Episode 111. 夢の答え
帝国からクレスティアへ帰還して、十日。
季節は、夏の終わりに差しかかっていた。
陽射しにはまだ名残の強さがある。だが、吹き抜ける風の奥には、わずかに秋の気配が混じりはじめていた。
庭の木々は濃い緑を湛え、石畳には昼の熱がうっすらと残っている。
それでも夕方へ向かう光はやわらかく、長い夏がゆっくりほどけていく気配だけは、どこにも確かにあった。
停戦が決まってから、まだ日が浅い。
帝国、クレスティア、サンダレイン、エルニアのあいだでは、使者が絶えず行き来し、条約の文言や賠償、捕虜の扱い、そして新たな医療制度と力の在り方についての協議が続いていた。
戦は終わった。
ただ、戦のあとをどう生きるかは、まだ始まったばかりだった。
その日の昼前、ミュレットは専属医官の診察を受けていた。
脈を診られ、瞳の色を確かめられ、魔力の巡りまで細かく見られる。
もう何日も繰り返されていることだったが、今日のミュレットには、少しだけ言いたいことがあった。
「もう少し、外に出たくて……そろそろ」
医官は、間髪入れずに答えた。
「いけません」
「城下町、とか」
「いけません」
「護衛はもちろんつけますし……」
「それは当然ですが、城の外はなりません」
にべもない声音だった。
ミュレットは少しだけ唇を尖らせる。
「そんなに、まだ駄目でしょうか」
「駄目です」
「もう歩けます」
「歩けることと、出歩いてよいことは別です」
そう言ってから、医官はわずかに口もとをゆるめた。
「私が許可をしても、殿下は許可なさらないでしょう」
ミュレットは一瞬だけ沈黙し、それから小さく肩を落とした。
「…………たしかに」
診察はそこで終わった。
その午後、ミュレットは渋々、王城の回廊をひとりで歩いていた。
もう寝台に縛られているほどではない。
とはいえ、長く立っていると少し疲れるし、急な階段では足が重くなる。
帝都で使い果たした力の名残は、まだ身体の奥に残っていた。
それでも、自分の足で歩ける。
城の中を自由に歩き、窓から外を見て、庭の匂いを感じられる。
厳重に安静を言い渡されることに、不満がないわけではない。
それでも同時に、皆がこうして身体を気遣ってくれることが、妙に心地よくもあった。
ああ、自分は必要とされているのだと、少し照れくさく、少しあたたかく思えるからだ。
回廊の先、開いた窓から、夏の終わりの風が入り込む。
ミュレットは少しだけ足を止め、外を見た。
庭は青く、深く、命の濃い色をしていた。
盛りの花々は陽を浴び、葉は艶を持ち、枝はしなやかに風へ揺れている。
あの白い花も、夏の光の中で群れ咲いていた。
王城へ来たばかりの頃には、名もなく咲いていた花。
いまでは、目に入るだけで胸を静かに揺らす。
その光景を見ていると、不意に昔の記憶が胸に浮かんだ。
教会だった。
まだ王城へ来る前。
没落して、行き場も未来もよく見えなくなっていた頃。
雨の日だったか、曇りの日だったか、空の色までは思い出せない。
ただ、石造りの小さな礼拝堂の中は静かで、香の匂いと、古い木の匂いがしていた。
歳を重ねた女司祭が、やわらかな声で尋ねたのだ。
——あなたの夢は、なんですか?
