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Episode 110. 腕の中の帰還



帰城したのは、夕刻前だった。


王城の門をくぐった時には、陽はまだ高かったが、長い帰路と歓迎の熱気で、ミュレットの身体はもう十分すぎるほど疲れていた。


それでも、戻ってきたのだという実感だけは、不思議なくらいはっきりしていた。


王都の歓声。

花。

涙ぐむ人々。

名を呼ぶ声。


それらがまだ胸の奥で揺れているうちに、アランはミュレットを部屋まで送り届けた。


「少し休め」


低い声だった。


その一言に、はいと頷きかけたところで、アランはすでに扉のほうへ向いていた。


「最低限だけ片づけてくる」

「……」

「侍女たちを呼ぶ」


言い置いて出ていこうとした、その時だった。


「アラン様」


呼び止める声が、思ったより小さく出た。


アランが振り返る。


ミュレットは、自分でも少し驚いたような顔で立ち尽くしていた。

引き止めるつもりだったのか、そうでなかったのか、自分でも分からないみたいに。


「どうした」

「……いえ」

「何だ」

「その」


視線が揺れる。


「お仕事が、おありなのは分かっています」

「……」

「ですから、あの」

「……」

「すぐでなくても、よいのです」


言葉が途切れる。


それでも、ミュレットは勇気を出して続けた。


「でも……」

「……」

「今日だけは、少しだけ」

「……」

「早く戻ってきてくださると、嬉しいです」


アランはしばらく黙った。


ミュレットは言ってしまってから、顔が熱くなるのを感じる。

こんなことを言って困らせたかもしれない。

王太子に向かって、政務より自分を優先してほしいみたいなことを。


「無理にとは、言いません……」


アランは扉の前に立ったまま、ミュレットを見ている。

その目が、少しだけ揺れた。


アランは短く息を吐く。


「分かった」

「……」

「すぐ戻る」

「……はい」

「だから、それまで大人しくしていろ」

「はい」


そこで終わると思ったのに、アランはそのまま戻ってきた。


ミュレットの前まで来ると、片手で頬に触れる。


指先が、やわらかく肌を撫でる。


「呼び止めてくれてよかった」


その一言に、胸の奥が熱くなる。


そして、次の瞬間。


——残ってくださるのでは。


ほんの少しだけ、そんな期待が胸をよぎった。


たとえば、そのまま抱きしめてくれるとか。

せめて、口付けのひとつでもしてくれるとか。


しかし、アランは頬を撫でただけで、静かに手を離した。


「すぐ戻る」


それだけ言って、今度こそ本当に部屋を出ていく。


扉が閉まる。


静かになった寝室の中で、ミュレットは数秒だけ、呆然とそこを見ていた。


それから、心の中で小さく呟く。


そりゃあ、そうですよ。


分かっている。

帰ってきたその日なのだ。

山ほど片づけることがあるに決まっている。

アランが背負うものは、自分が少し寂しいくらいで軽くなるようなものではない。


分かっている。

分かっているのに。


「……口付けのひとつくらい……」


口にしてから、自分で赤くなる。


何を言っているのだろう。

疲れているのだ、たぶん。


そこへ、侍女たちが静かに入ってくる。


「ミュレット様、お荷物をお預かりします」

「お湯の支度も整っております」

「お疲れでしょう。まずはお身体を温めましょう」


丁寧に促されるまま、ミュレットは湯殿へ向かった。


温かな湯に浸かると、張りつめていた身体がようやく少し緩む。

馬に揺られ続けたせいで重くなっていた腰も、肩も、じわじわと楽になっていく。


髪を整えられ、香を薄く焚かれ、やわらかな寝間着へ着替えさせてもらう。

その途中でも、侍女たちは口々に「本当にご無事でよかったです」と言った。


誰もが泣きそうな顔で笑うから、ミュレットもつられて笑ってしまう。

そのたびに、胸の奥がまた少し熱くなった。


夕食は、寝室で軽く取った。


白い湯気の立つやさしいスープ。

柔らかなパン。

少しだけ塩気のある温かな料理。


どれも身体にはありがたかった。

けれど、思っていたよりは喉を通らない。


「もう少しお召し上がりになりますか」

