67話 『ひびの奥の目』
アリエスは、作業台の上に置かれた壺を見つめている。僕も隣から覗き込んだ。
「……どういうこと?」
アリエスが尋ねる。
バルドはすぐには答えなかった。壺を手に取り、ひびの入った部分を親指でゆっくりとなぞる。
「普通の陶器ならな」
バルドが話し始めた。
「土を見れば、ある程度は分かる。どこの土か、どんなものが混じってるか。粒の大きさや、焼いたあとの硬さでも違いが出る」
僕は黙って聞いていた。
「焼き方もそうだ。火の入り方を見れば、どんな窯で、どのくらいの温度で焼いたのか。釉薬が使われていれば、その種類や焼き上がり方からもある程度は絞れる」
バルドは壺を持ち上げ、裏側を見た。
「だから、知らない器でもな。土と焼き方を見れば、どこのものか、どうやって作られたものか、ある程度は想像できる」
「……この壺は?」
僕が聞く。バルドの指が止まった。
「分からん」
短い答えだった。
「土が、おかしい」
「おかしい?」
「ああ」
バルドは壺の表面を指先で軽く叩いた。コツ、と乾いた音がする。
「見た目は土だ。だが、俺が知ってる土とは違う。混ざってるものも、焼いたあとの質感も、妙に均一すぎる」
アリエスが首を傾げる。
「でも、ちゃんと焼き物なんだよね?」
「……そこがまた変なんだ」
バルドは壺を置いた。
「焼いた痕跡はある。間違いなく火に入ってる。だが、普通の焼き物みたいな焼け方じゃない」
「どう違うの?」
「普通なら、火の当たり方で微妙な差が出る。表面と内側でも違うし、窯の中で置かれた場所によっても変わる。だが、こいつにはそれがほとんどない」
バルドはひびの部分を見た。
「まるで、窯の中で均一すぎる火が入ったみたいになってる」
「そんなこと……できるの?」
「普通はできん」
即答だった。バルドは少し黙ってから、壺を傾ける。
「それだけじゃない」
ひびの奥に、淡い光が見えた。さっきよりも近くで見ると、それは確かに壺の内側から漏れているようだった。
「この光もそうだ」
「光ってる……」
アリエスが小さく呟く。
「表面に何かが塗られてるわけじゃない。中に光るものが入ってるのかと思ったが、中を見ても真っ暗だ」
僕たちは壺の中を覗き込む。たしかに中には何も入っていないみたいだった。ただ、ひびから光が漏れ出しているだけ。
「しかも、これだけひびが入ってるのに、崩れない」
確かに、細いひびは壺の表面を走っている。さっき見たときよりも、少しだけ深くなっているようにも見えた。
「普通、これだけ深く入れば、どこかが欠けてもおかしくない」
バルドはひびを指でなぞった。
「なのに、こいつは崩れない。力をかけても、割れる気配がない」
「じゃあ、丈夫ってこと?」
アリエスが聞く。
「そう単純な話でもない」
バルドの声が低くなる。
「時間が経っても、変わらないんだ」
「時間?」
「ああ。預かってから何度も見た。ひびの位置も、全体の形も、光も……ほとんど変わらなかった」
僕は思わず壺を見つめた。けれど、さっきバルドが言ったことを思い出す。
「……でも、ひびは少し深くなってない?」
「そうだ」
バルドが頷いた。
「そこだけが、分からん」
工房の中が静かになった。バルドは壺を見つめたまま、少し考えるように黙っている。
「町の古い資料も調べた。昔の窯の記録も、土の採取場所もな」
「何か分かった?」
「何も」
バルドは首を横に振った。
「似たような焼き物すら見つからなかった」
「……昔のものでも?」
「ああ」
バルドは小さく息を吐いた。
「炉守町は、昔から焼き物を作ってきた町だ。古い器なら、いくらでも残ってる。壺の形や焼き方だって、ある程度は記録がある」
そこで、バルドは壺を見下ろした。
「だが、こいつと同じものはなかった」
その言葉を聞いて、背中に小さな寒気が走った。
目の前にあるのは、どう見ても小さな壺だ。土でできていて、焼かれていて、ひびが入っている。
なのに、知っているもののどこにも当てはまらない。
「……じゃあ、どこで作られたの?」
アリエスが尋ねた。
「それが分からん」
「この町じゃない?」
「断言はできん。だが、少なくとも俺は、この町の土でも、この町の焼き方でも、こんなものを作れない」
バルドはしばらく壺を見つめていた。やがて、低い声で呟いた。
「……こんな土、俺は知らん」
その瞬間だった。壺のひびの奥で、淡い光が――ほんの一度だけ、大きくなった。でもすぐに小さくなる。
「……え?」
アリエスが息を呑む。僕も、確かに見た。ほんの一瞬だった。バルドも気づいたらしい。何も言わず、壺を見つめている。
その横で、ブルナがゆっくりと立ち上がった。作業台の前まで歩いてくる。壺を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「ブルナ?」
アリエスが声をかける。ブルナは答えず、壺に手を伸ばした。細い指が、ひびの入った表面へ近づいていく。
けれど、触れる直前で止まった。
「……どうしたの?」
アリエスが尋ねる。ブルナは自分の手を見つめ、それから壺へ視線を戻した。
「……分からない」
小さな声だった。
「なんか……嫌な感じがする」
「嫌な感じ?」
アリエスが首を傾げる。
「うーん、別にそんな感じしないけどな」
そう言って、アリエスが壺へ手を伸ばした。
「待って、アリエス――」
僕が呼び止めようとした、そのときには。もうアリエスの指が壺に触れていた。
その瞬間、壺の中で何かが弾けたように、淡い光が一気に膨らんだ。
「えっ――」
アリエスが手を引く。
けれど、遅かった。壺のひびが、目の前で伸びていく。
一本だったはずのひびが途中で分かれ、別のひびと繋がっていく。細い線が次々と走り、さっきまで静かだった壺の表面を覆っていった。
「なに……これ……」
アリエスが後ずさる。僕も思わず一歩下がった。
ひびの奥から漏れていた光が、どんどん強くなっている。
壺そのものが震え始めた。かすかな振動が作業台を伝わって、指先にまで届く。
「バルドさん!」
僕が叫ぶ。バルドは答えなかった。ただ、壺を睨むように見つめている。
そして、ひびの一つがパキッと音を立ててさらに深く裂けた。その暗い隙間の奥から、目が覗いた。
「……!」
ブルナが息を呑む。その目が、ひびの奥でゆっくりと動いた。
「アリエス、下がって!」
僕はアリエスの腕を掴んだ。けれど、そのときにはもう、壺のひびはさらに大きく広がっていた。強くなった光が工房の中を照らす。
その奥で、動いていた目が――止まった。その目は、じっと僕たちを見つめていた。瞬き一つしない。
アリエスが、魔法を繰り出そうと指先に力を込める。ブルナは動かなかった。僕も、目を離せない。
そのとき、バルドが低く呟いた。
「……離れろ」
そして、次の瞬間――壺の内側から、何かが押し広がるように、ひびがさらに深く裂けた。




