リリナの忠告
Episode 108.5
帝都での決戦から、二日。
接収された内城の一室では、各国の使者や文官たちが慌ただしく行き交っている。
停戦の実務。
捕縛した帝国幹部の処遇。
各地に残る術式網の解体。
残党の捜索。
やるべきことは山ほどあった。
リリナがその日探していたのは、文書でも会議でもなかった。
アランだった。
彼は廊下の奥、人気の少ない窓辺に立っていた。
すでに帰還の準備は進んでいる。
それでも、出立までのわずかな時間すら惜しむように、何かの報告書へ目を通している。
本当に、腹立たしいほど隙がない。
リリナは足音を隠さず近づいた。
「少し、話があるわ」
アランは顔を上げた。
「ミュレットのことか」
「ええ」
即答すると、アランは手にしていた文書を閉じた。
「分かった」
そのあまりに落ち着いた返事に、リリナは少しだけ眉を寄せる。
「……あなた、私が何を言うか分かってる顔ね」
「おおよそは」
「腹が立つわね」
リリナは腕を組んだ。
窓の外では、傷ついた帝都の街並みが静かに広がっている。
結界を失った空は、少しだけ広く見えた。
リリナはその景色を一度だけ見てから、改めてアランへ向き直った。
「本来、ミュレットは文化性や国民性を思えば、私の国で暮らすべきよ」
アランは黙っていた。
リリナは続ける。
「エルニアには、彼女の力を神聖視して閉じ込めるような教会も、信仰の文化もない。奇跡だとか、聖女だとか、そういう言葉で人を祭り上げる土壌がないの」
「……」
「あの子の力を“奇跡”として囲おうとする者は、もちろんどこの国にも出るでしょう。でも、少なくともエルニアなら、クレスティアほど重い意味を背負わせずに済む」
アランの表情は変わらない。
だから余計に、リリナは苛立った。
「ねえ、アラン・クレスティア」
声が少し低くなる。
「あなた、あの子の何が良いの?」
アランがようやく、わずかに目を動かした。
リリナは逃がさないように畳みかける。
「そんなにミュレットじゃないとだめな理由って何?」
窓辺の空気が、ほんの少しだけ冷える。
だがリリナは引かなかった。
「エルニアで攫われかけた、なんて言い訳はさせないわよ。護衛でも何でもつける。王城の奥に閉じ込めるって意味じゃない。あの子が、あの子のまま息をできる場所を用意するって意味」
「……随分と、気に入っているんだな」
静かな声だった。
リリナは一瞬だけ言葉に詰まった。
「…………なによ」
思っていた返答と違った。
もっと焦ると思っていた。
怒ると思っていた。
牽制してくると思っていた。
なのに、アランはただ静かにこちらを見ている。
リリナは唇を尖らせた。
「もうちょっと焦りなさいよ」
「なぜだ」
「なぜって……!」
この男は、本当に。
リリナは大きく息を吸った。
「ミュレットは、あなたには話せなくて、女である私にしか話せないことなんて、たっっくさんあるんだからね!?」
「分かっている」
「分かっている!?」
「ああ」
「分かっているなら、少しは動揺しなさい!」
「それは、ミュレットに必要なことだ」
リリナは言葉を止めた。
アランは続ける。
「俺に話せないことがあるなら、話せる相手がいるほうがいい」
「……」
「それがリリナなら、悪くない」
その言い方に、リリナは一瞬だけ胸を突かれた。
だが、すぐに立て直す。
「そして、質問の内容を逸らすな!」
「逸らしていない」
「逸らしてるわよ! 答えなさい!」
アランは少しだけ黙った。
それから、低く言った。
「お前が、ミュレットをそう思うからだ」
リリナは目を見開いた。
「……っ!?」
「それに、城でミュレットが関わる人間の顔を見れば分かる」
「……」
「そこにいるだけで、息がしやすくなる者がいる」
「……」
「傷を癒やされた者だけではない。庭師も、侍女も、医務官も、近衛も、文官も」
「……」
「皆、ミュレットを見ている時の顔が違う」
アランの声は低く、静かだった。
けれど、その言葉には迷いがなかった。
「お前がそれに気づいていないとは思わなかったが」
「うっ……」
リリナは言葉に詰まり、胸を押さえた。
気づいている。