侍女に問われ、ミュレットは首を振る。


「……いえ、大丈夫です」

「かしこまりました。では、夜具を整えておきますね」


やがて侍女たちも下がり、寝室に静けさだけが残った。


同じ寝室。

同じ寝台。

婚約してから、もうここは“隣の部屋”ではなくなった。


それなのに今夜は、片側が妙に広く見えた。


ミュレットは先に寝台へ入り、そっと横になる。


身体は疲れている。

帰路の揺れも、歓迎の熱も、帝都での消耗も、全部まだ残っている。


だからすぐ眠れると思った。


けれど、だめだった。


目を閉じても、眠気はなかなか来ない。


右へ寝返りを打つ。

左へ向き直る。

もう一度、仰向けになる。


天蓋の影を見上げて、小さく呟いた。


「……ね、寝れない……」


自分でも少しおかしくて、どうしようもなくて、ミュレットはそっと息を吐く。


疲れているのに、落ち着かない。


帰ってきた。

皆が迎えてくれた。

嬉しかった。

泣いてしまうほど、嬉しかった。


でも、本当はそれだけじゃない。


アランが早く戻ってきてくれたらいいのに。

そう思っている。


顔が見たい。

声が聞きたい。

今日くらい、ほんの少しだけ甘えたい。


しかも、期待してしまったぶんだけ、さっきの頬に触れた指先まで思い出してしまう。

あれで終わりだなんて。

せめて、本当に、口付けのひとつくらい。


そう思った瞬間、ますます眠れなくなってしまった。


ミュレットは起き上がる。


寝台の脇に置かれていた薄い膝掛けを肩へ羽織り、足音を忍ばせて寝室の奥へ向かった。


そこには、庭へ張り出した石造りの露台がある。


扉を開けると、夜風が頬を撫でた。


春の夜の空気はやわらかい。

昼の熱を忘れたみたいに静かで、少し冷たい。


ミュレットは露台の手すりへそっと手を置いた。


下には夜の庭が広がっている。

昼間はあれほど人の気配に満ちていた王城も、今は灯りがぽつぽつと揺れるだけだった。


それでも、ここはクレスティアだ。


帰ってきたのだと、ようやく静かに思える。


「……帰ってきた」


誰に聞かせるでもなく呟く。


その声は夜に溶けていった。


しばらくそうして、ただ外を見ていた。

夜風に当たっていると、胸の奥のざわめきが少しだけ落ち着く気がした。


それでも、落ち着いたのは、ほんの少しだけだった。


気丈に振る舞ってきた。

ずっと、そうしてきた。


帝都でも。

使節として立たされた時も。

救護の場へ何度も呼ばれた時も。

倒れても、起きて、また手を伸ばした。


でも、本当はずっと不安だった。


こわかった。

震えが止まらない時もあった。

力を使い、何度も倒れて、息も苦しくて、いつ終わるのか分からないまま、ひとりで涙した夜もあった。


帰ってこられないのではないかと思った。

この先もずっと、誰かのために力だけを使わされるのではないかと思った。

アランのもとへ戻れないかもしれないと、何度も思った。


それでも泣かなかったのは、泣いたら本当に折れてしまう気がしたからだ。


——帰ってきた。


変わらず、そこにある居場所へ。

名を呼んでくれる人たちのいる城へ。

アランのいる場所へ。


そう思った瞬間、堪えていたものが、ようやく溢れた。


ぽたり、と涙が落ちる。


ミュレットは慌てて口もとを押さえた。

でも、もう止まらなかった。


ここに、いてほしかったのに。


本当は、さっきからずっとそうだった。

早く戻ってきてほしい、では足りなかった。

今、ここにいてほしかった。


たったそれだけの願いを、ちゃんと口にできなかった。


涙が頬を伝う。




その時、背後で扉の開く小さな音がした。


ミュレットは、はっとして振り返る。


そこに、アランが立っていた。


露台の入口に、まだ執務着のまま。

夜の気配を背負うようにして、静かにこちらを見ている。


「……アラン、さま」


呼んだ瞬間だった。


張りつめていたものが、音もなく切れた。


涙が、どっと溢れる。


「あ……」


自分でも止める方法がなかった。

片手で慌てて目もとを押さえる。

袖口で拭おうとする。

なのに、次から次へと溢れてきて、まるで追いつかない。


「ミュレット……?」


アランの顔が、はっきりと驚きに変わる。


