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セラフィーナの親交会②



私の名前は、セラフィーナ・ルヴェリエ。


ルヴェリエ侯爵家の長女であり、王都でもそれなりに名の通った、由緒正しき令嬢である。


そして私は、かつてあのアラン・クレスティア殿下との親交会に臨み、見事に敗れた女でもある。


いや、敗れたという表現は正しくない。そもそも、勝負の場にすら立てていなかった。


こちらが紅茶を褒めても、返ってくるのは「ああ」。焼き菓子を褒めても、「そうか」。勇気を振り絞って「ではまた昼食でも」と申し上げれば、殿下はそれを私への誘いではなく、今後の親交会の運営改善案として処理なさった。


あの日、私は学んだ。


顔が良くても、会話が成立しない殿方は無理。王太子でも無理。どれほど顔が良くても、無理なものは無理。


——そのはずだった。


なのに今、私は王城の春の庭で、信じがたい光景を目撃している。


「……え?」


思わず声が漏れた。


白い花の咲く庭の向こう。回廊の影に、アラン・クレスティア殿下が立っている。そして、その向かいにはミュレット様。


殿下は、何かを言った。短い言葉だった。たぶん、いつものように低く、簡潔で、無駄のない言葉だったのだろう。


すると、ミュレット様がふっと笑った。


笑ったのだ。困って笑ったのではない。愛想笑いでもない。ちゃんと会話の流れの中で、自然に笑った。


私はその場で固まった。


「お嬢様?」

「静かに!」

「は、はい」

「大変なものを見ているのよ」

「大変なもの、でございますか」

「ええ。歴史的瞬間よ」

「はあ」


後ろに控えていた侍女は、よく分かっていない顔をしていた。無理もない。私の親交会を見ていない者には、この衝撃は分からない。


あの殿下に、会話の往復が発生している。しかも、ミュレット様は怖がっていない。媚びてもいない。無理に場を盛り上げようともしていない。


なのに、噛み合っている。


私は息を呑んだ。


——本当にいたのね。あの方と会話の通じる相手が。


その日は、王城で開かれる春の慈善茶会だった。地方の孤児院や療養院へ寄付を募る、たいへん立派な催しである。


表向きは。


実際には、王都中の令嬢たちが「ミュレット様をひと目見たい」「できれば覚えていただきたい」「もっと言えば、少し微笑んでいただきたい」という願望を胸に秘めて集まっている。


