いちばん楽しい時間
Episode 111.5
秋の陽は、もうやわらかかった。
その日、ミュレットは朝から茶会に出ていた。
招かれたのは、王都でも名のある家の令嬢たちばかりだった。
終戦からまだ日が浅い王城では、花や菓子を前にした穏やかな席であっても、そこで交わされる言葉がただの雑談だけで終わることはない。
どの家が、今後どの立場を取るのか。
王家と、どれほど距離を詰めるつもりなのか。
そして、王太子の婚約者となったミュレットに、どこまで近づいてよいのか。
茶器の音は軽やかで、菓子は甘い。
けれど、微笑みの奥では、誰もが慎重に相手の出方を見ていた。
それでも、今日の茶会は比較的やわらかなほうだった。
庭のこと。
秋の花のこと。
王都に新しくできた店のこと。
途中からは、どの家の侍女が焼く菓子がいちばんおいしいかという話にまでなった。
ミュレットは丁寧に笑い、相手の話を聞き、言葉を返し、茶会を終えた。
その頃。
王城の別棟では、アランがひとりで昼食に手をつけていた。
本来なら、今日はミュレットと昼食を共にするはずだった。
だが、令嬢たちとの茶会が長引き、その後も軽い立ち話が続いていると、侍女から伝えられていた。
卓の向かいは空いたまま。
温かな料理はきちんと用意されているのに、部屋の中は妙に静かだった。
パンを取り、スープを飲み、ふと視線が正面の空席へ向かう。
ミュレットがいれば、たいてい最初に湯気を見て、少し目をやわらげる。
熱ければ少し困った顔をするし、焼き色のきれいな菓子があれば、小さく嬉しそうに笑う。
そんな細かなことを、いつの間にか当たり前に見ていたのだと、アランは今さら知った。
味は悪くない。
悪くないどころか、むしろ良い。
それでも、ひとりの昼食は少しだけ味気なかった。
午後になり、アランは執務室へ戻った。
書類の山。
報告。
決裁。
重臣との短いやり取り。
終戦後、国は少しずつ落ち着きを取り戻している。
だが、だからといって王太子の仕事が尽きることはない。
ただ、最近の執務室には、以前とは少し違う変化があった。
最初は、帝国から帰還した直後だった。
夜になるまでろくに顔も見られない日が続いたある日、ミュレットが遠慮がちに執務室の扉を叩いた。
「……ここに、いてもよろしいでしょうか?」
そう問われ、アランは少しだけ驚いた。
だが、すぐに「ああ」とだけ答えた。
その日、ミュレットは長椅子で本を読んでいた。
しばらくすると、リリナやグレンへの手紙を書き始め、封を閉じる頃には、窓の外が夕暮れになっていた。
二度目は、思ったより早かった。
今度はもう、許可を求めなかった。
当然のように入ってきて、長椅子へ座り、持ってきた花を花瓶へ飾り始めた。
秋の白い小花だった。
三度目の頃には、文官たちが喜ぶようになった。
ミュレットが執務室にいると、空気がやわらぐ。
アランの機嫌も、わずかながらましになる。
報告に入る者の足取りも、目に見えて軽くなる。
ついには若い文官のひとりが、真顔で、
「ミュレット様がいらっしゃると中へ入りやすいので、一生いてください」
と言い出し、隣の文官に肘で黙らされていた。
そして、今日の午後である。
執務室の長椅子には、やはりミュレットがいた。
膝の上に、小さな鉢を抱えている。
植えられているのは、名前のない花――あの白い花の、まだ若い株だった。
ミュレットは難しい顔をして、鉢を見つめている。
指先をそっと葉の近くへかざし、ごくわずかに光を流す。
やわらかな治癒の光が土を淡く照らし、根の気配を探るように沈んでいく。
だが、それはすぐに薄れた。
「……どうだ?」
書類から目を上げずに、アランが問う。
「だめです」
きっぱりした返事だった。
「枯れそうなのか?」
「いえ、元気です」
「……何をしようとしている?」
