70話 『ひしゃげた火箸、鉄の槌』
魔物はブルナの顔をじっと見つめ、ニヤリと笑った。
「そうよ。それでいいの。すべてを私に差し出せば、もう失う恐怖に怯えることもない。あなたには、何も必要ないのよ」
その顔には、迷いがなかった。ゆっくりと、残された器へ指先を伸ばす。
「だから――」
魔物が、歪な両腕をゆっくりと広げる。
「何もかも、私が奪ってあげるわ」
その瞬間だった。魔物の両腕から、パキパキと不気味な音が鳴り響いた。
腕を形作っていた白い陶片が、外側へ向かってぶくぶくと膨れ上がり、さらに重なり合っていく。
小さな体にはあまりにも不釣り合いな、城壁のように巨大で、鋭利な結晶の塊へと、その二本の腕が醜く肥大化していく。
「……な、何……?」
僕は思わず声を漏らした。
それは、ものを持つための形には見えなかった。指の代わりに伸びた、無数の尖った結晶の爪。
僕には、目の前にあるものを壊すための腕にしか見えなかった。陶片同士が擦れ合い、乾いた不快な音を立てる。
「……これなら」
魔物が、肥大化した二本の腕を見つめる。
「――すべてを、私のものにできるわ」
魔物が、工房の奥へ向かって歩き出した。重すぎる腕を引きずり、床をガリガリと削りながら。
その前に、バルドが立った。
「ここは、壊させない」
魔物の足が止まる。大きな目が、バルドを見上げた。少しだけ、首を傾ける。
「……あなたも、何か持っているみたいね」
魔物の目が、バルドの横を通り過ぎる。棚に並んだ陶器。使い込まれた炉。
「……ずいぶんと、たくさんの美しいものがあるわ」
魔物が冷たく呟いた。バルドの眉が、わずかに動く。
「そうね。例えば……」
魔物は、ブルナを見る。
「――あの子」
ほんの少し、間が空く。
「あなたの大事な所有物、なのね」
バルドの表情が、わずかに変わる。
「だったら」
魔物の肥大化した結晶の腕が、ゆっくりと持ち上がる。
「……いただくわ」
尖った結晶の爪が、ブルナへ向く。
その瞬間、バルドが動いた。
迷うことなく、炉の脇に置かれていた大きな鉄の火箸を両手で掴み取る。魔法なんか使えない、ただの職人の手。
その指に力を込め、火箸を握り直した。焼き物を扱うときと同じように、道具の重さを確かめるように指を締める。
魔物が腕を振り上げる。
バルドは避けなかった。迫る陶片の腕を、バルドは火箸で真正面から受け止めた。
「――っ!」
そのまま、魔物の腕へ火箸を思い切り叩きつける。激しい金属音が工房に響き渡り、火花が暗がりに散った。
魔物の腕は弾かれた。けれど、バルドの持つ火箸も強烈な衝撃でひしゃげていた。
バルドの足が床を強く擦り、ずるりと後ろへ下がる。その顔は苦痛に歪んでいたけれど、それでもその目は、正面の魔物から一切逸れていなかった。
「ここは、あの人が遺した工房だ。お前みたいな化け物に、好き勝手させるかよ」
バルドは目の前の魔物を睨みつけ、強く言い放った。
そして、ひしゃげた火箸を床に投げ捨てると、今度はすぐ横の棚にあった、まだ焼き上がる前の重い素焼きの器を掴む。
「無駄な抵抗は……やめなさい」
再び魔物の腕が、鋭い突きを放つ。
バルドは手にした素焼きの器を盾にするように掲げた。乾いた重い音がして、器は一瞬で粉々に砕け散った。
鋭い陶片の先端が、防ぎきれずにバルドの肩を深く切り裂く。赤い血が、バルドの作業着を染めていくのが見えた。
「あ……」
僕の喉から、小さな声が漏れた。
バルドの体が大きく揺らぎ、背後の棚に背中を打ち付ける。棚に並んでいた小さな陶器たちが、音を立てて床へ落ちて割れていく。
「バルドさん……!」
肩から血を流しながら、棚の脇に転がっていた大きな鉄の槌を拾い上げる。
呼吸は完全に乱れている。破れた作業着には、赤い血が滲んでいた。
足元には、さっきまで使っていた器の欠片が散らばっていた。バルドはそれを一度だけ見てから、魔物へ視線を戻した。
「……ここは、壊させない」
魔物は答えなかった。ただ、陶片の腕をゆっくりと持ち上げる。その先端が、再びバルドへ向いた。