あの時、ミュレットは少しだけ困った。
夢と言われても、大それたものは何も持っていなかった。
豊かな暮らしも。
華やかな未来も。
大切に守られる約束も。
もう、自分のものではないと思っていたからだ。
それでも、少し考えてから答えた。
——どんなことを知っても、私を、ミュレットと呼んでいただくことです。
あの時の自分は、きっともう分かっていたのだ。
人は、何かを知った瞬間に相手の見方を変える。
家柄。
価値。
秘密。
欠落。
力。
そういうものが明らかになった時、それまでと同じように名前を呼ばれることは、案外少ない。
それでも、自分はそれを望んだ。
何を知られても。
どんな秘密があっても。
それでもなお、ミュレットと呼ばれたいと。
そこで、低い声が落ちた。
「ミュレット」
振り返る。
アランだった。
執務上がりなのだろう。
濃色の衣のまま、回廊の光と影の境目に立っている。
帰還してから数日、彼の周囲には絶えず人と書類が集まり、王としての時間がほとんど切れ目なく続いていた。
そのせいか、顔にはまだ疲労が残っている。
それでも、ミュレットを見た瞬間だけ、目元がほんの少しやわらいだ。
「もう、終わられたのですか?」
「ああ」
「お疲れさまです」
「ミュレットは」
「お散歩です」
アランは頷く。
それから、ミュレットの顔を少し見ていた。
「顔色は良いな」
「もう、大分よくなりました」
「そうか」
短い会話のあと、アランは懐へ手を入れた。
ミュレットは、その仕草に気づいてわずかに首を傾げる。
アランは小さな箱を取り出した。
黒い箱だった。
見覚えがないようでいて、どこか胸がざわつく。
「アラン様?」
「……返す」
低く言って、アランはその箱を開いた。
中にあったものを見て、ミュレットは息を呑んだ。
指輪だった。
しかし、前のものとは少し違う。
もともとの指輪の石と、ごく小さな欠片を中心に、新しい台座が組まれている。
元の守りの術式そのものは、もう使えないのだろう。
雷と転移の力を受け切って砕けたのだから、当然だった。
それでも、失われたわけではなかった。
役目を終えた守りが、別のかたちへ繋ぎ直されている。
台座は以前よりも少しすっきりしている。
過剰な防御を隠した秘密の護符のようなつくりではない。
もっと静かで、もっとまっすぐな印だった。
ミュレットは、しばらく言葉を失ってそれを見つめた。
「……これ」
「砕けた欠片を使った」
アランが言う。
「前のものと同じではない」
「……」
「母上の守りは、あの夜で役目を終えた」
「……はい」
「だから、これはもう別のものだ」
ミュレットの喉が、小さく震える。
別のもの。
そうだ。
これは、失ったものをそのまま取り戻したわけではない。
亡き王妃の守りが、自分を帝都の夜から生かしてくれた。
アランの術が、それを最後まで支えた。
そして砕けたあとで、今度は未来のための指輪として形を変えた。
アランは、そのまま低く続ける。
「守られるためだけのものではない」
「……」
「これから先も使うなら、その意味で持て」
ミュレットは、ようやくアランを見上げた。
その横顔は相変わらず真面目で、少しも気取っていない。
ただ必要なことを告げているだけの顔。
なのに、胸の奥がひどく熱くなる。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
「え?」
「手を」
言われて、ミュレットは反射のように左手を差し出した。
アランはその手を取る。
長い指。
少し硬い掌。
戦を終わらせた人の手。
それでいて、今は驚くほど静かだった。
そのまま、薬指へ新しい指輪が通される。
ひやりとした感触。
それもすぐに自分の体温に馴染んでいく。
するり、と根元で止まる。
その瞬間、胸の奥で、長く揺れていた何かがようやく静かに収まった。
なくしたのではなかった。
終わったのでもなかった。
ちゃんと戻ってきた。
しかも前とは違うかたちで。
アランは、指輪をはめ終えたあともその手を離さなかった。
「戻った……」
