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アランの片思い①

Episode 4.5



最近、殿下とよく目が合う。


ミュレットがそれに気づいたのは、王城での日々に、ほんの少しだけ慣れ始めた頃だった。


医務室から戻る途中。庭師に頼まれて花の控え札を確認している時。回廊の窓辺で、ほんの少し息をついた時。


ふと顔を上げると、アラン・クレスティアがいる。


黒い衣。静かな立ち姿。何も言わず、ただこちらを見ている王太子。


目が合う。


その一瞬、ミュレットの胸が小さく跳ねる。するとアランは、ほんのわずかに視線を動かし、何事もなかったように別の方へ歩いていく。


……今、見ていらっしゃいましたよね。


ミュレットは小さく瞬いた。


いや。


違う。


そう決めつけてはいけない。


アラン・クレスティア殿下は王太子である。政務もある。貴族への対応もある。城内の誰もが恐れるほど、多忙で、冷静で、無駄のない方だ。


そんな方が、没落伯爵家の娘で、城の片隅で手伝いをしているだけの自分を、わざわざ目で追うなど。


ない。


あるはずがない。


そう思おうとした。


思おうとした、という時点で、もうミュレットは薄々分かっていた。


自分は、そこまで鈍くない。


アランが他の者を見る時と、自分を見る時の目が少し違うこと。呼び止める時の間が、少しだけ迷っていること。何かを言いかけて、結局「今日の予定は」と尋ねたり、「庭へ行くのか」と、ただ行き先を確かめるだけで終わったりすること。


そういう小さな違いに、気づかないほど鈍くはない。


ただ、気づいてしまったものを、どう扱えばいいのか分からなかった。


殿下が。


自分を。


まさか。


考えれば考えるほど、胸の奥が落ち着かなくなる。


だって、そんなことがあるはずがない。あってはいけない。


自分には、まだ言えないことがある。隠している力がある。この城にいてよい理由さえ、確かなものではない。


それなのに、あの人の視線に意味を見つけてしまったら。


自分のほうが、どうしたらいいのか分からなくなる。


だからミュレットは、気づかないふりをした。


気のせいです。


たまたまです。


殿下は、きっと何か別のことを考えていらしただけです。


そう自分に言い聞かせた。


なのに、その日の午後。


医務室から図書室へ薬草書を取りに向かう途中で、また視線を感じた。


回廊の向こう。柱のそば。


アランがいた。


目が合う。


「……」

「……」


アランは何も言わない。ミュレットも何も言えない。


数秒の沈黙のあと、ミュレットはぺこりと会釈した。アランも、ほんのわずかに頷いた。


それだけだった。


それだけのはずだった。


ミュレットは前を向き、歩き出す。


気のせいです。


気のせい。


殿下が私を見ていたわけではありません。


たまたま同じ回廊にいらしただけです。


こつ。


後ろで足音がした。


ミュレットは止まった。


足音も止まった。


「……」


ミュレットはまた歩く。


こつ。


後ろでも歩く。


ミュレットは少しだけ速く歩いた。


こつ、こつ。


後ろの足音も、少しだけ速くなる。


……。


つ、ついてくる……!


ミュレットは心の中で叫んだ。


いや、違う。


そんなはずはない。


殿下が自分についてくるなど、あるはずがない。同じ方向なのだ。きっと同じ方向。


王城は広い。回廊はいくつもある。たまたま向かう先が同じということも、もちろんある。


そう。


たまたま。


ミュレットは角を曲がった。


図書室へ向かうには少し遠回りの、あまり人の通らない回廊だった。


こつ。


アランも曲がった。


ついてきている。


完全についてきている。


ミュレットの背筋に緊張が走る。


いや、でも、もしかすると殿下もこちらに用があるのかもしれない。


この先には図書室がある。閲覧室もある。季節外れの花瓶が置かれているだけの飾り棚もある。


……殿下が飾り棚に用があるとは思えない。


ミュレットはさらに早足になった。


ほとんど小走りである。


こつ、こつ、こつ。


後ろの足音も、一定の速さでついてくる。速すぎず、遅すぎず。


完全に、追跡の足音だった。


なぜ。


私は何か、殿下に失礼なことをしてしまったでしょうか。


先ほど、目が合った時の礼が遅かった? 呼び止められた時に、返事が小さすぎた? それとも、昨日の回廊で、殿下のお言葉をうまく聞き取れずに聞き返してしまったことが、無礼だった?