そんな顔をさせるつもりではなかった。

泣くつもりもなかった。

ただ、少し夜風に当たれば落ち着くと思っただけだったのに。


「これは、あの……」

声まで震える。


何を言っても駄目だった。


涙は止まらない。

息までうまく整わない。

帰ってきた安心も、こわかった記憶も、ここにいてほしかった寂しさも、全てが一気に溢れてくる。


アランは、迷わなかった。


すぐにこちらへ歩み寄る。


次の瞬間、ミュレットの身体は強く抱きしめられていた。


「あ……」


逃げ道を塞ぐような力ではない。

しかし、絶対に離さないと分かる抱きしめ方だった。


胸へ顔を押しつけられる。

背へ腕が回る。

もう隠せない。


「ミュレット」

低い声が、すぐ上から落ちる。

「どうした」

「……」

「何があった」


その問いがやさしすぎて、余計に胸が苦しくなる。


ミュレットは、アランの衣を指先で掴む。


「……帰ってきた、のに」

途切れ途切れに、ようやく声を押し出す。

「……」

「帰ってきたのに」

「……」

「やっと、帰ってきたのに」


言葉が続かない。

それでも、アランは急かさなかった。

背を撫でる手だけが、ゆっくり動いている。


ミュレットは、胸へ額を押しつけたまま、震える声で続けた。


「ずっと、平気なふりをして」

「……」

「でも、本当は、ずっと不安で」

アランの腕が、目に見えないほどわずかに強くなる。


「苦しくて」

「……」

「いつ終わるのか分からなくて」

「……」

「帰ってこられないかもしれないと」

「……」

「何度も、思って」


言いながら、また涙が落ちる。


「それでも、泣いたら駄目だと」

「……」

「泣いたら、本当に帰れなくなる気がして」

「……」

「だから、ずっと……っ」


アランは何も言わない。

けれど、その沈黙は冷たくなかった。

全部、聞いている沈黙だった。


「帰ってきて」

ミュレットは、ようやく少しだけ顔を上げた。

涙で滲んだ視界の向こうに、アランの表情がある。

「急に」

「……」

「安心、して」


喉が詰まる。


「本当は……」

「……」

「最初から、ここにいてほしかった」


その一言を言ってしまった瞬間、また涙が溢れた。


子どもみたいだと思う。

わがままだとも思う。

もう、止められなかった。


「さみしかった」

「……」

「会いたかった」

「……」

「甘えたかった……」


最後のほうは、ほとんど吐息みたいだった。


長い沈黙が落ちた。


アランは、しばらく何も言わなかった。

ただ、ミュレットを抱きしめる腕だけが、少しずつ深くなる。


やがて、ひどく静かな声が落ちる。


「そうか」


短い。

それでも、その声は少しだけ掠れていた。


「すまない……」


ミュレットが小さく息を呑む。


アランはいつもそうだった。


ミュレットが理不尽に怒った時も。

どうしようもなく拗ねた時も。


エルニアの炎の中で、ここへ来てはならないと怒った時も。

アランへ届く招待状の数に嫉妬した時も。


すまない。

俺が悪い。


いつもそう言って、先にこちらを抱き寄せてしまう人だった。


アランはそのまま、髪へ頬を寄せるようにして続けた。


「よく戻った」

「……」

「もう、我慢しなくていい」


その言葉は、まるで許しみたいだった。


ミュレットは、ぎゅっとアランの衣を掴む。


「……甘えても、いいの?」

「今日は、ミュレットの言いなりになろう」


そのあまりの言い方に、ミュレットは涙の残るまま、思わず笑ってしまった。

笑ったのに、目の奥がまた熱い。


「なんでも……?」

「ああ」


即答だった。


ミュレットは、もう隠すこともできずに、アランの胸へ顔を埋めた。


そのまま、しばらく離れられない。


アランも急かさなかった。

ただ、背へ手を滑らせ、夜風で冷えないように肩の膝掛けを整え直す。


「冷える」

「……はい」

「中へ戻ろう」

「はい」


アランはそれを聞いた瞬間、迷いなくミュレットを抱き上げた。


「……っ、アラン様」

「ここにいてほしかったのだろう?」

「……」

「なら、最後まで俺に任せろ」


その言い方に、ご褒美のような甘さがあって、ミュレットはもう何も言えなくなる。


