【第6章 金牛の魔法使い】 68話 『這い出た陶片の髪』
僕たちは、誰も動けなかった。
壺の内側が、大きく膨れ上がる。深く走ったひびの隙間から、白い光があふれる。光は細く伸び、床に散った陶片を照らした。
僕は思わず目を細めた。……壺が震えている。
さっきまで、ただひびが増えていただけだったはずなのに。今は、そのひびの向こう側に何かがいる。そんな気がした。
「……何、あれ」
アリエスの声が小さくなる。
次の瞬間、壺の口が内側から押し開かれた。パキパキと不気味な音を立てて陶片が跳ねる。
白い光が膨らんで、その光の層を割りながら、粘りつくような動きで小さなものが這い出してきた。
最初に見えたのは――
「……髪?」
いや……髪じゃない。白く細長い陶片が何枚も重なって、髪のように肩から垂れている。
現れた顔は、大人びていた。整いすぎた、静かな顔。一瞬、大人の女性なのかと思った。でも、すぐに違うと分かった。
その下に、小さな体があった。子供くらいの大きさ。細い。ところどころがひび割れていて、土の色がむき出しになっている。そして――
その体には不釣り合いなほど、長い両腕が伸びていた。
肘から先が異様に太い。指先には鋭い陶片が何枚も重なり、大きく歪んだ手を形作っている。
床につきそうなほど長いその腕を、魔物は引きずるようにしていた。
その手のひらを閉じたり開いたりしながら、魔物はゆっくりと顔を上げた。
「――っ!」
目が合う。大きな目。僕を見ている。
――違う。僕だけじゃない。その目が、ほんの少しだけ動いた。左へ。それから右へ。工房の中を確かめるように。その間、一度も瞬きしない。
その小さな魔物は、しばらく工房を見回していた。
壊れた棚。床に散った陶片。割れた器。そして、奥にある炉。その目が、工房の隅に置かれた壺へ向いた。小さな口がわずかに開く。
「……あら、ひびが入ってる」
魔物は、工房の隅に置かれた壺を見つめていた。やがて、ゆっくりと一歩を踏み出す。
体が大きく揺れた。魔物は何とか踏みとどまった。けれど、床を引きずる長い腕のせいで、なかなか安定しない。
もう一度、慎重に足を出す。今度は、さっきより少しだけ体を傾けながら、それでも倒れずに進んだ。
その姿を見ながら、僕はふと思った。
「これが……魔物……?」
今まで僕が見てきた魔物は、もっと怖かった。
リラを奪った魔物も、火の国でアリエスと一緒に戦った魔物も、迷うことなく襲いかかってきた。強くて、恐ろしくて。近づくだけで体が強張るようなものだった。
でも、目の前にいるのは違う。見た目こそ気味が悪いが、歩くのだって、今にも倒れそうなくらいゆっくりだ。強そうには見えない。
……本当に、これが魔物なのか。そんな疑問が、頭から離れなかった。
魔物は僕を見返すこともなく、また一歩、ゆっくりと足を出した。
ガリ、と不快な音が響いた。
不釣り合いに長い両腕が重すぎるのか、手の先を床に擦りつけ、その重さに上半身を前へと引っ張られるようにして歩いている。
重心が前に傾くたび、粘りつくような奇妙なリズムで、それでも確実に距離を詰めてきた。
魔物は壺へ顔を近づけた。ひびの入った表面を、長い指先でねっとりとなぞる。すると、壺のひびが、ゆっくりと広がった。
「……っ」
アリエスが息を呑む。
「だめ! それブルナの――!」
指先に炎が宿った。炎が弾けるように飛び、壺へ向かう。
魔物は動かなかった。ただ、陶片が何枚も重なった太い右腕を、目の前へ静かに突き出す。
その巨大な歪な手で迫る炎を鷲掴みにすると、白い陶片の隙間から冷たい気配が漏れ、アリエスの火をそのまま包み込んだ。
シュッ……と、炎が消える。
「……っ!?」
アリエスが目を見開く。
魔物は、煙すら立たない自分の右腕を軽く一振りした。
「火が……」
アリエスが呟く。
魔物は、何事もなかったように壺を見ていた。




