↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/61

七話 『立ち止まれない少女』

 崖の道は思っていたよりも細く、ところどころ崩れかけていた。


 足元の砂がさらさらと流れ、踏み出すたびに小さな石が音を立てて落ちていく。下を見れば、火の国の街が遠くに広がっていた。


「もうちょっとで着くよ!」


 アリエスが振り返りもせずに言う。その足取りは軽い。そして――どこか速い。必要以上に。


「……ねえ、そんなに急がなくても――」


「急がなきゃだよ」


 言葉がかぶった。アリエスは一度も立ち止まらない。


「こんなとこで、のんびりしてられないでしょ?」


 振り返って笑う。いつもの明るい笑顔。だけど、その直前――ほんの一瞬だけ、目が揺れた。


 すぐに前を向いて、アリエスはさらに一段下へ飛び降りる。


「ほら、行こ! 街に着いたら色々聞けるし!」


「……アリエス、待って。そこ――」


 足場が崩れかけているのが見えた。声をかけたときには、もう遅かった。ぱき、と乾いた音。


「――え?」


 アリエスの踏み込んだ岩が沈む。体がぐらりと傾いた。


「っ!」


 咄嗟に、彼女の手が上がる。指先に火が灯る。


 ――まずい。直感だった。


 焦ったまま放たれた火は、小さく収まらない。ぼっ、と猛烈な熱量を孕んだ炎が一瞬で膨れ上がった。


 熱波が空気を歪め、爆ぜた火の粉が赤黒い岩肌を容赦なく焼き砕く。完全にバランスを失う。


 落ちる――その瞬間。頭の奥で、あの光景がよぎった。伸ばした手。届かなかった距離。掴めなかった温もり。――また、同じことをするのか。


「っ……」


 指先が冷たくなる。さっきまで触れていた温もりが、すり抜けていく気がした。掴んでいるはずなのに、何も守れていない感覚だけが残る。


 今なら、まだ届く距離にある。あのときとは違う。伸ばせばいい。ただ、それだけでいいはずなのに、足が一瞬止まりかける。怖い。落ちるかもしれない。全部、終わるかもしれない。


 ――だけど、ここで手を離したら、僕は一生、あの星が消えた夜の暗闇に閉じ込められたままだ。


「つかまって!」


 叫びながら踏み込む。足元が滑る。それでも構わず、腕を伸ばす。アリエスの手を、強く掴んだ。


「……っ!」


 衝撃で腕が引き伸ばされる。肩の骨がきしむような痛みが走る。視界の端に、崖の底が揺れた。怖い。足がすくむ。――でも。


「……離さない。絶対に……!」


 今度は、ちゃんと掴んでいる。指に力を込める。滑りそうになる手を、必死に引き寄せる。


「そこ、足……出せる?」


「う、うん……!」


 アリエスがなんとか足場を探る。動きが少しぎこちない。さっきまでの勢いが、ほんの少しだけ消えていた。


「ゆっくりで、いいから……」


 自分に言い聞かせるみたいに呟く。焦るな。離すな。少しずつ、距離が縮まる。やがて、アリエスの足が岩にかかる。


「……そのまま、こっち!」


 ぐっと引く。重さが腕にかかる。それでも、今は離さない。――離さない。やがて、アリエスの体が完全に戻った。


「――はぁっ……」


 同時に、力が抜けた。膝が震える。呼吸が乱れる。しばらく、何も言えなかった。風の音だけが、やけに大きく聞こえる。


「……ごめん」


 アリエスがぽつりと言った。いつもの笑い方なのに、ほんの少しだけ力が弱い。


「ちょっと……急ぎすぎたかも」


 軽く言って、視線を逸らす。崖の下を見ないようにしているみたいだった。


「よくやっちゃうんだよね、こういうの」


 すぐに顔を上げて、笑った。明るい声。でも、どこか早い。


「止まるとさ、嫌なこと思い出すんだよね」


 一瞬だけ、言葉が途切れる。何か続きを言いかけて、でもやめたみたいに、唇がわずかに動いた。


 そのまま、ほんの少しだけ視線が下に落ちる。崖の先でも、街でもなく、どこにも向いていない場所へ。


 ――けれど、すぐに顔を上げた。さっきまでの間なんてなかったみたいに、ぱっと表情が戻る。


「ま、いっか! 結果オーライってことで!」 


 アリエスはそう言うと、無理やり白い歯を見せて、にこっと笑ってみせた。


「ラッサルが助けてくれたからね!」


「……うん」


 頷きながら、少しだけ引っかかる。


「……ね、ラッサル」


「なに?」


「また危なかったら、止めてね」


 軽い調子で言う。


「私、一人だと突っ走っちゃうからさ」


「……うん」


 今度は、迷わず頷けた。アリエスが危ない時は、また、さっきみたいに――手を伸ばせばいい。


「よし、じゃあ今度はちょっとゆっくり行こっか!」


 そう言いながら、もう一歩踏み出している。


「……全然ゆっくりじゃないよ」


「えへ」


 少しだけ舌を出して笑う。その背中を見ながら、僕も一歩踏み出した。


 ふと、少しだけ先を行くアリエスの横顔が目に入る。さっきまでよりも、ほんの少しだけ近い距離だった。


 さっきよりも、ちゃんと足元を見て。――今度は、見失わないように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。