腕の中へすっぽり収められたまま、寝室へ戻る。

灯りの落ちた室内は静かで、さっきまでの落ち着かなさが嘘みたいだった。


寝台へそっと降ろされる。

アランはすぐには離れない。


膝掛けを外し、布団を整え、乱れた髪を耳の後ろへ払う。

その手つきが、あまりにも丁寧で、ミュレットは見上げるしかできない。


「ミュレット」

「はい?」


その一言で、胸の奥がじんと熱くなる。


ミュレットは、布団の上からそっと手を伸ばした。

アランの袖をつまむ。


アランは、そんなミュレットを見つめたまま、低く続けた。


「欲しいものは、欲しいと言え」

「……」

「もっと我儘になれ」

「……」

「政務は代わりがいる」

「……」

「なんとかなる」

「……」

「だが、ミュレットには俺が必要で」

「……」

「俺には、ミュレットが必要だ」


ミュレットの目が、わずかに見開かれる。


アランはそのまま言った。


「愛している」


息が、止まる。


あまりにもまっすぐで、あまりにも迷いのない声だった。


ミュレットは、すぐには言葉を返せなかった。

ただ見つめるしかできない。


アランはそんなミュレットを見下ろしたまま、ほんの少しだけ眉を寄せる。


「ミュレットは、何度言っても分からない」

「……」

「だから、何度でも言う」


その言葉のあと、アランはたまらないようにミュレットの頬へ手を添えた。


長い指が、まだ少し熱を持った肌を包む。


次の瞬間、口づけが落ちてきた。


やわらかいのに、躊躇いはない。

確かめるみたいに。

言葉だけでは足りないと言うように。


「……っ」


唇が離れる。


ほんの一息ぶんの距離しか空かない。


アランはもう一度、口づけた。


短く。

深く。

それからまた、もう一度。


ミュレットの背中へ腕が回る。

そのまま体温ごと引き寄せられ、胸も肩もぴたりと重なる。


逃がさないように。

ようやく取り戻したものを確かめるように。


口づけは、そこで終わらなかった。


頬に添えた手が、やさしく角度を変える。

息を奪うほど強引ではない。

それでも、何度も触れてくるたびに、もう思考が追いつかない。


「ん……」


息苦しくなって、ミュレットは思わずアランの胸もとを押した。


その力は弱かった。

拒むというより、ただ呼吸を求めるみたいな仕草だった。


アランはそこでようやく少しだけ離れる。


近いまま、乱れた呼吸をひとつ飲み込み、ミュレットの顔を見つめる。

その目が、ひどく甘く、どうしようもなく熱かった。


「……苦しいか」

「……は、い……」


答えた声は、自分でも驚くほど頼りない。


アランはそれを聞いて、ほんの少しだけ息を吐く。

だが、離してはくれない。


「すまない」

「……」

「……もっとしたい」


その低い声のあと、今度は少しだけやわらかく、また口づけが落ちてきた。


さっきより静かに。

それでも、何度でも言うと告げた言葉の続きを、そのまま唇でなぞるみたいに。


ミュレットはもう抵抗しなかった。

ただ、胸もとを押していた手から力が抜けていく。


そのまま、アランの衣を握る。


「……ミュレット」

「……はい」


唇が触れそうな距離で、アランが名を呼ぶ。


「ミュレットが俺から離れる理由は、もう作らせない」


ミュレットの目の奥が、また熱くなる。


「……はい」


小さく答える。


アランはその返事に、ようやく少しだけ満足したように目を細めた。


それから、ミュレットの髪をやさしく撫でる。


「よく頑張った」


その言葉が、いちばん駄目だった。


ミュレットは、隠しきれずにアランの胸へ額を押しつけ、目を閉じる。


春の夜は静かだった。

露台から入り込んだ夜気も、いまは寝室のぬくもりの中でやわらいでいる。


疲れていた。

本当はずっと。

こわかった。

会いたかった。

甘えたかった。

抱きしめてほしかった。

ここにいてほしかった。


その全てを、今夜はもう隠さなくていい。


アランの腕の中で、ミュレットはやっと本当に力を抜いた。

帰ってきたのだと思いながら、静かな眠りへ沈んでいった。



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