以前なら、皆が見ていたのはアラン殿下だった。冷酷な王太子。断界王。近づきがたい、美貌の殿下。


なのに、今は違う。


皆が見ているのは、殿下の隣にいるミュレット様だ。王城の庭を見守り、傷ついた者を救い、あの殿下に人間らしい顔をさせた令嬢。


いったい何をどうしたら、あの壁のような殿方が、あのようになるのか。


私はどうしても、この目で確かめたかった。


そして茶会がひと段落した頃、ついに機会は訪れた。


庭の一角。人の流れが少し途切れたところで、ミュレット様がひとりになった。


正確に言うと、ひとりではない。少し離れたところに護衛はいる。もっと離れた回廊には、ディルク様まで立っている。つまり、全然ひとりではない。


だが、少なくとも声をかけても不自然ではない距離だった。


私は侯爵令嬢としての矜持を胸に、そっと一歩を踏み出した。そして、二歩目でその矜持を置いていく。


ここで上品に遠回しな会話をしていては、一生聞けない。


私は覚悟を決めた。


「ミュレット様」


声をかけると、ミュレット様は振り返った。


「あ……」


それから少し考えるように目を瞬かせ、やわらかく微笑む。


「ルヴェリエ侯爵令嬢」


ちゃんと名前を呼んでくださった。その時点で、私は少し感動した。


覚えてくださっている。優しい。あの殿下とは違う。


いや、比べるのは失礼かもしれないが、違うものは違う。


「ごきげんよう、ミュレット様」

「ごきげんよう。本日はお越しくださって、ありがとうございます」

「いえ、それはもう。こちらこそ光栄ですわ」


そこまでは、完璧だった。侯爵令嬢として、何ひとつおかしくない挨拶だった。


だが次の瞬間、私は前のめりになっていた。


「それで、ミュレット様」

「はい?」

「あなた、あの殿下のどこをお好きになりましたの!?」


ミュレット様が固まった。


見事に固まった。


春の風が吹き、白い花が揺れ、少し離れた場所の護衛が小さく咳払いをした。


だが、私は止まれなかった。


「い、いえ……! 失礼なことを申し上げている自覚はありますの」

「は、はい……」

「殿下が素晴らしい方であることも存じております! お強いですし、王太子として立派ですし、お顔もたいへんよろしいです」

「……そ、そうですね」

「ですが!」


私は一歩、前へ出た。


「紅茶を褒めても“ああ”」

「……」

「焼き菓子を褒めても“そうか”」

「……」

「勇気を出して昼食をご一緒にと申し上げたら、私へのお誘いではなく、親交会の運営改善案として処理なさるような方ですのよ!?」

「……そ、そうでしたか」


ミュレット様は口元へそっと手を当てた。笑ってはいけない、と思っていらっしゃるのが分かる。


だが、肩が震えている。


「ですから、ぜひ教えていただきたいのです」

「ええと……何をでしょう」

「どこで好きになりましたの!?」

「そ、それは……」


ミュレット様の頬が、ふわりと赤くなった。


その反応を見た瞬間、私は悟った。


これは、ある。答えがある。しかも、相当深いところにある。


私は完全に前のめりになった。


「やはり、顔ですの!?」

「……いえ」


少し間があった。


私は見逃さなかった。


「今、少し間がありましたわ」

「ありません」

「顔も! 含まれておりますわね?」

「……少しだけ」

「正直でよろしいですわ!」


ミュレット様はそこで、心底困ったように視線を落とした。


両手の指先を胸の前で重ね、どう答えるべきか迷っている。顔は赤い。耳まで赤い。けれど、その恥ずかしさの奥に、隠しきれないやわらかさがある。


好きな人の話をする顔だ。


ああ、これは聞いてはいけないものを聞いているのではないか。


そう思った。


思ったが、もう遅い。


私はここまで来てしまったのだ。


「お顔だけではありません」

「ええ、そこが知りたいのですわ」


ミュレット様は困ったように目を伏せた。それから、少しだけ考えて、静かに言う。


「アラン様は、不器用ですが……わたしを安心させるために、いつも真剣に言葉を選んでくださるんです」

「真剣に、言葉を、選ぶ!?」


顔が良い。強い。王太子。


それだけなら、王都中の令嬢が知っている。


でも、ミュレット様が見ていたのは、そこではなかった。


つまり、ミュレット様に対してだけ、言葉を選んでいると。


あの殿下が。あの「ああ」「そうか」「分かった」の三連打だった殿下が。


「それから……」


ミュレット様はさらに顔を赤くした。


「お話ししていて、楽しいところ……とか」


沈黙が落ちた。


私は雷に打たれたような衝撃を受けた。


お話ししていて、楽しい。


あの殿下と。


紅茶を褒めても「ああ」の殿下と。焼き菓子を褒めても「そうか」の殿下と。昼食の誘いを施策にした殿下と。


お話ししていて、楽しい。


恋とは、なんと深遠なものなのだろう。


その時だった。


背後から、低い声が落ちてきた。


「何の話だ」


私は肩を跳ねさせた。


ミュレット様の顔が、見る間に赤くなる。


……今のを聞かれていた。


どこから。どこからですの。


せめて「顔も含まれておりますわね?」の前であってほしい。


いや、むしろそこだけ聞かれていたら、それはそれで最悪である。


「ア、アラン様」


ミュレット様が呼ぶ。


その声の柔らかさに、私はまた衝撃を受けた。同じ名前を呼んでいるだけなのに、私の記憶にある親交会の空気とまるで違う。


アラン殿下はミュレット様を見て、それから私を見た。


「殿下のどこがお好きなのかと伺っておりました」

「セラフィーナ様……っ!」

「そして、ミュレット様は顔が好きと仰いました」

「そこだけ言わないでください……!」


ミュレット様は両手で顔を覆った。耳まで真っ赤になっている。


アラン殿下は、しばらく黙った。それから、ミュレット様だけを見て、低く問う。


「……顔、なのか」


そこを確認なさるのか。


私は思わず天を仰ぎそうになった。


ミュレット様は顔を覆ったまま、小さく震えている。


「い、今そこを確認なさらないでください……!」

「重要だ」

「重要ではありません!」

「ミュレットは、俺の顔がいいのか」


私は、聞き逃さなかった。


俺。


アラン・クレスティア殿下は、公の場では基本的に「私」と仰る方だ。王太子として、隙のない言葉を使う。親交会の時もそうだった。冷たく、短く、丁寧で、距離のある「私」。


