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Episode 112. ミレイア



春の光は、やわらかくクレスティアの城へ降りていた。


帝国との終戦から、半年ほどが過ぎていた。


吹き抜けの下では、侍女や文官、医務官たちが行き交っている。

階下から、あちこちで声が上がった。


「ミュレット様は、南棟へ?」

「いえ、先ほどまでは医務室に」

「筆頭医務官殿をお見かけしませんか」

「庭かもしれません、花を手折ると仰っていました」

「では、こちらはあとでお渡しします」

「ミュレット様に伝えておいてください」


その名が、城の中を静かに渡っていく。


アランは吹き抜けに面した上階の回廊に立ち、その光景をしばらく黙って見下ろしていた。


昔、この城には、こんなふうにやわらかく誰かの名が響くことはなかった。

父上と母上を失ってからの自分は、国を回すことだけを考えて生き、城もまた、冷たく正しく動く場所でしかなかった。


だが今は違う。

ミュレットという名が、人を急かすのではなく、人をやわらげながらこの城を巡っている。


「……ミュレット」


小さく呼んでみる。

もちろん届くはずもない。


それでも、その名を口にすると不思議と胸の内が静まった。


誰かが報告を持ってミュレットを探している。

誰かが礼を言いたくてその姿を探している。

誰かがただ、一言確認を取りたくて名を呼んでいる。


そのたびに思う。


もう、自分だけが見つけた特別なのではない。

城の者たちも、民も、皆が知っている。

この城に春を連れてきたのが誰なのかを。


それでも。


最初に見つけたのは自分だったのだと、アランは今でもどこかで思っている。


長い冬の中、ただ終わらせるために生きてきた自分の前へ現れて、庭を整えたいと口にした。

秘密を抱え、痛みを抱え、それでも人のために手を伸ばすことをやめなかった。

失いかけるたびに、自分の世界へどれほど深く入り込んでいたかを思い知らされた、ただひとりの愛しい人。


アランは吹き抜けから離れた。


城の中に名が響くのはいい。

しかし今は、自分がその姿を見たいと思った。


南棟へ向かう回廊を折れ、渡り廊下を抜ける。

窓の向こうには、白く淡い花々が春の光を受けて揺れていた。


かつて荒れていた庭は、今では一面の花で満ちている。

風が吹くたび、白い波が立つように花々が揺れた。


名前のない花。


最初は、ただひっそりと一輪だけ咲いていた。

その次は二輪になり、やがて少しずつ株を増やし——今では庭いっぱいに広がっている。


その花畑の中心に、ミュレットは立っていた。


白い花を何本か手折り、丁寧に束ねていく。

指先の動きはやさしく、まるで触れることそのものを慈しんでいるようだった。


少し離れた回廊の影から、その姿を見つけたアランは、しばらく声をかけずに立ち止まった。


そうして黙って見ている時間が、好きだった。


淡い青を溶かしたような髪が、背中までやわらかく流れている。

朝の光を受ければ白にも薄い水色にも見えるその髪は、肩口まで整えられていた頃より、また少しずつ長さを取り戻していた。


終戦から半年。

失ったものが戻るわけではない。

しかし時は止まらず、季節は進み、こうして目に見えるかたちで“その先”を連れてくる。


風に揺れる髪。

花に触れる横顔。

ときおり光を受けてきらめく左手の指輪。


どれも静かで、やわらかく、それでも確かな輪郭を持っている。


あの帝国の夜を越えたあとでも、いや、越えたあとだからこそ、こうして目の前に在るだけで胸が満ちる。


王城は昔からあった。

私室も、執務室も、玉座の間もあった。

だがそれは“いるべき場所”であって、“帰りたい場所”ではなかった。


いまは違う。


王太子でなくても、ただアランとして戻っていける場所。

責務を負ったままでも、戻ってきていい相手。


それが、いまは目の前にいる。


白い花を手折っていたミュレットが、ようやくこちらに気づいた。


「あ、アラン様」


その顔がすぐにやわらぐ。


「ここにいたのか」

「はい」

「お仕事は、もう終わられたのですか?」

「ああ」

「よかったです」


そう言って笑う。


よかった、と思っているのは自分のほうだ。

今日もこうしてここにいる。

