アランの片思い②
Episode 22.5
愛している。
あの日、アラン・クレスティアは、たしかにそう言った。
言うつもりのなかった言葉だった。
少なくとも、あの夜までは。
その日、ミュレットが一日だけ休暇を取って城の外へ出たことを、アランはあとから知った。彼女がすでに出立したあと、執務室でディルクから報告を受けたのだ。
朝のうちに馬で城外へ出たこと。
夕刻には戻る予定であること。
護衛はつけていないこと。
そのひとつひとつを聞いた時の、胸の奥が冷えていく感覚を、アランは今でも覚えている。
本来なら、彼女が休暇を取ること自体に口を出すべきではなかった。
ミュレットは囚人ではない。
王城に閉じ込められているわけでもない。
彼女には、彼女自身の意思がある。
城の外へ出たいと思う日もあるだろう。
ひとりになりたい時もあるだろう。
王城の空気から離れ、ただ何者でもない自分として息をしたい時もあるはずだった。
それを、アランが止める権利などない。
そう分かっていた。
だから、ただ待つしかなかった。
夕刻には戻る。
その予定だけを頼りに、アランは執務机の前に座っていた。だが、その日の書類の内容を、彼はほとんど覚えていない。
視線は文字を追っている。
手はいつも通り書類をめくる。
必要な指示も出す。
それでも、意識のどこかはずっと城門の方へ向いていた。
馬で出た。
ひとりだった。
護衛はいない。
夕刻には戻る。
何度も、頭の中で同じ情報を繰り返した。
日が傾き、城門の影が長くなり、王城に灯りが入り始めても、ミュレットは戻らなかった。
その時の焦りを、アランは誰にも見せなかった。
見せなかったが、消せもしなかった。
彼女は強い。
だが、危うい。
誰かのためなら自分を後回しにする。
困っている者がいれば足を止める。
断るべき場面で、なお相手の痛みを考える。
そんな娘が、王城の外で、ひとりでいる。
その事実だけで、胸の奥が静かに削られていった。
やがて、夜更けにミュレットは戻ってきた。
怪我をしていた。
大きな傷ではない。
命に関わるものでもない。
医務官はそう判断した。
しかしアランにとっては、それで済む話ではなかった。
彼女が傷ついた。
自分の知らない場所で。
自分の目の届かない場所で。
自分の手が届かないまま。
ひとりで血を流した。
その事実だけで、これまで押し込めていたものが音を立てて崩れた。
本当は、言わないつもりだった。
アランは知っていた。
自分がミュレットへ愛を向ければ、彼女の穏やかな日々を壊すかもしれないことを。
王太子の愛など、ただの感情では済まない。
周囲は意味を探す。
貴族たちは値踏みする。
彼女の立場は変わる。
逃げ場は狭くなる。
泣かせることもあるだろう。
苦しめることもあるだろう。
悩ませることもあるだろう。
だから、決定的な言葉だけはまだ言えなかった。
触れたいと思っても、踏み込まない。
引き止めたいと思っても、縛らない。
彼女が少しでも穏やかに過ごせるなら、それでいいと、自分に言い聞かせていた。
なのに、その夜。
怪我をして戻ったミュレットは、アランの心配を前に、不満げな顔をした。
恋人でもないのに。
その意味を含んだ表情と言葉が、最後の理性を断ち切った。
恋人でなければ、心配する資格もないのか。
恋人でなければ、引き止めてはいけないのか。
恋人でなければ、失うことを恐れてはいけないのか。
もういい。
そう思った。
どうなってもいい。
泣かせるなら、泣いたあと抱きしめる。
苦しめるなら、その苦しみごと引き受ける。
悩ませるなら、何度でも向き合う。
穏やかな日々を壊すことになるとしても、その先で必ず、自分が居場所を作る。
失うくらいなら。
この手の届かない場所で、二度と戻らないかもしれないと待つくらいなら。
愛し続ける。
どれほど拒まれても、どれほど遠ざけられても。
その覚悟が、言葉になった。
愛している。
門前で告げたその声は静かだった。
それでも、アラン自身の中では、ほとんど決壊に近かった。
そして数日が過ぎた今も、ミュレットはその言葉を受け取れずにいる。