それなのに今、ミュレット様にだけ、当たり前のように「俺」と言った。


私は胸の中で、さらに何かが崩れる音を聞いた。


違う。本当に、違うのだ。


この方は、ミュレット様の前では、あの時の壁ではない。


「アラン様……!」


ミュレット様が抗議するように呼ぶ。


アラン殿下の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


私は、それも見逃さなかった。


今、笑った。


ほんの少し。ほとんど無表情と言われればそうかもしれない。


だが、親交会で壁と向かい合った私には分かる。


あれは笑った。


「他には」


アラン殿下が続ける。


ミュレット様が、おそるおそる指の隙間から顔を上げた。


「……お話ししていて、楽しいところ……です」


再び沈黙が落ちた。


次の瞬間、ミュレット様は耐えきれず、そばの卓に手をついて俯いた。


私はさらに衝撃を受ける。


お話ししていて、楽しい。


しかも本人の前で言った。


なんという勇気。


なんという愛。


なんというお花畑な二人。


アラン殿下はそんなミュレット様を見て、またわずかに口元を緩めた。


「そうか」


その声は短かった。


だが、今度の「そうか」は、以前の親交会で聞いた「そうか」とは明らかに違っていた。


あの時の「そうか」は、焼き菓子を褒められた時の、ほとんど壁の返答だった。


今の「そうか」は違う。


嬉しいのを隠しきれていない。


隠しきれていないのに、本人だけが隠せていると思っている。


私は胸に手を当てた。


ああ。


そういうことなのだ。


この方は、もともと冷たいだけの人ではなかったのだろう。ただ、届けたいと思う相手がいなかった。届け方を知らなかった。そして今、その相手が目の前にいる。


……それにしても、親交会の時にその一割でも発揮していただきたかった。


その時、少し離れたところから、穏やかな声がした。


「おもしろい話をしていますね」


私はそちらを振り向いた。


回廊の柱の陰から、ひとりの青年が歩み出てくる。やわらかな青い髪が、春の光を受けて淡くきらめいていた。


海を思わせる明るい色合いで、王城の落ち着いた華やかさの中でも不思議とよく映える。華やかすぎるわけではないのに自然と目を引き、王族らしい品があるのに、近寄りがたさより先に親しみやすさを感じさせる人だった。


すぐに分かった。


サンダレイン第一王子、グレン殿下だ。


三国の盟約以降、王城に出入りする機会が増えたとは聞いていたが、こうして近くで見るのは初めてだった。


私は慌てて礼を取る。


「ご挨拶が遅れました。ルヴェリエ侯爵家のセラフィーナにございます」


グレン殿下は、やわらかく微笑んだ。


「グレン・サンダレインです。こちらこそ、失礼しました。たいへん興味深いお話が聞こえたものですから」


そこまでなら、とても王族らしい挨拶だった。


だが、次の瞬間、私はなぜか口を開いていた。


「ええ。やはりミュレット様は、アラン殿下のお顔が好きだそうです」


ミュレット様が、声にならない悲鳴のような息を漏らした。


そして、そのまま近くの椅子へ崩れるように座り込み、両手で顔を覆う。耳まで真っ赤だった。さらに俯いた先に小さな丸卓があったため、ほとんど卓へ突っ伏すような格好になる。