花に触れて、自分を見て、笑っている。


ただそれだけのことが、未だに胸へ沁みる。


花畑の中へ足を進める。

白い花のあいだに立つミュレットの前で足を止めると、彼女は花束を抱え直した。


「それは……?」

「この花に、名前をつけたくて」


そう言ったあと、少し照れたように微笑む。


「ミレイア、と」

「……ミレイア」

「古代ルメイ語で、冬を越えてなお咲き満ちる花、という意味です」


風が吹く。

白い花が揺れる。


長い冬だった。

国にとっても、自分にとっても、ミュレットにとっても。


失ったものはある。

戻らないものもある。

それでも、冬を越えてなお咲く。


ただ咲くだけではない。

なお咲き満ちる。


それは、あまりにもこの花にふさわしかった。

そして、ミュレット自身にも。


「アラン様は……どう思いますか?」


そう問う顔を見て、アランはしばらく答えられなかった。


花束を抱えて、春の光の中に立っている。

白い花々に囲まれて、どこまでも静かで、どこまでもまぶしい。


やがて、低く言う。


「……きれいだ」


ミュレットが、ぱちりと瞬きをした。


頬がゆっくり赤くなっていく。


「そ、それは……花のこと、でしょうか」

「どう思う?」

「……どちらも、ですか?」

「そうだな」


その返しに、ミュレットは困ったように笑った。

照れているのに、どこかうれしそうで、泣きそうでもある顔だった。


「……真顔で、言うことではないです」

「事実を言っただけだ」


そう返してから、アランは一度息を吐いた。


「この花は、俺にとっても特別だ」

「……」

「ミュレットを見つけた」


ミュレットの表情が静かに改まる。


アランは花畑へ目を向けた。


「この庭で、幼いミュレットが寝ていたことも」

「……はい」

「俺が、その花を見るミュレットを見つけたことも」

「……」

「きっと全て、繋がっている」


風が吹く。

白い花びらが、ふたりのあいだを揺れた。


「それに」

アランはやわらいだ声音で続ける。

「感謝している」

「……」

「……力を持って生まれたことも……この世界の、すべてに」


ミュレットが息を呑む。


その顔を見て、ふと叶うならと思う。


「……願うなら」

少しだけ目を伏せる。

「父上と母上に、ミュレットを会わせたい」


その一言に、ミュレットの目が熱を帯びる。


花束を抱え直し、まっすぐアランを見上げてくる。


「……きっと、見てくださっています」


その声は震えていた。

だが、逃げてはいなかった。


「愛しています、アラン様」


春の庭が、しんと静まる。


「もう、あなたの側を離れません」


アランは何も言わず、その言葉を受け止めた。


余計な飾りはいらない。

もう、この娘には分かっている。


そして、自分にも分かっている。


長い冬のあいだ、秘密を知る前も、知ったあとも、何度もその名を呼んだ。


怖れられるものとしてでもなく。

力としてでもなく。

没落令嬢としてでもなく。

癒しの象徴としてでもなく。


ただ、ミュレットとして。


守りたかったのは、秘密でも力でも立場でもない。

その名で在る彼女そのものだったのだと、今なら分かる。


それが、俺にできる最初の愛し方だったのかもしれない。


「ミュレット」


呼ぶと、彼女はすぐにこちらを見る。


そのことが、たまらなく嬉しい。


アランはそっと花束へ目を落とした。


「それは、どうするつもりだ」

「……」

ミュレットは少しだけ微笑む。

「もしよろしければ」

「……」

「ご一緒に、供えていただけますか」


そこでアランは、花畑のさらに奥へ視線を向けた。


白いミレイアが揺れる、その中央。

春の光を受けるように、ふたつの墓石が静かに並んでいる。


父上と母上の墓だった。


もともとこの庭の一角は、王家の祈りの場として整えられていた。

だが、日当たりと風通しが悪く、荒れていた時期は長い。

花も絶え、土も痩せ、訪れる者も少なかった。


それを、ミュレットが少しずつ変えた。


冬のあいだも諦めず、春が来るからと庭を整えた。

名前のない花を見つけ、守り、育て、今ではこうして墓前まで白く満ちている。


アランは低く言った。


「行こう」


ふたりは並んで花畑の中央へ進んだ。