いや、でも。


あの時の殿下は、怒っているようには見えなかった。


……いえ、殿下は怒っていても分かりにくい方でした。


混乱しながら、ミュレットは図書室の扉へたどり着いた。


ほとんど逃げ込むように中へ入る。そして、扉を閉める前に、ちらりと後ろを見た。


アランがいた。


黒い衣。静かな顔。まるで最初からここへ来る予定だったような顔。


ミュレットは固まった。


「あ、あの……殿下も、図書室へ……?」


アランは当然のように答えた。


「ああ」

「ご用が、おありで……?」

「ああ」

「どのような……」


アランは少し黙った。


そして、低く言う。


「本を見に来た」


図書室なので、それはそうだった。


それ以上ないほど正しい答えだった。


だが、何かが違う。


絶対に何かが違う。


とはいえ、そう言い切れるほどの証拠はない。


図書室に本を見に来た。


それは、たしかにおかしな答えではなかった。図書室なのだから。


ミュレットはどうにか自分を納得させるように、小さく頷いた。


「……そうなのですね」


それ以上、深く聞く勇気はなかった。聞いてしまったら、何か余計なことまで分かってしまう気がした。


ミュレットは胸に抱えていた資料を持ち直し、自分の用事を片づけることにした。


今日は医務室で頼まれた薬草書だけでなく、少し古い物語集も探すつもりだった。


医務室にいる子どもが、退屈そうにしていたのだ。薬の匂いばかりの部屋で、少しでも気が紛れるものがあればいいと思った。


図書室の奥へ進む。薬草書の棚を過ぎ、歴史書の棚を抜け、日当たりのやわらかな窓辺近くにある物語系の書棚へ向かう。


そこで、ミュレットは目当ての背表紙を探し始めた。


古い童話集。旅の記録。英雄譚。小さな子どもにも読み聞かせやすそうな、挿絵の多い本。


「ええと……」


背表紙を一つずつ追っていた時だった。


すぐ後ろに、気配があった。


ミュレットの手が止まる。


ゆっくり振り返る。


アランがいた。


黒い衣。静かな顔。何事もなかったように、物語の棚の前に立っている。


ミュレットは一瞬、言葉を失った。


「……殿下も、ここに用が……?」


問いかけると、アランは黙った。


かなり、黙った。


図書室の静けさが、やけに長く感じられる。


ミュレットはその沈黙の中で、ますます困惑した。


物語の棚である。


薬草書ではない。政務に必要な本でも、おそらくない。


それとも、王太子殿下も物語を読むのだろうか。


いや、読んでもおかしくはない。


おかしくはないが。


なぜ今。


なぜ自分の真後ろに。


そう思っていると、アランがようやく低く言った。


「…………上の方は届かないだろう」


ミュレットは瞬いた。


上の方。


言われて、書棚を見上げる。


たしかに、目当ての本らしき背表紙は、かなり高い場所にあった。ミュレットが背伸びをしても、ぎりぎり届くかどうか分からない高さだ。


「……あ」


気づいてしまった。


本当に届かない。


アランはそれを最初から見ていたのだろうか。


いや。


そんなはずは。


そんなはずはない。


ミュレットは慌てて背筋を伸ばした。


「だ、大丈夫です。踏み台を使いますので」

「危ない」


即答だった。


「いえ、図書室の踏み台ですし、危なくは……」

「危ない」


二度言われた。


しかも、声が少し低い。


ミュレットは踏み台へ向かおうとしていた足を止めた。


アランはそのまま、棚の前へ一歩近づく。


近い。


本棚とアランのあいだに挟まれるほどではない。すぐ隣に立たれると、妙に逃げ場がない。


「どれだ」

「え?」

「取る本だ」


ミュレットは反射的に棚を見上げた。


「……あの、上から二段目の、青い背表紙の本です」


アランはすぐに視線を上げた。そして何の苦もなく手を伸ばし、ミュレットが必死に背伸びしても届かなかった本を、あっさりと抜き取る。


長い指が背表紙にかかる。


本が棚から離れる。


それだけの動きなのに、ミュレットはなぜか目を逸らせなかった。


「これか」


差し出された本を見て、ミュレットは小さく頷いた。


「……はい。ありがとうございます」


受け取ろうと手を伸ばす。


その瞬間、指先が少しだけ触れた。


ほんの一瞬だった。


なのにミュレットの胸は、ひどく大きく跳ねた。


アランは、すぐには手を離さなかった。


本の重みが、二人の手の間に残る。


ミュレットは息を止める。


近い。


ただ、本を取ってもらっただけだ。


高い棚の本を取ってもらっただけ。


それなのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。


「……他には」


低い声が落ちる。


ミュレットは目を瞬いた。


「え?」

「必要な本は」

「い、いえ。今の一冊で十分です」

「そうか」


アランはようやく本から手を離した。

ミュレットは本を胸に抱える。


鼓動がまだ速い。


だめです。


これは親切です。


背の届かない本を取ってくださっただけです。


殿下は背が高いので。


ただ、それだけです。


そう自分に言い聞かせる。


それなのに、先ほどの沈黙を思い出してしまう。


あの長い間。


それから、少し苦しそうに出てきた言葉。


――上の方は届かないだろう。


まるで、何とか理由を探して、ようやく見つけたみたいだった。


ミュレットは本を抱えたまま、そっと目を伏せた。


気づいてはいけない。


気づいたら、きっと困る。


なのに最近、殿下は少しおかしい。


そして、自分も少し、おかしい。


「……ありがとうございます、アラン様」


そう言うと、アランの視線が少しだけ動いた。


「ああ」


短い返事だった。


いつものように低く、静かで、そっけない。


その声が、ミュレットにはほんの少しだけやわらかく聞こえた。


それが気のせいなのかどうか、やはりまだ、確かめる勇気はなかった。


それからも似たようなことは何度かあった。


庭の花を確認していると、回廊の向こうにアランがいる。医務室の前で薬草の籠を抱えていると、ふと近くを通りかかる。書庫へ向かおうとすれば、なぜか同じ方向へ歩いている。