「セラフィーナ様……もう……」


小さな抗議が聞こえた。


たいへん申し訳ない。


だが、ここまできたら仕方がない。


グレン殿下は一瞬だけ目を丸くしたあと、たいへん楽しそうに微笑んだ。


「それは重要な情報ですね」

「でしょう?」

「王都の令嬢方にとっても、大きな学びでしょう」

「ええ。主に顔と会話がよろしいそうで」

「なるほど。顔は入口。会話と忍耐が継続条件、と」

「的確ですわ」

「セラフィーナ様……!」


ミュレット様が、卓へさらに沈んだ。


もう会話に入る気配はない。入れないのだろう。完全に限界を迎えている。


その横で、アラン殿下が静かに口を開いた。


「他に何か言っていなかったか」


そこを聞くのか。


私は思わずアラン殿下を見た。


殿下は真顔だった。まったく笑っていない。


いや、親交会で壁と向かい合った私には分かる。これはかなり知りたがっている顔だ。


私は背筋を伸ばした。


「ええ。殿下は、いつも真剣に言葉を選んでくださる、と」


ミュレット様が、また一段階、卓へ沈んだ。


もう顔が見えない。耳だけが赤い。


アラン殿下はしばらく黙った。それから、ごく短く言う。


「そうか」


その声も、私の知っている「そうか」ではなかった。


焼き菓子を褒めた時の「そうか」ではない。会話を終わらせるための「そうか」でもない。


嬉しいのを隠しきれていない。


隠しきれていないのに、本人だけが隠せていると思っている。


私は胸に手を当てた。


「なるほど……これは、相当ですわね」


グレン殿下が、隣で小さく笑った。


「相当ですね」

「グレン殿下にも分かりますの?」

「ええ。アラン殿下は、ミュレット様が関わると分かりやすいので」

「分かりやすい……?」


私は思わずアラン殿下を見た。


正直に言う。


私には、まだかなり難しい。親交会の時の殿下が壁だとするなら、今の殿下は、ほんの少しだけ花が咲いた壁である。壁であることには変わりないが、たしかに変化はある。


グレン殿下は、にこやかに続けた。


「たとえば今の“そうか”は、かなり機嫌がよい時のものです」

「まあ」

「先ほどの“何の話だ”は、気になっているが自分から聞くのは不自然だと思っている時ですね」

「まあまあ」

「そして、今ミュレット様の方を見ていらっしゃるのは、できればもう少し聞きたいが、これ以上聞くと逃げられると理解している顔です」

「そこまで分かりますの!?」


アラン殿下の目が、わずかに細くなった。


「余計なことを言うな」

「失礼しました。ですが、セラフィーナ嬢には必要な解説かと」

「とても助かりますわ」

「ほら」

「ほら、ではない」


会話が続いている。


しかも、軽い。


ぽん、と投げれば、ぽん、と返ってくる。


私は少し感動していた。


アラン殿下と会話を成立させるだけでもすごいのに、グレン殿下はその横で、私の言葉まで拾って返してくださる。


なんということ。


会話とは、本来こういうものだったのか。


紅茶を褒めれば香りの話が返り、焼き菓子を褒めれば店の話が返り、失言をすれば軽く笑って受け止められる。


壁ではない。


返ってくる。


しかも、少し楽しい。


「グレン殿下」

「はい」

「殿下は、親交会などでは、どのようにお話しなさるのですか?」

「私ですか?」

「はい。参考までに」


グレン殿下は少し考える。


「まず、相手の名前を呼びます」

「まあっ」

「次に、来てくださったことへ礼を言います」

「たいへん自然ですわ」

「それから、相手が話題にしたものを一つ拾って、返します」

「完璧ですわ!」


私は思わず両手を握った。


完璧である。


これこそ親交会。


これこそ会話。


私の求めていたものだ。


グレン殿下は少しだけ肩を震わせていた。笑いを堪えているのだと分かった。


「そこまで褒められるほどのことではありません」

「いいえ、とても大切なことです。顔だけでは一生を決められませんが、会話が返ってくる顔の良い方なら、かなり前向きに検討できます」


言ってから、私は固まった。


今、自分は何を口走ったのか。


顔の良い方なら、かなり前向きに検討できます?


誰を?


何を?