足元で、ミレイアが風に揺れる。

冬を越えてなお咲き満ちる花。

その白さに囲まれながら、墓石の前へ立つと、まるで長い時間が静かに閉じた輪になるようだった。


ミュレットは、抱えていた花束をそっと差し出す。


だが、その前にアランが手を添えた。


「一緒に」

「……はい」


花束を、ふたりで支える。


そのまま静かに屈み、墓前へ供えた。


白いミレイアが、春の光の下でやわらかく揺れる。


しばらく、何も言わなかった。


風だけが静かに吹いている。

花の匂いと、あたたかな土の匂いが混じる。

遠くで鳥の声がした。


やがて、ミュレットが小さく口を開く。


「……これから先も、ずっと」


その声はやわらかく、けれど確かだった。


「この庭を、大切にします」

「……」

「ミレイアが、冬を越えてまた咲けるように」

「……」

「アラン様の隣で、この国の春を守っていきたいです」


アランは墓石を見つめたまま、静かに息を吐く。


そして、花束の白を見下ろしながら思う。


冬を越えてなお咲き満ちる花。

名もなく咲いていたものが、いまは確かな名を持ち、こうして祈りの前に供えられている。


それは、ミュレットと同じだった。


この娘は、与えられた名を守っただけではない。

自分で未来へ意味を与えた。

傷ついて、迷って、それでも最後には自分の意思で隣に立った。


アランは、ミュレットの肩を抱いた。


「……ああ」


それだけだった。


だが、それで足りると思った。

もう、何も足さなくていい。


花畑の中で、墓前に白いミレイアを供えたまま、ふたりは並んで立つ。


もう、ひとりではない。

もう、名前はないままでもない。


クレスティアの庭には、ミレイアが咲き満ちていた。

それは、長い冬の果てにようやく辿り着いた、平和と、再生と、愛のかたちそのものだった。





ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


これにて、断界王の秘花ミレイア本編は完結となります。


この物語は、ずっとあたためていたものを、ようやく形にしたくて書き始めたお話でした。


連載中、読みに来てくださった皆さま、ブックマーク、いいね、アクセスの一つひとつに、何度も背中を押していただきました。

苦しい場面や、泣きそうになりながら書いた場面もありましたが、最後までこの二人を連れてこられたのは、読んでくださる皆様がいてくださったからです。


書いている途中、何度も思いました。


「おい、いけよアラン様!」

「仕事は完璧なのに、女心だけ壊滅的なのなんで」


……と。


アラン様は本当に不器用で、作者としてはずいぶん手を焼かされました。


ミュレットもまた、ここへ来るまでにたくさん迷い、怖がり、言えないまま抱え込んできた人でした。

それでも少しずつ、自分の寂しさも願いも言葉にしながら、最後には自分の意思で誰かに手を伸ばす人になっていきました。


そんな二人が、少しずつ言葉を交わし、傷を知り、すれ違いながらも、最後には同じ未来を選ぶところまでたどり着けたことを、とても嬉しく思っています。


本編はここで完結となりますが、アランとミュレットの物語は、ここで終わりではありません。


完結後は番外編として、本編では描ききれなかった部分の補完や、二人の穏やかな日々、少し甘めのお話、周囲の人々とのやりとりなどを書いていく予定です。

本編では緊張感の強い場面も多かったぶん、その後は少し肩の力を抜いて楽しんでいただけるようなお話もお届けできたらと思っています。


また、続編も準備中です。

続編の更新は、本編ほどの頻度ではなく、少しゆっくり、時間をかける予定です。

本編の中には、続編へつながる要素もいくつか散りばめています。


もし少しでも心に残る場面や、好きだと思っていただけた人物がいましたら、感想や評価で教えていただけると、とても励みになります。


アラン様とミュレットの物語に、ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

そして、よろしければもう少しだけ、二人のその後も見守っていただけたら嬉しいです。


水城りん


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