六話 『赤い羽のフレイヤ鳥』
「よし、行こう!」
アリエスに手を引かれて歩きはじめると、足元の砂がざらっと音を立てた。
崖の縁に近づくにつれて、下から吹き上げる熱気が肌を刺す。朝日はまだ弱いのに、火の国の空気はすでに熱くて重い。
「この辺、足場悪いから気をつけてね。ほら、そこ段差になってる」
言われた通りに足元を見た瞬間、脇腹にかすかな痛みが走った。さっき目を覚ましたときには気づかなかったけど、どうやら昨日の落下でどこか打っていたらしい。
息を吸うたびに、体の奥がじん、と鈍く響く。
「……っ」
小さくうめいたつもりだったけど、アリエスはすぐに振り返った。
「……どうしたの? 大丈夫?」
「いや、大したことないよ。ちょっと動きにくいだけ」
「動きにくいのは大したことあるんだよ? ほら、手、離さないで」
アリエスは少し眉を寄せて、もう一度しっかり手を握り直した。その手は温かかった。外の熱とは、少し違う。
崖を降りる道は細くて、ところどころ岩がむき出しになっていた。昔、鉱夫たちが通っていた道なのかもしれない。
アリエスが前を軽い足取りで進むたび、小さな石がぱらぱらと転がり落ちる。
「この下に街があるんだ。火山の噴気と混じってて、ちょっとむわっとするかも。慣れちゃえば平気だけど」
「そんな場所に、人が暮らしてるの?」
「うん。火の国の人は強いんだよ。こんな暑さ、当たり前だから」
アリエスは楽しそうに話している。でも僕は、歩くたびに脇腹が痛んで、息が少し乱れる。
情けないなと思いながら歩いていると、突然アリエスが歩みを止めた。
「暗いから、ちょっとだけ光つけるね」
パチンとアリエスが指を鳴らすと、彼女の指先に小さな焔が爆ぜた。まるで闇を拒むように優しく揺らめく、小さな種火。その赤色の揺らめきが、崖の影を明るく照らしてくれる。
「簡単な魔法だけど、こういうの便利なんだよ」
「うん……助かる」
「えへへ。よかった」
岩は赤黒くて、やけに滑りやすかった。
下の街からは、かすかに声や、鉄を打つ音が聞こえてくる。その音を聞いたとたん、あの日のことが一瞬よぎった。崩れかけた岩と、耳に残る低い唸り声。伸ばした手は、何もつかめなくて――。
「ラッサル?」
アリエスの声で、意識が現実に戻る。
「……いや、なんでもない」
「そっか。でも、もし何かあったら、いつでも言ってね。私、なんでも聞くから!」
「……ありがとう」
アリエスはにっこり笑って、また歩き出した。崖の終わりまであと少し。周りはどんどん暑くなるのに、あの小さな火だけは不思議と嫌じゃなかった。
足元の石が、かすかに滑った。
「――っ」
体がぐらっと傾く。その瞬間、手首をぐっと引かれた。
「大丈夫?」
振り返ったアリエスが、いつもの調子で笑う引き寄せられた勢いのまま、なんとか体勢を立て直す。
「……うん、ありがと」
そう言ったとき、ふと、違和感が残った。――あれ? アリエスの手が、するりと離れる。
「気をつけて。この辺ちょっと滑るから!」
軽い声。もう前を向いている。少しだけ先に行って、くるっと振り返る。その姿を見て、胸がわずかにざわついた。
――もしこれがリラだったら。
きっと、もっと強く引いていた。「危ないでしょ」って、少し怒った顔で言って。そのまま、僕を後ろに下がらせて、自分が前に立っていたはずだ。
――離さなかった。あの手は、いつも。でも。
「ほらラッサル、ぼーっとしてると置いてくよー!」
アリエスが笑いながら手を振る。その声に、はっとして顔を上げた。
……離されたのに。なぜか、不安じゃなかった。
足元を見て、一歩踏み出す。今度は、自分の足で。少しだけ距離があったはずなのに、すぐに追いつけた。
「お、いい感じじゃん」
隣に並ぶと、アリエスは満足そうに頷いた。そのまま、また前を向く。今度は、僕の少しだけ横。前じゃない。後ろでもない。
その位置が、なんだか少しだけ、不思議だった。守られているわけでも、引っ張られているわけでもない。それなのに、置いていかれる感じもしなかった。
同じ速さで進んでいるはずなのに、どこかで支えられている気がする。それがどっちなのかは、まだよく分からない。ただ、さっきよりも少しだけ、足取りが軽くなっていた。
そのとき、ふっと羽音が近くで響いた。振り返ると、赤い羽の小さな鳥が、朝の光の中をまっすぐに飛んできた。
「わっ……!」
僕は思わず息を呑む。
肩にふわりと止まると、まるで僕を見つめるかのように小さな目を輝かせている。
羽が触れたところが、じんわりと温まるような、不思議な感覚になる。じっと見つめられると、自分の中の何かを見透かされているようで、少し息が詰まった。
「あ、フレイヤ鳥!」
「……フレイヤ鳥?」
アリエスがぱっと顔を輝かせる。
「見たの初めてかも! 火の気配に引き寄せられるって言われてる鳥なんだよ!」
鳥は赤い羽を小さく震わせながら、僕の肩の上で落ち着いたまま動かない。逃げる様子もない。ただ、じっとこっちを見ているだけだった。
「……離れないな」
僕がつぶやくと、アリエスは嬉しそうに笑った。
「ね? 怖がってないでしょ。ラッサルのこと、ちゃんと分かってるんだよ」
そう言われても、よく分からない。けど、肩に乗ったままの温もりは不思議と嫌じゃなかった。むしろ、さっきまで張っていた何かが少しずつほどけていく感じがする。
鳥が小さく、ピッと鳴いた。ただの鳴き声なのに、なぜか返事をされたみたいだった。
「……大丈夫、って言われた気がする」
そう口にした瞬間、さっきまでの重さがほんの少し引いた気がした。無意識に肩の力が抜ける。さっきまで頼りなかった足に、わずかに力が戻る。
重さが全部が消えたわけじゃない。それでも、今は前を向いていい気がした。
アリエスが横で歩き出す。
「ほら、行こ! まだまだ行くとこいっぱいあるんだから!」
その声につられて、僕も足を前に出した。