いや、受け取っていないわけではない。
目が合うことが増えた。
医務室から戻る途中。
庭師に頼まれた花の控え札を確認している時。
回廊の窓辺で、ほんの少し足を止めた時。
アランが視線を向けると、ミュレットもこちらを見ていることがある。
目が合う。
その一瞬、ミュレットは小さく息を止めたような顔をする。
そしてすぐに、視線を伏せる。
そのたびに、アランの胸の奥には、言葉にしがたいものが残った。
目が合うということは、少なくとも彼女もこちらを気にしているのではないか。
そう考えかけて、すぐに打ち消す。
ミュレットは誰に対しても丁寧だ。
誰かの足音がすれば顔を上げる。
呼ばれると振り向く。
相手を無視することなどできない。
だから、目が合ったからといって、そこに意味があるとは限らない。
分かっている。
分かっているはずだった。
それでもアランは、気づけばミュレットを目で追っていた。
王城の日々は、表向きにはいつも通りに戻っていた。
庭師たちは朝の光の中で花壇を整え、侍女たちは回廊の花瓶を替え、文官たちは書類を抱えて静かに行き来している。
医務室にはいつもの薬草の匂いがあり、訓練場からは騎士たちの掛け声が聞こえた。
ミュレットもまた、その日常の中にいた。
医務室の手伝いをし、庭の花を見に行き、時には侍女たちに頼まれて小さな用事を引き受ける。
王城の誰もが、少しずつ彼女のいる風景に慣れ始めていた。
それは、アランにとって本来なら望ましいことだった。
ミュレットが怯えずに城内を歩けること。
誰かに声をかけられ、礼を言われ、自然に受け入れられていくこと。
彼女がこの城で、少しずつ息をしやすくなっていること。
そのはずだった。
それなのに、アランは彼女の姿を見るたび、足を止めそうになる。
だが、止めない。
呼び止めれば、何か言わなければならない。
何か言えば、あの娘は困った顔をする。
愛していると告げたあとでさえ、ミュレットはまだ、その言葉の置き場所を見つけられずにいる。
それくらいは、アランにも分かっていた。
だから、何も言わなかった。
そのはずだった。
ある朝、政務棟へ向かう回廊で、アランが歩いていくと、城の者たちが一斉に道を開けた。
文官たちが頭を下げ、侍従が壁際へ寄り、騎士たちが姿勢を正す。
その端に、ミュレットがいた。
薬草の控え札を胸に抱え、他の者たちと同じように壁際へ下がっている。
目が合った。
一瞬だけ。
ミュレットはすぐに視線を伏せ、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、殿下」
他の者たちと、同じ声だった。
同じ距離だった。
同じ礼だった。
アランは足を止めた。
周囲の空気が、わずかに張る。
ミュレットが不思議そうに顔を上げる。
「……殿下?」
アランは何も言わなかった。
言えば、きっと責める言葉になる。
なぜ、他の者と同じように呼ぶ。
なぜ、同じように頭を下げる。
なぜ、あの日の言葉を聞いたあとも、何も変わらない顔をする。
そんなことを、この回廊で言えるはずがない。
アランは短く息を吐き、ただ言った。
「……おはよう」
「はい」
ミュレットはもう一度礼をして、医務室の方へ歩いていく。
その後ろ姿を、アランは見送った。
胸の奥に、静かな苛立ちが残る。
違う。
苛立ちではない。
焦りだ。
そう認めるのが、ひどく不愉快だった。
次の日の午後も、似たようなことがあった。
晩餐会で使った花の控え札を整えていた文官が、ミュレットへ深く頭を下げた。
「先日は助かりました、ミュレット様。これ、医務室の皆さまで召し上がってください」
小さな包みを差し出され、ミュレットは少し困ったように微笑む。
「ありがとうございます。でも、私は少し手伝っただけですので……」
「いえ、ぜひ」
「では、皆でいただきますね」
そのやりとりは、何もおかしなものではなかった。
ただ、ミュレットは誰に対しても同じように丁寧だった。
断る時も、受け取る時も、相手を傷つけないように言葉を選ぶ。
その柔らかさが、アランには時折、遠さに見えた。
やわらかい拒絶。
