【第5章 割れないもの】 64話 『世界を突き上げる衝撃』
工房へ戻る道を、僕たちは四人で歩いていた。さっきまでのピリついた空気が嘘みたいに、夕暮れの町はいつもの穏やかな静けさを取り戻していた。
道の端には、昼間の仕事を終えたらしき職人たちの道具や木箱が整然と並んでいる。少し離れた場所からは、どこかの工房が金属を打つ音が聞こえていた。
カン、カン、と一定の間隔で響く音を聞いていると、さっきまでアリエスを見失って胸が冷たくなっていたことも、ブルナと一緒に必死に町を走り回っていたことも、全部遠い昔の出来事のように思えた。
前を歩くアリエスは、もういつものように歩いていた。時々、胸元の白い羊を指で触っている。その隣を歩きながら、僕は小さく息を吐いた。本当に、見つかってよかった。
僕の横では、ブルナとバルドが静かに言葉を交わしていた。
「工房、もうすぐだな」
「うん……」
ブルナが顔を上げる。
夕闇に沈みかけた町並みの向こうに、見慣れた工房の鈍い煤色の屋根が見えていた。その姿を見つけた瞬間、ブルナの張り詰めていた横顔が、波が引くようにふっと緩んだ。
「……よかった」
何が、とわざわざ聞き返す必要なんてなかった。ブルナにとって、自分の帰るべき場所が今日も形を変えずにそこにあることが、どれほど嬉しいことか、それくらいは僕にも分かった。
僕も同じように工房の屋根を見つめた。僕たちの帰る場所が、そこにある。そう確信した、その瞬間だった。
足元が突然、大きく揺れた。
「……え?」
最初は、何が起きたのか分からなかった。けれど、すぐに大地の底から、世界そのものを突き上げるようなドンっという、凄まじい衝撃が走った。
「うわっ!」
視界が強烈に上下へぶれる。体が横へ持っていかれ、重力を失ったように立っていられなくなる。
周囲の古い土壁の建物から、ガタガタと何かが激しくぶつかり合う音が響き渡った。
「伏せろ!」
バルドの怒号のような声が地鳴りに混ざって聞こえた。僕は反射的に身を低くする。
地面が激しく跳ね狂い、石畳がまるで生き物のようにうねっている。町のあちこちから、木箱や看板が倒れて破壊される凄まじい音が重なって押し寄せてきた。
「――アリエス……っ!!」
立っていることさえ不可能な激震の中、僕の頭からすべての思考が消え去り、ただ一つの衝動だけで体が勝手に弾け飛んでいた。
あの時、追いかけなかった。一瞬でも彼女の手を離してしまった。あの最悪の後悔が、僕の背中を強烈に押し出していた。
もう二度と、あんな思いは嫌だ。もう絶対に、この手を離さない――!
