71話 『悲しいのは、大切だったから』
「やめ……」
ブルナが何か言おうとして、声にならなかった。けれど、魔物は止まらない。
「大丈夫」
魔物の声は、どこまでも穏やかだった。
「奪ってしまえば……もう、私のものだから」
陶片の腕が、さらに伸びる。
「……バルド」
ブルナの声が聞こえた。
僕は、魔物の腕を見つめた。このままじゃ、バルドが……嫌だ。やめてくれ。
「だめだ……」
声が漏れた。魔物の腕が、振り上がる。
まただ。何もできない自分が、情けない。どうして僕は、魔法が使えない……!
いや、違う。バルドだって、魔法が使えない。それは、僕と同じだ。
それでもバルドは立っている。傷ついても、息を乱しても、鉄槌を握って魔物の前に立っている。魔法なんかなくても。それでも、守ろうとしている。なのに、僕は――。
頭の中に、今までのことが浮かんだ。ブルナが失ったもの。割れた器。倒れたアリエス。
またなのか。また、大切なものがなくなるのか。そんなの――。
「やめろおおぉぉ――!!」
その瞬間だった。何かが、僕の中で弾けた。
――音が、消えた。魔物の腕も、宙に浮かんだ陶片も、ブルナも、バルドも、アリエスも。目の前の景色が、すべてパキンと凍りついたように静止している。
「……え?」
自分の声が、妙に近く聞こえた。
僕だけが動ける。誰も、動いていない。さっきまで聞こえていたはずの音が、何も聞こえなかった。
――あの時と同じだ。初火町で、レオンを助けようとした時と。どうやってやったかはわからない。だけど、また同じことが起きていることだけは確かだった。
僕だけが、動いている。あの時と同じなら、この時間はそう長くは続かない。
――急がないと。
でも、きっとこの時間で魔物に攻撃したとしても、僕の力なんかじゃ倒しきれない。どうすれば……
ふと、さっきのブルナの声が、頭の中に響いた。
『……持たない方が……いいのかも』
『誰もいなかったら……悲しくなかったのかな』
その言葉が自分に重なる。僕も、大切な人を失った。――リラ。僕のたった一人の家族だった。
魔物に襲われたあの日、僕は何もできなかった。助けられなかった。ずっと後悔していた。
今だって、悲しい。時間が経てば忘れられるなんて、そんなことはなかった。……僕は、まだ立ち直れていない。
もし、リラが最初からいなかったら。ふと、そんな考えが浮かんだ。
僕は、こんなに苦しまなかったんじゃないか。悲しくなることもなかった。失うこともなかった。
だったら、最初からいなかった方が――。
「……違う」
自分で口にしていた。そんなはずはない。リラがいなかった方が幸せだったなんて、そんなことはない。
僕は、リラがいた時間を失いたいわけじゃない。ただ、失ったことが悲しいだけだ。
悲しいのは――。
「大切だったからだ」
その言葉が、胸の中に落ちた。
そうだ。なくしたくないと思うのは。失ったことを悲しいと思うのは。それだけ、その人が大切だったからだ。
僕は、もう一度ブルナを見る。そして、止まった時間の中で、静かに言った。
「……ブルナ」
ブルナの目が、僕へ向いた。僕は、その顔を見つめた。
「怖いよね。大事なものが壊れるのって」
「……」
返事はない。僕は、自分の手を見た。
「僕も怖いよ。今も……まだ、リラ……お姉ちゃんを失ったことを悲しいと思ってる」
あの日の夜。崖。落ちていくリラの背中。伸ばした手。あと少しだった。それなのに、届かなかった。
「……もう、失いたくない」
あのときの手を、今でも覚えている。
「壊れるかもしれなくても……それでも、大事にしたい」
少しだけ、言葉に詰まった。ブルナの瞳が、僕を見つめている。
「だって……」
うまく言葉にできない。でも、これだけは分かる。
「なくしたくないって思うのは……」
一度、息を吸った。
「それだけ、大切だったってことだから」
ブルナの体は動かない。けれど、その瞳だけが、確かに僕を追っていた。
「僕はもう……大切なもの、失いたくないんだ」
ブルナの瞳が揺れた。その瞬間。耳の奥で、何かが弾けたような気がした。――音が戻った。
「全部、奪い取ってあげる!」
魔物の腕が、再び動き出す。鋭い陶片が、バルドへ向かって振り下ろされる。けれど、その前に。
「……やめて!」
ブルナが、バルドの前へ飛び込むように両手を広げた。
直後、地面から何かが突き上がった。
土だった。工房の床を割るように、茶色い土の柱が伸びる。
迫っていた陶片の腕を受け止め、激しい音を立てて弾き返した。砕けた陶片が、床に散らばる。
その向こうで、ブルナが立っていた。
「……っ!」
魔物が後ろへよろめく。その視線の先で、ブルナの周りに淡い光が集まり始めていた。
足元から、土の匂いが広がる。工房の床に落ちていた小さな砂粒が、ひとつ、またひとつと浮かび上がった。
光に触れた砂は、細かな粒子になってブルナの体を包んでいく。
「ブルナ……っ」
アリエスが目を大きく見開く。
深い緑のエプロンが、風もないのに揺れた。布の端から、緑の光が滲み出す。
生成りの服が光に溶け、その上から土の色を思わせる茶色と、深い緑の布が重なっていく。肩を覆うように、柔らかな布が形を作った。
胸元には、土の中から現れたような小さなファーの飾りが浮かび上がる。
エプロンの裾がほどけるように広がり、その形を変えていく。
茶色の髪が、光の中でふわりと揺れた。その先に、小さな金色の光がいくつも灯る。
「――っ」
それは、星のようだった。けれどアリエスの時とは違う。
炎のように弾ける光じゃない。ゆっくりと、地面へ沈んでいくような光だった。