「はい」
「もう、ここから外させない」
アランの視線は、まっすぐ薬指に落ちている。
「きっと、ミュレットは」
低く、ゆっくり言う。
「どれだけの人を救っても、見過ごしてきた命の数を数える」
「……」
「癒した兵士の数だけ、傷ついた人々に罪の意識を持つ」
「……」
「泣きたくなったら、この指輪を見ろ」
「……」
「それから、俺のもとへ来い」
「……はい」
答えた声が、少し震える。
その時、ミュレットの左頬を、ひとすじの涙が伝った。
アランが目を細める。
「泣くほどか」
「それは」
ミュレットは少しだけ息を詰める。
「アラン様が、そういうことを、何でもない顔でなさるからです」
アランの眉が、ほんの少しだけ動く。
「何でもないことではない」
「え」
「俺なりに、いつも考えている」
「……」
「ミュレットが、何を言えば喜ぶのか」
あまりにも真面目に言うので、ミュレットは思わず笑いそうになる。
泣きそうなのに、笑いそうでもあって、胸の奥が忙しい。
その時、不意にミュレットは、帝都の夜を思い出した。
白金の光。
落ちる雷。
壊れた輪。
そして、そこから現れたアラン。
指輪へ視線を落としたまま、そっと問う。
「……あの夜」
「……」
「この指輪の力が発動する条件って、なんだったのですか?」
アランは少しだけ黙った。
それから、繋いだ手を離さないまま、低く答える。
「元は、母上の守りを元にしている」
「……はい」
「そこへ俺の魔力を重ねて、ミュレットとの共鳴を持たせていた」
「共鳴……?」
「ああ。エルニアの時と、それ以前も、完全に居場所が分かっていたわけではないが」
ミュレットは目を瞬かせる。
アランは続けた。
「俺の転移魔法が届く距離にいて」
「……」
「なおかつ、ミュレットの気配を捉えられた時だけ、座標を感知できる」
「……」
「それでも、正確な場所が分かるわけではない」
「……」
「転移してみなければ、どこへ飛ぶかは分からない」
「……」
「近くへ出られるとも限らない。座標がずれることもあった」
ミュレットは、ようやく思い当たる。
エルニアの炎の中へ現れた時。
アランは、あまりに正確に、ただまっすぐ現れたように見えた。
しかし実際には、違ったのだと分かる。
どこへ転移するかも分からないのに、それでも助けに来てくれたのだ。
少しだけ申し訳なくて、なのに胸の奥がくすぐったい。
「では、帝都の時は……?」
「あれは別だ」
アランの声が少し低くなる。
「帝都へ持たせた指輪には、さらに強い術を込めた」
「……」
「言っただろう。その代償に、発動条件も厳しくなった」
「条件は、あえてあの時、教えてくださらなかった……?」
アランは、静かに頷いた。
「言えば、ミュレットに余計な不安と焦りを与える」
「……」
「だが、これも身の安全を確約するものではなかったからな」
ミュレットは静かに指輪を見つめた。
アランは、少しだけ言葉を選ぶようにして続ける。
「発動条件は……俺と同等か、それ以上の魔力反応が、この指輪本体に起きた時だけだ」
「……」
「その瞬間だけ、超遠距離転移のための術式が開き、座標を限界まで絞る」
「……」
「ほぼ同時に、俺が断界を使えば、防御魔法陣が展開する仕組みだった」
ミュレットは息を呑む。
「では、あの時」
「ああ」
アランが頷く。
「輪が正しく反応し、座標が定まり、守りが間に合ったから、俺はあの場で勝つための手を出せた」
その声は静かだった。
ただ、その静けさの下に、いま思い返しても張りつめるものがあるのが分かった。
「でも、それも……」
ミュレットはそっと言う。
「発動しても、すべてが保証されていたわけではないと」
アランは、ほんのわずかに目を細めた。
「そうだ」
「……」
「うまくいってよかった」
その言い方が、あまりにも率直で、ミュレットはまた目を見開く。
「ほっと、しておられるのですか」
「している」
その真面目な答えに、ミュレットは少しだけ笑いそうになる。
それでも、次の疑問が浮かんだ。
「……うまくいかなかったら」