気づいているに決まっている。
ミュレットが部屋に入るだけで、張りつめた空気が少しだけやわらぐこと。
あの子が笑うと、周囲の者がほっとすること。
守りたい、と思わせるだけではなく、自分も何かを返したいと思わせること。
全部、分かっている。
分かっているからこそ、腹が立つのだ。
「うるさいなぁ〜! 分かってんのよ!」
リリナは思わず叫んだ。
「分かってるわよ! あの子がどれだけ人に好かれる子かも、どれだけ無茶をする子かも、どれだけ自分のことを後回しにする子かも!」
「……」
「だからこそ、私は納得いかないの!」
リリナはびしりとアランを指差した。
「とにかく、私はこんな無愛想な男をミュレットが選んだってことが、いまだに! 納得いかないの!」
「……」
「普通もっと分かりやすくて、話しやすくて、笑顔が多くて、気軽にお茶に誘えて、焼き菓子を褒めたら会話を返せる男を選ぶでしょ〜っ!」
アランの眉が、わずかに動いた。
リリナは止まらない。
「ミュレットは外から見たら控えめで、きれいな子だけど、中身はあんなに可愛いのに!」
「……」
「もっとふさわしい男がごろごろ……」
そこで、アランの空気が変わった。
ほんの少しだけ。
だが、リリナには分かった。
冷えた。
「ちょっと」
リリナはすぐに片手を突き出した。
「……想像してイライラするのやめなさいよ」
「していない」
「してるわよ。今、頭の中で何人か斬ったでしょ」
「斬ってはいない」
「斬っては、てなに!?」
アランは答えなかった。
答えないのが答えだった。
リリナは額に手を当てる。
「分かりにくいくせに、独占欲だけは分かりやすいの何なのよ」
「……」
「ミュレットが他の男に褒められる想像だけでその顔になるなら、最初からもっと大事に、分かりやすくしなさいよ!」
「大事にはしている」
「分かりやすく!」
「……努力する」
一拍置いて出てきたその言葉に、リリナは少しだけ目を丸くした。
努力する。
アラン・クレスティアが。
あの無愛想で、冷徹で、戦場では断界王と恐れられていた男が。
努力すると言った。
リリナは、ほんの少しだけ口を閉じた。
「……あの子も、厄介な男に目をつけられたわね」
アランは黙った。
リリナは腕を組んで待つ。
逃がさない。
絶対に逃がさない。
やがて、アランは窓の外へ視線を向けた。
「ミュレットが」
その声は、先ほどよりわずかに低かった。
「愛想をつかさないよう、必死でやっている」
リリナは黙って聞いていた。
アランは続ける。
「そうできるのは、彼女だけだ」
アランの声が、ほんの少しだけやわらぐ。
「だから、ミュレットでなければだめだ」
リリナは何も言えなかった。
腹立たしい。
本当に腹立たしい。
無愛想で、分かりにくくて、必要な言葉をなかなか出さないくせに。
こういう時だけ、まっすぐ言う。
「……それを本人に言いなさいよ」
「言っている」
「もっと言いなさいよ」
「……分かった」
「その“分かった”は信用していいやつ?」
「そうだ」
「……本当になんでこんな男なのよ……」
リリナが言い返した、その時だった。
「まあまあ。そのあたりで!」
背後から、穏やかな声がした。
振り返ると、グレン・サンダレインが廊下の向こうから歩いてくるところだった。
いつからいたのか。
リリナは一瞬だけ目を細める。
「グレン」
「はい」
「どこから聞いていたの」
「普通もっと分かりやすくて話しやすい男を選ぶでしょ、あたりから」
「ほぼ全部じゃない!」
グレンはいつもの柔らかな笑みを浮かべたまま、軽く肩をすくめた。
「立ち入るつもりはなかったのですが、廊下までよく響いていましたので」
「それは私の声が大きいって言いたいの?」
「たいへん情熱的だった、という意味です」
「言い換えればいいと思ってるでしょ」
「外交です」
アランが低く言う。
「便利な言葉だな」
「はい、よく使います〜!」
グレンはさらりと答え、それからリリナへ視線を戻した。
「リリナ王女。お気持ちは分かりますが、そろそろミュレット様が心配されます」
「……」
「それに、アラン殿下も一応、反省はしているようです」
