民が出るほどではなくても、村ごとの不安を抑えるの」


ミュレットは小さく頷いた。


「たしかに……薬や乾物だけでは、安心にはなりませんものね」

「そういうこと」

リリナは満足そうに言う。

「湯と食事があるだけで、人はだいぶ落ち着くわ」


グレンがさらに身を乗り出した。


「港から荷を上げるなら、積み替えの手順も必要だ」

「手順」

「王国側の役人だけでやると詰まる」

「……」

「サンダレインから荷捌きに慣れた者を数人つける。着いた荷をその場で“食料”“暖布”“補修材”に分ける」

「なるほど」

とディルクが頷く。

「そうすれば内陸へ回す優先順位が、その場で決められる」

「そう。でないと倉に積まれたまま動かない」


アランの指が書類の上で止まる。


「東部三領のうち、最も河口に近いのは第二領か」

「はい」

と、待機していた若い文官の一人がすぐ答えた。

「港の規模は小さいですが、仮の荷揚げ場は作れます」

「資材は」

「旧軍倉の木材が転用できます」

「……よし」


アランは顔を上げた。


「第二領を物資の受け口にする」

「はい」

「サンダレインへは浅底船と荷捌き役の派遣を要請する」

「承知した」

とグレンが即座に答える。

「今夜のうちに書簡を出しましょう」

「頼む」


「エルニアには」

アランは今度はリリナを見る。

「天幕と炊き出し隊、それに寒冷地用の暖布を」

「ええ」

リリナはあっさり言った。

「炊き出しは二班。天幕は村ごとに分けやすい数で送る」

「運搬は」

「こちらはサンダレインへ、早馬で届けさせる、でいいかしら?」


グレンがそこで口を開いた。


「ええ、乗員数、物資の数が決まったらご連絡を」

「分かったわ」


そこまで聞いたところで、部屋の端に控えていた騎士が一歩進み出た。


「殿下、橋の応急補修には工兵を回しましょうか」

「回せ」

アランは即答する。

「街道の完全復旧を待つ必要はない。まず人と荷が通れる幅を作れ」

「はっ」


別の文官がすでに筆を走らせていた。


「東部三領への通達文、どうまとめますか」

「“援助が入る”と先に書け」

とアランは言った。

「復旧の見込みではなく、今夜から動く支援を先に伝えろ」

「はい」

「不安を煽る文言は削れ。必要なのは、届くという事実だ」

「承知しました」


リリナが茶器を持ち上げたまま、少しだけ笑う。


「いい判断ね」


グレンが肩をすくめた。


「報告が上がって、その場で船が決まり、支援が決まり、医務班と工兵まで揃う」

「……」

「港を持つ国と、冬を越える国が、同じ部屋にいる利点だね」


その言い方に、ミュレットが小さく笑った。


「そうですね」

「でしょう?」

グレンは楽しげに目を細める。

「しかも、こういう時に一番早いのは、正式な会議より、お茶のついでの一言だったりする」

「お茶のついで、ですか」

「そう」

リリナが頷く。

「人って、席を改めると余計な見栄を張るのよ」

「リリナ王女、それはあなたもでは?」

「私は最初から見栄なんて張ってないわ」

「よく言うなあ」


ディルクはそのやり取りを聞きながら、静かに目を細めた。


これだ、と彼は思う。


昔の執務室なら、まず報告が上がる。

次に領ごとの被害整理。

その後、別の場で支援の可否を協議し、さらに他国との交渉はまた別に行われる。

決して遅くはなかったが、工程は縦に長かった。


今は違う。


報告が上がる。

その場でサンダレインの船が出る。

エルニアの天幕と炊き出しが決まる。

医務局と工兵の配置も決まる。

そして、文官も騎士も、すでにこの部屋にいる。


ただ人が溜まっているのではない。

必要な言葉と判断と手足が、ひとつの場所に自然に集まっているのだ。


「殿下」

と、先ほどまで退出の機を逃していた若い文官が言った。