曖昧で、相手を傷つけない言葉。
アランは少し離れた場所で、それを聞いていた。
文官は深く礼をして去っていく。
ミュレットはほっとしたように小さく息をついた。
その顔を見て、アランは自分でも分からない感情を持て余した。
彼女が断ったことに安堵した。
だが、その断り方を、自分も知っている。
あれは、誰にでもする顔だ。
誰にでもする声だ。
誰にでも向ける、角の立たない逃げ道だ。
では、自分は。
アランは、その問いを胸の奥へ押し込めた。
まだ言うな。
急がせるな。
ミュレットは、まだ受け取れない。
そう分かっていたから。
その夕方、アランは医務室から戻るミュレットを呼び止めた。
「ミュレット」
彼女が振り返る。
「はい、殿下」
その呼び方に、また胸の奥が軋んだ。
殿下。
他の者と同じ。
「茶を飲まないか」
ミュレットは目を瞬いた。
「……え」
「疲れているように見える」
「あ……いえ、大丈夫です」
「少しでいい」
「でも、医務室に戻らないと」
「急ぎか」
「急ぎ、というほどではありませんが……」
ミュレットは困ったように視線を泳がせた。
そして、言った。
「ま、また今度に……」
その瞬間、アランの中で何かが沈んだ。
また今度。
騎士へ向けた言葉。
文官へ向けた言葉。
誘いをやわらかく遠ざける時の言葉。
自分にも、同じ言葉を使うのか。
アランは何も言わなかった。
言えば、止まらなくなる気がした。
ミュレットはその沈黙に不安そうに目を揺らす。
「……あの、殿下」
「……分かった」
低く言うと、ミュレットは小さく肩を震わせた。
それでも彼女は礼をして去っていく。
アランは、その背を見送ることしかできなかった。
そして、決定的なことが起きた。
翌日の夕方。
以前、医務室の前でミュレットに声をかけていた若い騎士が、また彼女を呼び止めた。
訓練中に腕を負傷し、医務室でミュレットに手当てを受けた者だ。
まだ若く、整った顔立ちをしている。騎士らしい明るさもあり、悪意があるわけではないのだろう。だが、その分だけ距離の詰め方がまっすぐで、危うかった。
王太子の言葉を知らなかったわけではないはずだ。
それでも、正式な婚約でも、恋人として公に認められたわけでもない。先日、ミュレットが「また声をかけてもよい」と頷いたこともあって、都合よく勇気を得てしまったのかもしれない。
あるいは、ただ若さゆえに、胸に芽生えた憧れを抑えきれなかったのかもしれない。
「ミュレット様」
回廊の端で呼び止められ、ミュレットは足を止めた。
「はい」
「先日は、ありがとうございました。腕の具合も、もうすっかりよくなりました」
「それはよかったです」
ミュレットは穏やかに微笑んだ。
その笑みに、騎士の頬がわずかに赤くなる。
アランは少し離れた場所で、そのやりとりを見ていた。
また、あの男か。
胸の奥に、低く冷たいものが落ちる。
本来なら、ただの礼で終わるはずだった。
しかし騎士は、そこで一歩踏み込んだ。
「それで、その……お礼をしたくて」
「お礼、ですか?」
「はい。城下に、評判の良い菓子店があるんです。よろしければ、今度ご一緒に」
ミュレットが困ったように瞬く。
「お気持ちだけで十分です。私は医務室の手伝いをしただけですから」
「でも、ミュレット様だから助かったんです」
騎士は、さらに一歩近づいた。
「本当に。あなたが声をかけてくださった時、痛みも不安も少し楽になりました」
ミュレットは少し後ろへ下がる。
騎士は気づいていない。
「ですから、どうしても直接お礼をしたくて」
「ですが……」
「一刻だけでも構いません。お忙しければ、ほんの少しで。城下が難しければ、庭でも」
そこまで言われて、アランの目がわずかに細くなった。
庭でも。
城内ならよいとでも思ったのか。
ミュレットは完全に困っていた。
それでも、彼女は相手を傷つけるような拒み方ができない。
「……また今度、機会がありましたら」
やわらかな声だった。
逃げ道を残す言葉。
角を立てない拒絶。
騎士は、その意味を正しく受け取らなかった。
「本当ですか?」
ミュレットの表情が、わずかに強張る。
