72話 『残すための力』
ブルナの足元から、一本の細い線が伸びる。床を走り、工房の奥へ向かっていく。まるで、大地に根を張るように。
「……」
ブルナは何も言わなかった。ただ、まっすぐ魔物を見ていた。
その姿を見て、僕は思った。今までのブルナとは、何かが違う。
けれど、別人になったわけじゃない。いつもの深い緑の瞳も、茶色の髪も、そのままだった。ただ――
その立ち方だけが、変わっていた。もう、揺れていない。魔物が腕を振り上げる。
「どうして……怖いんでしょう?」
魔物が、陶片の腕を振り下ろす。
ブルナは逃げなかった。ゆっくりと、片手を地面へつく。
「……怖いよ」
小さな声だった。魔物の動きが止まる。
「壊れるのは、怖い」
ブルナの指先から、地面へ光が走った。
「だったら、早くよこしなさい!」
魔物が言う。ブルナは、静かに首を横に振った。
「……それでも」
その手に、土の光が集まっていく。地面が、低く震えた。ブルナが顔を上げる。
「守りたい」
次の瞬間、床が大きく割れた。そこから、二本の巨大な土の塊が突き上がる。
左右へ広がった土は、ゆっくりと湾曲しながら伸びていった。その形は――牛の角だった。
「――!」
魔物が目を見開く。陶片の腕が、二本の角の間へ叩き込まれる。
けれど、止まった。砕けない。崩れない。土の角が、魔物の腕を押さえ込んでいる。
「……な、に……?」
魔物の声が初めて揺れた。
ブルナの足元から、さらに土が盛り上がる。大地そのものが、魔物を逃がさないように絡みついていく。
けれど、魔物の腕は止まらなかった。土の角に押さえ込まれた陶片の腕が、ぎり、と音を立てる。細かなひびが、腕の表面を走った。
「……っ」
魔物が体を震わせる。その瞬間、白い陶片がいくつも宙へ浮かび上がった。
腕から剥がれたもの。肩から剥がれたもの。さっきまで魔物の体を形作っていた欠片が、意思を持ったように次々とその周りへ集まっていく。
「……全部」
魔物の声が聞こえた。
「全部、私の物よ!」
白い陶片が、一斉にこっちを向いた。
「ブルナ!」
僕は叫ぶ。
陶片が飛んだ。何十もの白い欠片が、暗い工房を切り裂くように走る。
けれど、その前に地面が盛り上がった。ブルナの足元から土が噴き上がり、僕たちの前に大きな壁を作る。次々と陶片が突き刺さった。
「……っ」
僕は息を呑んだ。土の表面が次々と削られていく。それでも、壁は崩れなかった。最後の陶片が土へ突き刺さり、ようやく静かになる。
けれど――その瞬間。土の壁が、内側から押し広げられた。
「……何かが、来る」
土の壁が、大きく膨らんだ。次の瞬間、壁を突き破って魔物が飛び出してきた。鋭い陶片の腕が迫る。
「ブルナ!」
ブルナは逃げなかった。右手を、ほんの少し動かした。その瞬間、魔物の足元が崩れた。
「……っ!?」
床から伸びた土が、魔物の両足を掴んだ。
魔物は腕を振り回して逃れようとする。陶片の先端が床を削り、火花のように白い粉が飛び散った。
「なんのつもり……」
魔物の声が初めて乱れた。
「離しなさいよ……!」
土は動かなかった。ブルナの足元から伸びた細い光が、床を走っている。
その光が魔物の足元へ届く。すると、土がさらに固くなった。魔物の体が、地面へ縫い止められる。
「どうして……」
魔物がブルナを見る。大きな目が、わずかに揺れていた。
「どうして、そこまでして執着するの?」
ブルナは答えなかった。ただ、魔物を見つめている。
その足元で、大地が低く震えた。土の角が、さらに大きく持ち上がる。陶器の腕が、再びその角へ押さえつけられた。
「大事だからだよ」
ブルナの声が響いた。
「壊れても……私は、手放さない!」
「……!」
土の角が、一気に突き上がった。
「牡牛の剛撃!」
轟音とともに、大地が弾けた。魔物の体が宙へ持ち上げられる。
白い陶片の腕に、ひびが走った。一本。また一本。けれど、魔物は壊れることよりも、そのひびを見つめていた。
「……どうして?」
大きな目が、ブルナを見る。
「怖いはずなのに……」
ブルナは、魔物から目を逸らさなかった。
「怖いよ」
短い言葉だった。
「でも……それでも、大事なの」
魔物の動きが止まった。その顔を、僕は見た。いつもの、整いすぎた顔じゃない。
一瞬だけ。その表情の奥に、誰か人間の顔が見えた気がした。
「……大事……」
魔物が呟く。その声は、今までより少しだけ低かった。ひびが、顔へ広がっていく。
「そんなの……いつか、なくなるのに……」
最後の言葉は、ほとんど聞き取れなかった。
白い光が、魔物の体から溢れた。陶片が一枚、また一枚と剥がれ落ちる。その小さな体は、崩れるようにほどけていった。
けれど、床に落ちた陶片は砕けなかった。白い光をまとったまま、静かに宙へ浮かぶ。やがて、その光は細かな粒になって――消えた。
工房に、静けさが戻った。
ブルナの周りを包んでいた光も、少しずつ薄れていく。深い緑の布が、ゆっくりと静まった。
僕は、しばらく何も言えなかった。
目の前にいるブルナは、さっきまでと同じ顔をしている。けれど、立っている姿だけが違った。
深い緑の瞳も、茶色の髪も変わっていない。それなのに、もう簡単には揺らがないような気がした。
ブルナは、足元に散らばった陶片を見る。それから、三つ並んでいた器のうち、ひとつが消えた場所へ目を向けた。
しばらく黙っていた。やがて、その隣にいるアリエスを見る。傷ついた腕を押さえているアリエスが、ブルナに笑いかけた。
「……ブルナ」
ブルナは、小さく息を吐いた。
「……まだ、守れるんだ」
その言葉を聞いて、バルドが静かに口を開いた。
「おまえの魔法は、壊すために使う力じゃない」
ブルナが振り向く。
バルドは、壊れた器と、残った器を見た。
「……残すための力だ」
工房の床には、壊れたものと、壊れなかったものが並んでいる。そのどちらも、そこに残っていた。
僕は、ブルナの姿を見つめた。
深い緑の光をまとったその姿は――まるで、大地そのものが彼女を支えているようだった。
その光は、驚くほど温かかった。僕たちの足元にある地面まで、ほんの少しだけ温かくなったような気がした。