「一応?」
「ええ、一応」
「そこは強く言い切りなさいよ」
「断言すると、あとで責任が発生しますので」
リリナはじとりとグレンを睨んだ。
グレンは涼しい顔だ。
アランは何も言わない。
その沈黙に、リリナは深く息を吐いた。
「本当に、面倒な男ね」
「否定はしない」
アランが答える。
リリナは呆れたように笑った。
グレンは小さく笑う。
「ですが、その面倒なところごと選ばれたのでしょう」
「それが納得いかないって言ってるの」
「納得できないだけで、認めてはいる」
「……」
リリナは黙った。
グレンは本当に、余計なところを拾う。
アランとは別の意味で腹立たしい。
リリナはしばらく沈黙したあと、アランへ向き直った。
「いい?」
「何だ」
「あなたが政務にかまけて、ミュレットがエルニアにまた家出してきたりしたら……」
リリナは少しだけ目を細める。
「二度と返さないから!」
それから、わざとらしく顎を上げた。
グレンが、今度こそ声を立てて笑う。
「お二人とも、そのあたりで」
そして、二人を見比べ、穏やかに言った。
「では、結論としては」
「何よ」
「リリナ王女は、ミュレット様が大好きで」
「……」
「アラン殿下も、ミュレット様が大好きで」
「……」
「どちらも心配で仕方がない、ということでよろしいですねっ!」
リリナは顔を赤くし、むっと目を凝らした。
「まとめ方が雑!」
「大筋は合っています」
「合ってるけど雑!」
「外交では、時に要約も必要です」
「便利すぎるわ、その言葉!」
アランは静かに窓の外を見ていた。
その口元が、ほんの少しだけ緩んでいるように見えた。
リリナはそれを見て、むっとする。
「何笑ってるのよ」
「笑っていない」
グレンがまた、まあまあと片手を上げた。
「そこまでにしましょう。アラン殿下は出立の準備もあります」
「分かってるわよ」
リリナはそう言いながらも、最後にもう一度だけアランを見た。
「アラン・クレスティア」
「何だ」
「あの子を、ちゃんと幸せにしなさい」
「ああ」
即答だった。
その返事だけは、少しも迷いがなかった。
リリナはしばらくアランを見て、それから小さく息を吐く。
「……本当に、そこだけは腹が立つほど迷わないのね」
グレンが穏やかに笑った。
「そこが、一番大事なところでは?」
リリナは何も返さなかった。
ただ、窓の外の帝都を見た。
崩れた塔。
消えた結界。
これから立て直される街。
そして、そこから帰っていく一人の娘。
ミュレットは、平和の象徴になるかもしれない。
人々は彼女の力を求めるかもしれない。
国は、彼女を必要とするかもしれない。
リリナは、知っている。
あの子は、象徴である前に、ひとりの娘だ。
泣けば目を赤くして、褒められれば照れて、好きな男の前では驚くほど可愛く笑う。
そんな、ただの女の子なのだ。
だから、守らなければならない。
国としてではなく。
王女としてだけでもなく。
友人として。
アランがこちらを見る。
リリナは少しだけ笑った。
「選んだなら、仕方ないわね」
それだけ言うと、リリナは踵を返した。
グレンが隣に並ぶ。
「よろしいのですか?」
「何が」
「攫わなくて」
「今はね」
「今は」
「ええ。今は」
グレンは楽しそうに目を細めた。
「では、将来の選択肢として残しておきましょう」
「あなたも意外と物騒ね」
「外交です」
「それ、絶対に使い方間違ってるわよ」
そんなやりとりをしながら、二人は廊下を歩いていく。
背後では、アランがまだ窓辺に立っていた。
きっとこのあと、何事もなかったような顔でミュレットのもとへ行くのだろう。
そして、相変わらず言葉少なに、しかし誰より確かに、彼女のそばに立つのだ。
リリナは前を向いたまま、少しだけ唇を尖らせた。
グレンが隣で微笑む。
春ではない帝都の風が、廊下を抜けていく。
リリナは、王女だった。
国を背負い、民を見て、時に友の手を離さなければならない立場にいる。
それでも。
あの子が泣きそうな顔で笑うたびに、思うのだ。
平和とは、誰か一人を祀り上げることではない。
その人が、ちゃんと人として笑える場所を守ることなのだと。