最初は偶然だと思った。


次は、もしかしてと思った。


三度目には、もうミュレットにも分かってしまった。


殿下は、こちらを見ている。


そしてたぶん、用がないのに近くへ来ている。


そう気づいた時、ミュレットは廊下の柱の陰で、両手で顔を覆いたくなった。


だめ。


だめです。


考えてはいけない。


アラン様の行動に意味を見つけてはいけない。


そう思えば思うほど、逆にアランの姿が目に入る。


低い声。静かな足音。必要最小限の言葉。


そのどれもが、以前より近く感じられてしまう。


ミュレットは困っていた。


本当に困っていた。


嬉しい、と思ってはいけないのに。


少しだけ嬉しいと思ってしまう自分が、一番困る。


そんなある日のことだった。


医務室からの帰り道、ミュレットは若い騎士に声をかけられた。


「ミュレット様」


振り返ると、見覚えのある騎士が立っていた。


訓練中に腕を負傷し、医務室で手当てをしたことのある青年だった。まだ若く、整った顔立ちで、騎士らしい明るさがある。


「はい」

「先日は、ありがとうございました。腕の具合も、もうすっかりよくなりました」

「それはよかったです」


ミュレットはほっとして微笑んだ。


自分が手当てした相手が元気になったのを見るのは、やはり嬉しい。


騎士はその笑みに、少しだけ頬を赤くした。


「ミュレット様に手当てしていただいたおかげです」

「私は医務室のお手伝いをしただけですから」

「でも、あなたが声をかけてくださった時、本当に安心しました」


真っ直ぐな言葉だった。


悪意はない。むしろ、素直な感謝なのだろう。


ミュレットは少し照れながらも、どう答えればよいのか迷った。


「それで、その……」


騎士は少しだけ視線を伏せ、それから意を決したように顔を上げる。


「ミュレット様が嫌でなければ、また声をかけてもいいでしょうか」


それくらいなら、断る理由はなかった。


怪我をした時に手当てをした相手だ。声をかけられて困るようなこともない。


ミュレットはほっとして、素直に頷いた。


「はい!」


その声は、思ったより明るく出た。


騎士の顔が、ぱっと嬉しそうになる。


「ありがとうございます」

「いえ。お身体、無理なさらないでくださいね」

「はい。また、お話しできたら嬉しいです」

「はい」


ミュレットは小さく礼をして、その場を離れた。


本当に、ただそれだけのやりとりだった。


少なくとも、ミュレットにとっては。


だが、回廊を曲がった瞬間。


目の前に、アランがいた。


「……っ!」


ミュレットの肩が跳ねた。


黒い衣。静かな立ち姿。いつものように整った顔。


しかし、空気が静かではない。


冷たいというより、重い。


ミュレットは一瞬で悟った。


聞かれていた。


どこからかは分からない。


だが、絶対に聞かれていた。


「ア、アラン様……」


アランは何も言わなかった。ただ、こちらを見ている。


ミュレットの胸が、どきどきと嫌な音を立てる。


だめよ、ミュレット。


落ち着きなさい。


アラン様は嫉妬なんてしない。


アラン様は嫉妬なんてしない。


アラン様は――


「何を話していた」


めっちゃ不機嫌。


ミュレットは心の中で頭を抱えた。


終わった。


何が終わったのかは分からないが、とにかく何かが終わった。


「え、ええと……先日のお怪我の具合を」

「それだけか」

「そ、それから……」

「それから」


低い。


声が低い。


ミュレットは目を泳がせた。


正直に言ってよいのか。言わないほうがよいのか。


どちらにしても、もう遅い気がする。


「また、声をかけてもよいかと……」

「……」


沈黙。


ものすごく長い沈黙。


ミュレットの表情が、だんだん不安そうになっていく。


「あ、あの……いけませんでしたか……?」


アランはすぐには答えなかった。


やがて、低く言う。


「好きにしろ」


好きにしろ、という声ではなかった。


絶対に好きにしてほしくない声だった。


ミュレットは困った。


とても困った。


「怒って、いらっしゃいますか」

「怒っていない」

「……」


嘘だ。


ミュレットは思った。


絶対に嘘だ。


だが、それを口に出せるはずもない。


反射的に一歩下がろうとして、すぐに思い直した。