「い、いえ、その……」
「では、いつならご都合がよろしいですか。明日でも、明後日でも」
若い。あまりに若い。
そして、あまりに空気が読めていない。
アランは足を踏み出しかけた。
だが、その前にミュレットが小さく礼をした。
「申し訳ありません。今は、少し予定が分かりませんので」
「では、分かりましたら」
「……はい。また」
また。
その言葉を残して、ミュレットは逃げるように回廊を曲がった。
そして、曲がった先でアランと目が合った。
「……っ!」
ミュレットは声にならない声を漏らした。
アランは何も言わなかった。
ただ、見ていた。
ミュレットの顔から、すっと血の気が引いていく。
「ア、アラン様……」
その呼び方に、苛立ちがほんの少しだけ揺らぐ。
だが、収まらない。
ミュレットは明らかに動揺していた。
そのまま、何かから逃げるように身を翻す。
「し、失礼します……!」
「ミュレット」
呼んでも、止まらなかった。
ミュレットは小走りになった。
アランは一拍遅れて追う。
回廊を曲がる。
人の少ない渡り廊下を抜ける。
ミュレットは足が速いわけではない。
それでも必死に逃げているのが分かった。
逃げるな。
そう思った瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走る。
なぜ逃げる。
なぜ、自分から逃げる。
愛していると言った。
言ったのに。
アランは一気に距離を詰めた。
「ミュレット」
再び呼ぶ。
ミュレットは振り返らない。
そのまま角を曲がった先で、行き止まりに近い小さな回廊へ入り込む。
窓と飾り棚だけがある、ほとんど使われていない場所だった。
ミュレットがそこで立ち止まる。
逃げ場がないと気づいたのだろう。
振り返る。
怯えたような、困ったような、泣きそうな顔だった。
アランは足を止めなかった。
一歩、近づく。
ミュレットが下がる。
さらに一歩。
背中が壁に触れる。
アランは、彼女の顔の横へ手をついた。
逃げ場を塞いだ。
ミュレットの肩が震える。
近い。
あまりに近い。
だが、もう離れることはできなかった。
「俺は何をしたらいい」
声が、思ったより低く出た。
ミュレットの瞳が、大きく揺れる。
「……え」
「何が足りない」
「アラン様……?」
「目の色か? 髪の色か?」
ミュレットが息を呑む。
アランは眉間に深く皺を寄せたまま、言葉を止められなかった。
「変えられるものなら、何でも変える」
自分でも馬鹿げていると思った。
目の色を変えたところで、髪の色を変えたところで、何かが変わるわけではない。
だが、それでも聞かずにはいられなかった。
他の男と何が違う。
何が足りない。
なぜ、曖昧に遠ざけられる。
なぜ、同じ言葉で拒まれる。
「どうすれば、逃げなくなる」
今度の声は、少し掠れた。
ミュレットは、ただ目を見開いている。
頬が赤い。
しかし、怯えだけではない。
困惑と、動揺と、何かを必死に押し隠すような色がある。
「だ、だめとかでは、なく……」
か細い声だった。
「では、なぜ逃げる」
「だって……!」
ミュレットはそこで言葉を詰まらせた。
目元が揺れる。
指先が、胸の前でぎゅっと握られている。
「ど、どう考えても……私は、アラン様のお側には、分不相応です!」
「……何がだ」
「アラン様には、もっと……あの、たとえば、エルニアの王女殿下方とか……ルヴェリエ侯爵家のセラフィーナ嬢とか、もっと、政治的に有益な方がたくさん……」
言葉が終わる前に、アランの拳が壁を打った。鈍い音が、狭い回廊に響く。
ミュレットの肩が、びくりと揺れた。
アラン自身も、息を止めた。
怒鳴るつもりはなかった。
怖がらせるつもりもなかった。
それでも、今の言葉だけは聞き流せなかった。
他の女を選べ。
ミュレットが、自分にそれを言う。
愛していると告げたこの口に、他の名を並べる。
その事実が、胸の奥を荒く掻き乱した。
「……愛していると、言ったのに」
声が震えた。
ミュレットが顔を上げる。
「……他の女を選べと」
声が、掠れていた。