「第二領の荷揚げ場ですが、地元役人だけでは整理しきれぬ可能性があります。王都から帳簿役を一人つけたほうが」

「つけろ」

「はい」

「数字が乱れると支援の足が鈍る」

「承知しました」


グレンが感心したように笑う。


「前から思ってたけど」

「何だ」

とアラン。

「君の執務室、最近は評議室より便利だね」

「昔は、こんな部屋じゃなかったわ」

とリリナがすぐ続ける。

「もっとこう、息をするだけで寒くて凍りそうな部屋だったもの」

「否定はできないかな」

とグレン。

「でも今は、ここにいるほうが話が早い」

「……そうだな」

とアランが、珍しく会話へ直接答えた。


その一言に、部屋の端にいた騎士が、ほんの少しだけ顔を上げる。

文官も、書きながら目元をやわらげた。


アランはミュレットの顔を一瞥した後、続ける。


「良い国とは、そういうものなのだろう……」


リリナが満足したように頷く。

「三国同盟、最初は正直どうなるかと思ったけど……長い付き合いになりそうね」


ミュレットが、そのやり取りに小さく笑う。


アランは書類から目を上げないまま、けれどたぶん、その笑い声をきちんと聞いていた。


「ディルク」

不意に、リリナがこちらを見た。


「何でしょう」

「あなた、さっきから妙に感心してる顔ね」

「いつも通りですが」

「そう?」

とグレンが笑う。

「いや、今日は少しだけ“よかったなあ”って顔してる」

「顔に出ていましたか」


ミュレットが小さく首を傾げる。


「ディルク様、どうかなさいましたか?」

「いえ」

ディルクは静かに答える。

「昔に比べれば、この部屋も随分賑やかになったものだと」

「……」

「そう思っただけです」


一瞬だけ、執務室が静かになった。


リリナがふっと笑う。

グレンは茶器を揺らしながら目を細める。

ミュレットだけが、少しだけ驚いたようにアランを見る。


主君はすぐには答えなかった。

だが、止まっていた手がふたたび静かに動き出す。


否定はしない。

そのこと自体が、答えのようなものだった。


ディルクは小さく一礼した。


そうなのだ。


孤独だった主君の周りに、いつの間にか人が増えた。

ただ仕える者ではなく、ただ従う者でもなく、言葉を交わし、茶を飲み、時にうるさく、だが自然にそこにいる人たちが。


そしてその中心には、ミュレットがいる。


花が咲くように。

春が染みるように。

無理に変えたのではなく、気づけばそうなっていたのだろう。


部屋の端で、若い文官がようやく息を吐く。

騎士も、緊張をほどくようにほんの少し肩の力を抜いた。


彼らもきっと分かっているのだ。


この執務室はもう、昔のままではない。


政治の中心であり、決断の場であることに変わりはない。

だが同時に、春の光が差し、花が置かれ、茶が複数あり、人が残ることで、物事がより早く、より順調に動く場所にもなった。


昔は、この部屋に春が入るとは思っていなかった。


だが今は違う。


春は庭だけに来たのではない。

あの執務室にも、たしかに根を下ろしていた。


ディルクは机の端に置かれた白い花を見た。

その向こうで、ミュレットが静かに笑い、リリナが楽しそうに茶を傾け、グレンが軽口を重ねる。

アランは一言も加わらないまま書類を読み続けていたが、追い出しはしなかった。


そのことが、何よりの答えだった。


「殿下」

とディルクは静かに言う。

「東部の件、夕刻までに整理しておきます」

「……ああ」


返る声は、低く短い。


だが、昔ほど冷たくはなかった。


ディルクはもう一度だけ一礼し、扉のほうへ下がる。

その足取りは自然と少しだけ軽い。


余計なこと。

昔なら、この部屋にとってそうだったものが、今はこの部屋を彩っているのだろう。



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