よろめくアリエスに向かって滑り込み、僕は彼女の小さな体を、両腕で引きちぎらんばかりの勢いで強く抱き寄せた。
「ラッサル……!」
僕の胸元に顔を埋めたアリエスが、腕の中で驚いたように息を呑むのが分かった。衣服越しに伝わる、彼女の激しい心臓の鼓動。
必死だった。周りの破壊音が全部遠くなるくらい、僕はただ、自分の腕の中にある熱を絶対に離さないように力を込めた。
そのまま、すぐ横の土壁へ背中から体当たりするように倒れ込む。
パラパラと頭上から古い瓦の破片が落ちてくる中、僕はきゅっと目を閉じ、アリエスの頭を、その華奢な体全部を、自分の両腕と胸の中に壊れ物みたいに必死に包み込んだ。
何かが落ちてきても、僕が全部受け止めるんだ。ただ、その思いだけだった。
そのとき、すぐ近くで、さらに不穏な、巨大なきしみ音が響き渡った。
振り向くと、工房の前に置かれていた、何十枚もの焼き上がったばかりの器を積んだ大きな木製台車が、激しい揺れで完全にバランスを崩して傾いていた。
硬い陶器の重みを乗せたまま、その巨大な影がゆっくりと、逃げ道を防ぐように倒れ込んでくる。
そして、その倒壊する影の真ん中に立っていたのは――
「ブルナ――っ!!」
叫ぼうとした僕の声は、地の底から響く地響きにかき消された。
ブルナは地面の激しい揺れと、世界が目の前で壊れていく恐怖からか、全身が凍りついたように完全に固まってしまっていた。
けれど、その影が彼女の頭上を覆うより早く、バルドの体が動いていた。
バルドは大柄な体躯を微塵も揺らすことなく、大地の怒りをあざ笑うかのようにどっしりと立っていた。
そして、倒れてくる台車に視線すら向けないまま、恐怖で硬直しているブルナの細い手首を、ぐいっと掴んだ。
「――っ、バルド……!」
「俺に掴まれ」
バルドはブルナの頭を自分の片腕で優しく懐へ抱え込んだまま、もう片方の肩で、倒れてきた台車の端を無造作に、凄まじい力で弾き飛ばした。
次の瞬間、台車が凄まじい轟音を立てて地面に激突した。
積まれていた器が一気に崩れ、鋭く硬い破壊音を響かせながら、石畳の上へ木っ端微塵に散らばっていく。
破片が容赦なく飛び散ったが、バルドの頑丈な背中は、ブルナの髪一筋にすらその破片を触れさせなかった。
「……っ」
ブルナが息を呑む。バルドはブルナを抱いたまま、周囲を見回した。
「心配すんな。もう大丈夫だ」
「……うん」
ブルナの返事を聞いて、僕はようやく息を吐いた。腕の中のアリエスを見る。
「……大丈夫?」
「……うん」
アリエスが顔を上げた。
僕はまだ、彼女を抱きしめたままだった。あの時は、追いかけなかった。でも今は、考えるより先に体が動いていた。アリエスを守りたい。ただ、それだけだった。
揺れが、少しずつ弱くなっていった。
さっきまで大地そのものが怒り狂っているようだったのに、今はまだ足元が小さく震えている。立ち上がっても、地面が本当に止まったのかどうか分からない。
僕はゆっくりと顔を上げた。
町のあちこちで、倒れた木箱や看板が道を塞いでいる。土壁の一部が崩れ、石畳には細かな土埃が広がっていた。遠くから、誰かの声が聞こえる。
「大丈夫か!」
「こっちは怪我人はいない!」
そんな声がいくつも重なっていた。僕は腕の中のアリエスを見る。
「……もう、大丈夫かな」
「うん、たぶん」
アリエスも周囲を見回していた。そのときだった。
「……工房」
小さな声が聞こえた。ブルナだった。ブルナは工房のある方向を見つめていた。
さっきまで、あれほど近くに見えていた煤色の屋根が、今は土埃の向こうに隠れている。
「大丈夫かな……」
ブルナが呟いた。その顔から、さっきまでの安堵が消えていく。バルドが工房のほうへ目を向ける。
「行くぞ」
「……うん」
ブルナはすぐに頷いた。けれど、その足は一瞬だけ動かなかった。
あそこには、ブルナが守ってきたものがたくさんある。道具も、器も、思い出も。そして――ブルナの弟が作った壺も。もし、あれが落ちていたら。そんな考えが頭をよぎる。
「急ごう」
僕が言うと、アリエスも頷いた。
「うん!」
珍しく、ブルナが先に走り出した。
「おい、ブルナ、待て!」
バルドが追いかける。僕とアリエスも、その後を追った。
道には瓦や木片が散らばっていて、さっきまでなら何でもなかった道が、今は歩きにくくなっている。それでも、誰も足を止めなかった。
そして僕たちは、崩れた道を越えて、工房へ駆け込んだ。