私は一気に頬が熱くなるのを感じた。


「い、いえ、今のは一般論ですわ!」

「もちろん」

「本当に一般論です!」

「ええ。たいへん参考になる一般論でした」


グレン殿下は穏やかに微笑んでいる。


だが、その目の奥が少し楽しそうなのは気のせいではない。


この方、分かっていて言っている。


なかなか油断ならない。


アラン殿下とは別の意味で危険だ。


アラン殿下は壁。


グレン殿下は、こちらが投げた球を受け止め、磨いて、花を添えて返してくる。


それはそれで、心臓に悪い。


その時、卓に突っ伏していたミュレット様が、とうとう顔を上げた。


頬は真っ赤で、目元まで潤んでいる。


「もういいですから!」


その声に、私もグレン殿下も、そしてアラン殿下までもがミュレット様を見た。


ミュレット様は立ち上がると、両手で赤い頬を押さえたまま、小さく頭を下げる。


「もう、本当に、十分です……! セラフィーナ様、グレン様、どうかこの話はここまでにしてください……!」

「ミュレット様、私はまだ少しだけ」

「だめです!」

「では、最後にひとつだけ。殿下のお顔以外で一番好きなところは」

「だめです!!」


今度こそ、ミュレット様は逃げるように歩き出した。


護衛が慌てて動き、少し離れていたディルク様まで顔を上げる。


ミュレット様は足早に茶会の会場の方へ戻っていった。その後ろ姿は、どこか可愛らしく、どこか必死だった。


アラン殿下は、その背をしばらく見ていた。


そして。


ほんのわずかに、笑った。


私はまたしても見逃さなかった。


あれは笑った。


あの、壁だった殿下が。


ミュレット様の逃げていく背中を見て、確かに笑ったのだ。


その横で、グレン殿下も同じものを見ていたらしい。


ふと視線が合った。


自然に。


あまりにも自然に、目が合った。


グレン殿下は、何も言わず、ただ少しだけ笑った。


私も、なぜか言葉が出なかった。


その一瞬で、分かってしまった。


たぶん、今、同じことを思った。


——ああ、本当に、変わったのですね。


そう思ったのだ。


言葉にしなくても、通じた気がした。


そのことに、私は少し驚いた。


会話が返ってくるだけではない。


目が合っただけで、少しだけ分かる。


もしかしたら。


本当に、もしかしたら。


この方とは、少し波長が合うのかもしれない。


そう思った瞬間、私は慌てて視線を逸らした。


早い。


早すぎる。


私は一度、王太子の顔で痛い目を見ているのだ。


ここでまた、顔と会話に釣られてはならない。


たとえグレン殿下が爽やかで、話しやすくて、こちらを見て名前を呼んでくださって、失言まで面白く返してくださる方でも。


……かなり多いわね、良い点が。


私は小さく咳払いをした。


「……本日は、大変勉強になりました」


グレン殿下が微笑む。


「何を学ばれましたか?」


私は少し考え、真剣に答えた。


「愛と忍耐、相槌の分類、そして会話が返ってくることの尊さですわ」

「最後が一番切実ですね」

「ええ。たいへん切実です」


春の風が吹き、白い花が揺れる。


遠くで、ミュレット様がまだ赤い顔でこちらを振り返り、アラン殿下に何か言われてさらに慌てているのが見えた。


私はそれを見て、心から思った。


あの壁のようだった王太子殿下にも、ちゃんと会話の通じる相手が現れた。


そして、その相手は、ただ忍耐強いだけの令嬢ではなかった。言葉の少ない人の奥にあるものを、急かさず、恐れず、けれど諦めずに見つけた人なのだ。


私は庭を歩き出す。


少し後ろから、グレン殿下の声がした。


「セラフィーナ嬢」

「はい?」

「先ほどの一般論ですが」

「どの一般論でしょう」

「顔だけでは一生を決められないが、会話が返ってくる顔の良い方なら前向きに検討できる、という」

「……お忘れくださいませ」

「大切な教えだと思います」

「本当にお忘れくださいませ」

「では、今後の外交訓に」

「私の発言を施策にしないでくださいませ!!」


言ってから、私ははっとした。


同じだ。


あの日と同じ言葉を、また言ってしまった。


けれど今度は、魂が抜けなかった。


グレン殿下が笑っている。


私も、少し笑ってしまった。


歩きながら、ひとり小さく呟く。


「……やっぱり、私はお喋りな方のほうが好みですわね」


その結論だけは、何ひとつ変わらなかった。


ただし。


会話が返ってくる殿方にも、別の意味で注意が必要だということを。


私はこの日、たいへんよく学んだのである。



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