アランはそこでようやく顔を上げた。
ミュレットは鉢を見つめたまま言う。
「もっと、株を増やしたくて」
「庭師に頼め」
「もう言いました」
「……なら、庭師にまかせておけ」
「……でも」
ミュレットは少しだけ眉を寄せる。
「わたしの力で、もう少しどうにかできないかと思って」
鉢の中の白い花は、秋の陽を受けて静かに揺れていた。
ミュレットは鉢をそっと小卓の上へ置いた。
それから膝に両肘をつき、頬に両手を添えて考え込む。
その姿を見て、アランは静かに言った。
「……よく考えろ」
書類を閉じる。
今日のぶんは、急がないものをあとへ回してもどうにかなる。
椅子を引いて立ち上がり、長椅子のほうへ向かう。
隣へ腰を下ろすと、ミュレットが少しだけ顔を上げた。
「え、アラン様……?」
「区切りはついた」
ミュレットは嬉しそうに小さく笑った。
それから鉢を抱え直し、陽の光を浴びる花弁を見た。
「まず、花が咲いた理由を考えよう」
「……はい」
「この花が、二輪に増えた条件は?」
「条件……」
「土、日陰、風通し、近くに何を植えていたか」
「……」
「同じ場所へ置いたから、同じように育つとは限らない」
「……なるほど」
秋の光が、ミュレットの横顔をやわらかく照らしていた。
アランはその顔を見つめる。
奇跡を使い、戦を終わらせ、帝国を相手に立った娘が、今は小さな鉢ひとつに本気で頭を悩ませている。
そのことが、どうしようもなく愛おしかった。
「焦るな」
「……焦っておりません」
「焦っている顔だ」
「……春までに、花畑をつくりたいと思っていて……」
ミュレットは不満そうに鉢を見つめる。
「……アラン様も、できるわけないって、言うのはわかっています」
「俺は何も言っていない」
アランは長椅子の背に片腕を預けた。
そして、難しい顔をする彼女の横顔へ視線を置いたまま、低く言う。
「……目標があることは評価する」
「……はい」
「だが、考える前に何かを成そうとするな」
「……」
「悩んだら、まず解決するために何をすべきか、候補を出せ」
ミュレットはしばらく黙っていた。
それから、ふと問いかける。
「アラン様は……うまくいかなくて、悩んだこともあるのですか?」
「ある」
あまりにも即答だった。
ミュレットが顔を上げる。
アランはひと呼吸置いて、静かに続けた。
「俺が王太子でなければ」
「……」
「ミュレットは、もっと簡単に振り向いてくれたのか、と」
執務室が静まった。
風が、窓辺の薄布をわずかに揺らす。
鉢の中の花も、小さく震えた。
ミュレットは、ぱちりと瞬いた。
「アラン様……」
「……何も悩んでいなかったわけではない」
飾らない声だった。
王太子であることは、利でもある。
近づく理由にもなる。
だが同時に、遠ざける理由にもなる。
その重さを、この人はずっと知っていたのだと分かる。
ミュレットは、膝の上で手を重ねた。
「では……そうでなかったらよかった、とわたしが言ったら」
「……」
「どうするの……?」
半分は冗談のつもりだった。
半分は、本気で知りたかった。
アランは、ほとんど間を置かなかった。
「国を捨てて、どこへなりと」
静かな声だった。
静かなのに、内容だけが少しも静かではない。
「だ、だめです!」
ミュレットは思わず声を上げた。
鉢を落としかけて、あわてて抱え直す。
頬が一気に熱くなる。
「な、な……っ! 何を仰っているのですか!」
「聞かれたから答えた」
「答えが極端すぎます!」
「そうだったか?」
「そうです!」
アランはそのままミュレットを見ていたが、次の瞬間、ふっと肩を揺らした。
声を立てるのを堪えるように、わずかに顔を逸らす。
今までで一番、楽しそうに笑っている。
はっきりそう分かるほどには、口もとがやわらいでいた。
ミュレットは、言葉を失う。
