七話 『立ち止まれない少女』
崖の道は思っていたよりも細く、ところどころ崩れかけていた。
足元の砂がさらさらと流れ、踏み出すたびに小さな石が音を立てて落ちていく。下を見れば、火の国の街が遠くに広がっていた。
「もうちょっとで着くよ!」
アリエスが振り返りもせずに言う。その足取りは軽い。そして――どこか速い。必要以上に。
「……ねえ、そんなに急がなくても――」
「急がなきゃだよ」
言葉がかぶった。アリエスは一度も立ち止まらない。
「こんなとこで、のんびりしてられないでしょ?」
振り返って笑う。いつもの明るい笑顔。だけど、その直前――ほんの一瞬だけ、目が揺れた。
すぐに前を向いて、アリエスはさらに一段下へ飛び降りる。
「ほら、行こ! 街に着いたら色々聞けるし!」
「……アリエス、待って。そこ――」
足場が崩れかけているのが見えた。声をかけたときには、もう遅かった。ぱき、と乾いた音。
「――え?」
アリエスの踏み込んだ岩が沈む。体がぐらりと傾いた。
「っ!」
咄嗟に、彼女の手が上がる。指先に火が灯る。
――まずい。直感だった。
焦ったまま放たれた火は、小さく収まらない。ぼっ、と猛烈な熱量を孕んだ炎が一瞬で膨れ上がった。
熱波が空気を歪め、爆ぜた火の粉が赤黒い岩肌を容赦なく焼き砕く。完全にバランスを失う。
落ちる――その瞬間。頭の奥で、あの光景がよぎった。伸ばした手。届かなかった距離。掴めなかった温もり。――また、同じことをするのか。
「っ……」
指先が冷たくなる。さっきまで触れていた温もりが、すり抜けていく気がした。掴んでいるはずなのに、何も守れていない感覚だけが残る。
今なら、まだ届く距離にある。あのときとは違う。伸ばせばいい。ただ、それだけでいいはずなのに、足が一瞬止まりかける。怖い。落ちるかもしれない。全部、終わるかもしれない。
――だけど、ここで手を離したら、僕は一生、あの星が消えた夜の暗闇に閉じ込められたままだ。
「つかまって!」
叫びながら踏み込む。足元が滑る。それでも構わず、腕を伸ばす。アリエスの手を、強く掴んだ。
「……っ!」
衝撃で腕が引き伸ばされる。肩の骨がきしむような痛みが走る。視界の端に、崖の底が揺れた。怖い。足がすくむ。――でも。
「……離さない。絶対に……!」
今度は、ちゃんと掴んでいる。指に力を込める。滑りそうになる手を、必死に引き寄せる。
「そこ、足……出せる?」
「う、うん……!」
アリエスがなんとか足場を探る。動きが少しぎこちない。さっきまでの勢いが、ほんの少しだけ消えていた。
「ゆっくりで、いいから……」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。焦るな。離すな。少しずつ、距離が縮まる。やがて、アリエスの足が岩にかかる。
「……そのまま、こっち!」
ぐっと引く。重さが腕にかかる。それでも、今は離さない。――離さない。やがて、アリエスの体が完全に戻った。
「――はぁっ……」
同時に、力が抜けた。膝が震える。呼吸が乱れる。しばらく、何も言えなかった。風の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……ごめん」
アリエスがぽつりと言った。いつもの笑い方なのに、ほんの少しだけ力が弱い。
「ちょっと……急ぎすぎたかも」
軽く言って、視線を逸らす。崖の下を見ないようにしているみたいだった。
「よくやっちゃうんだよね、こういうの」
すぐに顔を上げて、笑った。明るい声。でも、どこか早い。
「止まるとさ、嫌なこと思い出すんだよね」
一瞬だけ、言葉が途切れる。何か続きを言いかけて、でもやめたみたいに、唇がわずかに動いた。
そのまま、ほんの少しだけ視線が下に落ちる。崖の先でも、街でもなく、どこにも向いていない場所へ。
――けれど、すぐに顔を上げた。さっきまでの間なんてなかったみたいに、ぱっと表情が戻る。
「ま、いっか! 結果オーライってことで!」
アリエスはそう言うと、無理やり白い歯を見せて、にこっと笑ってみせた。
「ラッサルが助けてくれたからね!」
「……うん」
頷きながら、少しだけ引っかかる。
「……ね、ラッサル」
「なに?」
「また危なかったら、止めてね」
軽い調子で言う。
「私、一人だと突っ走っちゃうからさ」
「……うん」
今度は、迷わず頷けた。アリエスが危ない時は、また、さっきみたいに――手を伸ばせばいい。
「よし、じゃあ今度はちょっとゆっくり行こっか!」
そう言いながら、もう一歩踏み出している。
「……全然ゆっくりじゃないよ」
「えへ」
少しだけ舌を出して笑う。その背中を見ながら、僕も一歩踏み出した。
ふと、少しだけ先を行くアリエスの横顔が目に入る。さっきまでよりも、ほんの少しだけ近い距離だった。
さっきよりも、ちゃんと足元を見て。――今度は、見失わないように。