「……」
「どうしていましたか?」
アランは、眉間にほんの少し皺を寄せた。
考え込む顔ではない。
むしろ、そんなものは最初から決まっていると言いたげな顔だった。
「そうなったら……なんとかする」
本気の声だった。
あまりにも本気で、あまりにも真顔で返されて、ミュレットはとうとう口もとを手で押さえた。
「……ふふ」
「笑うな」
「だって」
「……」
「本当に、なんとかしてしまいそうです」
アランはその言葉を否定しなかった。
ただ、じっとミュレットを見たあと、両手でその頬を包んだ。
「ミュレットのためなら……」
そのまま、額と額が触れ合う。
近い。
やわらかい。
静かなぬくもりが、まっすぐ伝わる。
ミュレットは、笑いながら目を細めた。
「はい、信じています」
ふたりで、ほんの少しだけ微笑む。
やがて額を離すと、アランはもう一度ミュレットの左手を握り直した。
指輪を見つめる目が、ほんの少しだけうれしそうにやわらぐ。
それからふいに、さっき思い出していた記憶がまた胸に浮かぶ。
教会。
司祭。
夢は何かと問われた午後。
ミュレットは、自分の薬指を見つめたまま、小さく呟いた。
「……昔」
「……?」
「王城へ来る前、教会の司祭様に聞かれたことがあって」
「……」
「夢は何ですか、と」
アランは黙って聞いている。
ミュレットは、少しだけ懐かしむように目を伏せた。
「その時、私……どんなことを知っても、私を、ミュレットと呼んでいただくことですと」
「……」
「そう、言ったんです」
回廊の風が、ふたりのあいだを静かに抜けた。
アランは、その言葉の意味を考えるようにしばらく黙った。
そして、低く言う。
「……叶っているな」
「え」
ミュレットが顔を上げる。
アランは左手を握ったまま、もう片方の手を頬へ添えて、まっすぐに言った。
「俺は最初からミュレットと呼んでいる」
「……そう、でしたっけ」
そうだ、とアランは続ける。
「知る前も、すべて知ったあとも」
その一言が、胸へ深く落ちた。
そうだ。
アランは、知らなかった頃も、知ったあとも、何ひとつ揺るがなかった。
ミュレットの秘密を知った時ですら、驚きや痛みはあったのに、名前だけは変わらなかった。
彼女にだけは、必ずいつも「ミュレット」と呼んだ。
呼ばれるたび、そこにいる自分が守られていたのかもしれないと、今になってやっと分かる。
ミュレットの目が、また熱くなる。
「……私の夢は」
小さく言う。
「もう、とっくに叶っていたのですね」
アランは少しだけ目元をやわらげた。
「ああ」
「……」
「だから、今さら確認するまでもない」
ミュレットはこらえきれず、ほんの少しだけ涙を浮かべて笑った。
アランはその顔を見て、親指で涙の気配を拭う。
「もう泣くな」
ふたりのあいだに、しばらく静かな沈黙が落ちた。
風は暑すぎず、やわらかい。
窓の外では、庭の花々が小さく揺れている。
夏の終わりは、まだ去りきっていない。
庭も、制度も、これから少しずつ整っていく。
戦のあとに残ったものも、失ったものも、すべてがすぐに癒えるわけではない。
それでも。
名前を呼ばれて、
同じように見つめられて、
新しい指輪が薬指へ戻る。
その小さな出来事だけで、未来はちゃんと続いていくのだと信じられる気がした。
ミュレットは、はめ直された指輪をもう一度見た。
夏の終わりの光を受けて、そこに小さく光が宿る。
守られた過去ではなく、
これから共に歩く未来のしるしのように。
アランはその手を引き寄せ、歩き出す。
「行くぞ」
「どちらへ?」
「庭だ」
「今からですか?」
少し歩いてから、アランが目を合わせる。
「また、あの花がいくつも咲いていた」
その言い方に、ミュレットはまた笑う。
手を引かれたまま、ふたりは回廊をゆっくり歩いていく。
窓の向こうでは、白い花が風に揺れていた。
まだ名を持たぬその花が、やがてどんな意味を帯びていくのか、ふたりはまだ知らない。
その先に来る季節が、すでにここへ歩いてきていることだけは、やわらかな光がたしかに告げていた。