逃げるように見えてはいけない。


普通に。


落ち着いて。


何事もなかったように、この場を離れればいい。


「で、では、私はこれで……」


小さく礼をして、その場を離れようとする。


しかし、慌てていたせいで足元を見ていなかった。


回廊の端に置かれた花器の台座。


そのわずかな段差に、つま先が引っかかる。


「あ……っ」


身体が前へ傾いた。


抱えていた資料が腕の中でずれ、白い紙がばさりと音を立てる。


まずい。


このままでは、回廊の床に倒れ込む。


そう思った時には、もう遅かった。


次の瞬間、強い腕が前から伸びた。


肩と背に回される。


倒れ込むはずだった身体が、ぐっと引き止められた。


落ちた資料が床に散る。


ミュレット自身は、床ではなく、黒い衣の胸元に受け止められていた。


「……っ」


息が止まった。


近い。


近いどころではない。


顔のすぐそばに、アランの衣の布地がある。


自分の肩に、彼の手がある。


背中を支える腕は強く、少しも揺らがない。


「危ない」


低い声が、すぐ上から落ちてきた。


ミュレットは返事ができなかった。


心臓がうるさい。


さっきまで騎士と話していた時とは、まるで違う。


また声をかけてもいいでしょうか。


そう言われた時には、ただ安心しただけだった。


元気になってよかった、と。


なのに今は。


ただ転びそうになって、支えられただけなのに。


どうして、こんなに息ができないのだろう。


アランはすぐには手を離さなかった。


一呼吸。


もう一呼吸。


それからようやく、腕の力が少しだけ緩む。


「立てるか」

「……は、はい」


声がかすれた。


ミュレットは慌てて身体を離そうとした。


その前に、足元の資料へ目がいく。


「し、資料が……」

「あとで拾え」

「で、でも」

「先に立て」


言われて、ミュレットはようやく自分がまだ支えられたままだと気づいた。


顔が熱い。


まともにアランを見られない。


「す、すみません……」

「謝ることではない」


いつものように短い返事だった。


それなのに、その声は少しだけ低く、近い。


怒っているのか。心配しているのか。


それとも。


そこまで考えて、ミュレットは慌てて目を伏せた。


だめ。

だめです。


これはただ、転びそうになったところを助けてくださっただけ。


殿下は、危ないところを見過ごさなかっただけ。


それ以上の意味はない。


意味を見つけてはいけない。


そう思うのに、肩に残った手の感触が消えない。


支えられた熱が、まだそこにある気がする。


アランはようやく手を離すと、床に落ちた資料を拾い上げた。


何枚か乱れた紙を整え、ミュレットへ差し出す。


「持てるか」

「……はい」


ミュレットは両手で受け取った。


指先が震えないように、必死だった。


「ミュレット」


低い声に呼ばれ、肩が揺れる。


「はい」

「足元を見ろ」

「……はい」


ただの注意。


本当に、それだけ。


それなのに、ミュレットの胸はまた跳ねた。


アランは何も言わない。


ただ、こちらを見ている。


さっき若い騎士へ向けていた笑みとは違うものを、自分は今、アランに向けられている。


その事実に、気づいてしまいそうになる。


最近、殿下とよく目が合う。


気のせいではないのかもしれない。


それどころか、本当は、最初から分かっていたのかもしれない。


アランが自分を見ていること。


声をかける理由を探していること。


あの静かな目の奥に、言葉にならない何かがあること。


ただ、受け取るのが怖かった。


受け取ってしまえば、自分の心まで動いてしまう気がした。


そして、もう戻れなくなる気がした。


ミュレットは資料を抱え直し、深く頭を下げる。


「……失礼します」


今度こそ、回廊を歩き出す。


背後からアランの足音はしなかった。


けれど、見られていることは分かった。


分かってしまった。


その視線を、以前ほど怖いとは思わなくなっていることも。


少しだけ怖くて。


少しだけ、嬉しいことも。


そう思った自分に一番驚きながら、ミュレットは胸元の資料をぎゅっと抱え直した。



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