69話 『最初からいなければ』
その目が、ゆっくりと壺から離れる。そして――すぐ横に置かれていた、三つの器へ向いた。
僕たち三人で作った器だった。ブルナの体が、ほんのわずかに強張った。
魔物は、その歪な長い手を器へ向け、静かに動かした。
「まあ……素敵な器」
一つ目の器を、細い指でなぞる。
「これは……少し不揃いね。形も、厚みもばらばら。でも、そこがいいわ。手で作ったものだということが、よく伝わってくる。とても味がある」
次の器へ目を移す。
「こっちは、ずいぶん整っているわね。形にほとんど狂いがない。全体のバランスも綺麗。見ていて気持ちがいいわ」
そして最後の器を手に取る。
「……これはまた、違うわね」
魔物は器を両手で包むように持った。
「手によく馴染む。持ったときに、どこにも無理がない。長く使うことを考えて作られているのね。……手慣れているわ」
三つの器を見比べ、魔物は嬉しそうに笑った。
「どれも素敵。こんなに違うのに、全部欲しくなるなんて……」
その目が、三つの器を順番に映していく。
「私に渡しなさい」
ブルナは答えなかった。
「これほど美しいものは、あなたにはふさわしくないわ」
ブルナの指先が、ぎゅっと握られた。
「……やめて」
ブルナは器の前へ出た。魔物との間に、自分の体を置くように。
「それには、触らないで」
魔物は、器へ伸ばしかけた手を止めた。
「どうして?」
「……」
ブルナは何も答えない。手が、わずかに震えている。
「奪われるのが、怖いのかしら」
魔物はそう言って、ブルナを見た。
「あなたは、たくさん持っているものね。この場所も、器も、仲間も……こんなにたくさん」
静かで、淡々とした声が続く。
「持っているから苦しいのよ。すべて私に差し出しなさい。そうすれば楽になれるわ」
ブルナの表情が固まる。その声には、責めるような響きはなかった。まるで、それが一番正しいことだと信じているように聞こえた。
「……そんなの――」
ブルナが小さく言いかけた。魔物の長い手が、ゆっくりと器へ向かっていく。
その瞬間、僕の体が動いた。ブルナも手を伸ばす。
二人の指先が、器へ向かって伸びる。まるで、そこだけ時間が引き延ばされたように、ゆっくり見えた。
あと少し。届きそうなのに。届かない。
僕たちより先に、魔物の腕が器の側面へ触れた。
「――!」
器が、棚の端から落ちる。そのまま床へ落ちて――パリン、と、耳障りな音を立てて木っ端微塵に砕けた。
ブルナは、足元に散った欠片を見つめていた。魔物は、その顔をじっと見ていた。
「あら、残念ね。綺麗な器だったのに」
「……っ」
「その、美しさに怯える惨めな顔……とても愛らしいわね」
整いすぎた顔の、小さな口から冷酷な囁きが漏れる。
「……」
ブルナは何も答えない。少しの沈黙。魔物は、そんなブルナを見つめて言った。
「持っているから、奪われるのが恐ろしいのよ」
その声を聞いていると、相手が苦しむのを楽しんでいるようにしか思えなかった。
ブルナの目が、残った二つの器へ向く。魔物も、その視線を追った。
「無駄よ。どうせそれも、私のものになるわ」
ブルナの表情が、わずかに強張る。その瞳が、残った二つの器の間で揺れる。
魔物は、残った器へ歪な長い手を向けた。その時だった。
「……やめなよ」
アリエスだった。魔物の動きが止まる。
「ブルナ、嫌がってるじゃん」
アリエスはブルナの前に出た。
「これ以上、ブルナを傷つけるなら……私、許さないから!」
指先に、炎が灯る。赤い光が、アリエスの指先で揺れた。
「点火!」
炎が、一気に膨れ上がる。そして、魔物へ向かって放たれた。
その瞬間、魔物は冷たい笑みを浮かべ、長い左腕を容赦なく振り下ろした。
何枚も重なった太い陶片の腕が、迫る炎を真正面から激しく叩き潰す。
爆風と共に、アリエスの火は一瞬で消し飛ばされた。
「……っ、なんで――」
アリエスが声を漏らす。
次の瞬間、その長い腕が、蛇のようなしなやかさで鋭く向きを変えた。手の先にある尖った陶片の指が、アリエスへ向かって一斉に突き出される。
「……っ!」
アリエスが身を引く。
けれど、魔物の腕のほうが速かった。凄まじい風切り音とともに、重厚な陶片の拳がアリエスの体を強く吹き飛ばす。
「アリエス――!!」
僕は叫んだ。アリエスの体は床の土埃を巻き上げながら、激しく横転して倒れ込んだ。
僕は駆け出そうとした。けれど、その前にブルナが走っていた。
「アリエス!」
ブルナは倒れたアリエスのそばに膝をつく。肩を抱き起こし、その顔を覗き込んだ。
アリエスはすぐに起き上がろうとした。けれど、途中で動きを止める。片腕を押さえたまま、苦しそうに息を吐いた。
「……大丈夫……!」
そう言って、顔を上げる。
「これくらい……平気、平気!」
いつものように笑う。でも、その手は腕から離れなかった。
「アリエス……」
「ほんとに、大丈夫だって!」
アリエスはそう言いながら立ち上がろうとした。けれど、腕を押さえたまま、わずかに体を揺らす。
「無理しないで」
ブルナがアリエスの肩を支えた。
「腕、怪我してる」
ブルナが言った。僕はもう一度アリエスの腕を見る。陶片が当たったところが赤く腫れていた。
ブルナの表情が曇る。そういえば、器が壊れたときも、ブルナはあんな顔をしていた。
「……ほら」
魔物が静かに囁く。
「持とうとするから、傷つくの」
ブルナの指が、わずかに動いた。魔物は続ける。
「壊れたら――悲しいわよね」
「……」
ブルナは答えない。魔物は、アリエスからブルナへ視線を戻した。
「持てば、またなくなるわよ」
その言葉に、ブルナの肩がわずかに揺れた。
足元には、さっき砕けた器の欠片がある。そのすぐそばで、アリエスが傷ついた腕を押さえている。
「……ブルナ……魔物の言葉なんか、聞いちゃ……ダメ……」
その声は、さっきより少しだけ弱かった。
ブルナは何も言わず、アリエスの肩を支える手に力を込めた。けれど――その目は、ほんの少しだけ伏せられていた。
魔物は、それを見ていた。
「怖いんでしょう。だったら、ほら――」
その声には、慈悲などなかった。ブルナは、ゆっくりと目を閉じる。そして、ほんの小さな声で呟いた。
「……持たない方が……いいのかも」
ブルナが、ぽつりと呟いた。
「持ってなかったら……なくならないから」
その言葉を聞いて、僕は息を呑んだ。ブルナは、何かを見ているようで、何も見ていない。
「お父さんも……弟も……工房にいた人たちも……」
そこで、ブルナの声が途切れた。そういえば、今日ここで二人きりになった時、ブルナから昔の話を少しだけ聞いた。
昔、この工房には、もっとたくさんの人がいたこと。ブルナには父親と弟がいたこと。そして今は、ブルナとバルドだけになってしまったこと。
「みんな、いなくなって」
ブルナは、小さく呟いた。
「……悲しかった」
その声は、泣いているようには聞こえなかった。だからこそ、僕には余計に重く聞こえた。
「でも……」
ブルナの指が、ぎゅっと握られる。
「もし、最初から……いなかったら」
そこで、また言葉が止まった。