「それだけは、言われたくなかった……」
「アラン様……」
「俺が欲しいのは、ミュレットだ」
アランは、逃げ場のない距離でミュレットを見下ろした。
「それを、他でもないミュレットが否定するのか」
「そ、そういう意味では……」
「その上で、ミュレットは先ほどの男と逢瀬に行くのか?」
「逢瀬ではありません……」
「二人きりで会うなら、それはもう逢瀬だ」
「……約束も、していません」
「また、と言った」
ミュレットが言葉を失う。
アランは、壁についた拳に力を込めた。
「また、と言っただろう」
「……では」
ミュレットの声が、小さく震えた。
「私は、どうしたらいいのですか……」
その言葉に、アランはようやく息を吐いた。
ミュレットは目を伏せていた。
逃げ場を失ったからではない。
どう答えればよいのか、本当に分からない顔だった。
アランは、胸の奥の荒さを押し殺しながら言った。
「また今度」
「……」
「今は忙しい」
「……」
「それは、断る時の言葉だ」
ミュレットは唇を噛んだ。
アランは続ける。
「俺にも、同じように言うのか」
ミュレットは少しのあいだ黙っていた。
それから、消え入りそうな声で言った。
「……同じでは、ありません」
「……」
「他の方に言う時は、ただ……困らせないように、傷つけないようにと思っています」
「……」
「でも、アラン様に言う時は」
そこで声が途切れる。
アランは待った。
ミュレットは顔を赤くしたまま、ほとんど泣きそうな声で続けた。
「本当は、断りたくないから……困るんです」
息が止まった。
アランは、その言葉をすぐには理解できなかった。
いや、理解した瞬間に、今度は自分が動けなくなった。
本当は、断りたくない。
その一言だけで、胸の奥にあった苛立ちが崩れていく。
「……そうか」
短い声が落ちる。
ミュレットは小さく肩を震わせた。
今度の「そうか」は、きっと隠せていなかった。
安堵も。
喜びも。
どうしようもないほどの執着も。
アランは壁についた手を少し緩めた。
「なら、次からはそう言え」
「言えません……!」
「なぜだ」
「恥ずかしいからです!」
ミュレットはとうとう、両手で顔を覆った。
その仕草を見て、アランはまた黙る。
先ほどまでの苦しさとは違うものが、胸の奥に広がっていく。
厄介だ。本当に、厄介だ。
この娘は、逃げる。
曖昧にする。
目を逸らす。
それなのに、時々こんなふうに、こちらの息を止めるようなことを言う。
アランは低く息を吐いた。
「ミュレット」
「……はい」
「明日、茶を飲む」
「……」
「また今度ではなく、明日だ」
ミュレットは顔を覆ったまま固まった。
「……それは、命令ですか」
「違う」
アランは少しだけ考えた。
それから、低く言う。
「逢瀬に、誘っている」
ミュレットの指の隙間から、瞳がこちらを見る。
赤くなっている。
潤んでいる。
逃げたいのに、逃げられない顔だった。
長い沈黙のあと、ミュレットは小さく頷いた。
「……少しだけなら」
アランは目を細める。
「分かった」
先延ばしでもない。
本当に、明日の約束だった。
ミュレットはそれに気づいたのか、ますます顔を赤くする。
アランはようやく壁から手を離した。
逃げ道を戻す。
けれど、ミュレットはすぐには動かなかった。
アランも動かない。
ただ、近すぎる距離だけが残っている。
やがてミュレットが、小さく言った。
「……アラン様」
「何だ」
「目の色も、髪の色も」
「……」
「変えなくて、いいです」
アランは息を止めた。
ミュレットは顔を伏せたまま、続ける。
「そのままが、いいです」
それだけ言うと、ミュレットは今度こそ逃げるように走り出した。
アランは追わなかった。
追う必要はなかった。
明日の約束がある。
それだけで、今は十分だった。
回廊には、静かな夕暮れの光が差している。
アランはしばらくその場に立ち尽くしていた。
胸の奥に残っていた苦い焦りは、完全には消えていない。
それでも、ほんの少しだけ形を変えていた。
片思いとは、面倒なものだ。
そう思いながら、アランは彼女が消えた回廊を、まだ見ていた。