目を見開く。
この人は、普段めったに表情を崩さない。
それなのに今、こんなふうに、声を殺すように笑っている。
「……アラン様」
「何だ」
「あの、その笑顔は……公の場では、あまり見せないでください」
そう言いながら、胸の奥が妙に落ち着かないのを感じていた。
真面目な顔で、とんでもないことを言う。
そのあとで、こんなふうに表情を砕く。
そんな一瞬を見せられるたび、いまだに胸が熱くなる。
アランはようやく笑みを収めると、まだ少しやわらいだ声で言った。
「また、拗ねてしまうからか?」
「……そうです! 部屋に籠って、一日中出て来なくなります!」
「それは困るな」
「ひとりで、城を飛び出したりもします!」
アランは少しだけ目を細めた。
「迎えに行く、何度でも」
あまりにも真顔で言うので、ミュレットは返す言葉を失った。
冗談の流れのはずなのに、こういう時のアランは少しも笑っていない。
だから余計に、どこまで本気なのか分からなくなる。
胸の奥が、また妙に騒がしくなる。
それをごまかすように、ミュレットは小さく息をついた。
「……もう」
かすかに頬を熱くしたまま、目を伏せる。
「真顔で言っていいことではないです……」
アランは何も言わなかった。
ただ、その横顔にはまだ、先ほどのやわらいだ気配が残っている。
それを見ていると、これ以上この話を続けたら、自分ばかり落ち着かなくなってしまう気がした。
だからミュレットは、少しだけ話題を変えるように口を開く。
「……先日、令嬢の方々といろいろお話をしました」
「ああ」
「お庭のこととか」
「……」
「好きなお茶や、お菓子や」
「……」
「皆さまとても親切で、楽しかったです」
でも。
ミュレットは、少しだけ視線を落として言う。
「でも……やっぱり、アラン様とお話ししている時が」
「……」
「一番楽しいです」
その瞬間、アランの手が止まった。
ついさっきまで口許に置かれていた指先が、そのまま動かなくなる。
ミュレットはその沈黙に気づいて、少しだけ目を瞬いた。
言いすぎただろうか。
雑談が過ぎたかもしれない。
「あの」
小さく言う。
「長くお邪魔しすぎました」
慌てて鉢を抱え、立ち上がろうとする。
すると、アランが低く言った。
「俺といる時が、一番楽しいのだろう?」
「……え」
「なら、いればいい」
ミュレットは立ち上がりかけた姿勢のまま固まった。
「でも……」
「邪魔ならそう言う」
「……はい」
「ここにいれば、俺も文官たちも喜ぶ」
その言い方があまりにも当然で、ミュレットはしばらく言葉を返せなかった。
やがて、そっと長椅子へ座り直す。
「……では」
小さく言う。
「お言葉に甘えます」
アランはそれに短く頷いた。
それから再び書類へ目を落としたが、さっきよりほんの少しだけ口もとがやわらいでいた。
その日を境に、ミュレットはより長い時間、執務室へ入り浸るようになった。
読書をする日もある。
令嬢たちへ、茶会の礼状を書く日もある。
小さな鉢を持ち込んで、花へ魔力を流す日もある。
そして時々、こうしてアランの手を止めるようなことを言ってしまう。
そんな中、副官のディルクは最初から動じなかった。
いつも通り扉を開け、いつも通り報告を置き、長椅子に座るミュレットを見ても眉ひとつ動かさない。
ただ、空になった茶器を見つけると、次を手配するよう無言で侍従へ合図する。
窓の外では、秋の庭が静かに揺れていた。
名前のない花の若い株は、まだ小さな鉢の中にある。
その根はもう、目に見えないところで確かに伸びている。
遠回りをしても、咲くものは咲く。
アランは書類を読みながら、隣の長椅子にいるミュレットの気配を感じていた。
それだけで、昼にひとりで食べた食事の味気なさが、もうずいぶん遠いもののように思えた。




