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61話 『一時間の空白』

 それから、しばらく時間が経った。


 工房の中には、相変わらず小さな音が続いていた。窯の火が燃える音。外を誰かが歩く音。遠くで金属を叩く音。


 いつもと変わらない町の音だった。けれど、アリエスだけが戻ってこなかった。


 僕は何度目か分からないくらい、窓の外を見た。通りを歩く人の中に、金色の髪はない。赤い服も見えない。


 部屋の時計を見る。もうあれから一時間が経った。


「……遅いな」


 思わず呟いた。


 ブルナは作業台の前に座ったまま、黙っていた。さっき聞いた話が頭に残っている。


 ブルナにとって、ここを離れることは怖い。だから、僕も何も言わずに待っていた。アリエスが自分から戻ってくるかもしれない。そう思っていた。


 けれど。外は少しずつ暗くなっている。窓から入る光も、さっきより弱くなっていた。


「……ブルナ」


「なに?」


「アリエス、帰ってこないね」


「……うん」


 ブルナは窓の外を見る。その顔にも、不安が浮かんでいた。 


「……どこにいるんだろう」


 考えて、胸の奥が重くなった。アリエスがどこにいるのか。何をしているのか。無事なのか。それすら、僕たちには分からない。


 僕は立ち上がった。


「……探しに行こう」


「え……」


 ブルナが顔を上げる。


「アリエスを探そう」


「……」


 ブルナは答えなかった。


 視線が、開いたままの工房の扉へ向く。その先には、町がある。いつもなら何気なく歩いている道。けれど、今のブルナにとっては違う。


 その道の先は、この工房の外だ。ここから離れること。それは、さっき聞いたばかりのブルナにとって、簡単なことじゃない。


「……でも」


 ブルナが小さく言った。言葉が止まる。ブルナの手が、膝の上で震えていた。ほんの小さな震えだった。けれど、僕には分かった。


「怖い?」


「……うん」


 ブルナは小さく頷いた。


「私、どうしたら……」


 ブルナの声が震える。


「探しに行ったほうがいいって、分かってる。でも……」


 その先が続かない。僕はブルナの手を見た。土のついた指が、強く握り合わされている。その手が、また小さく震えた。


 僕は少し迷った。それから、ゆっくり手を伸ばした。ブルナの手に触れる。ブルナの瞳が大きく揺れた。


「……ラッサル?」


「大丈夫」


 自分でも、どうしてそう言ったのか分からなかった。


 アリエスが無事なのかも分からない。僕たちが外へ出て、本当に見つけられるのかも分からない。それでも。


「一緒に行こう」


 ブルナの手を、そっと握った。少し冷たかった。ブルナの指が、びくっと動く。でも、振りほどかなかった。


「……また、何か起きたら……」


「大丈夫だよ。僕が一緒にいる」


 そう言うと、ブルナは黙った。握った手に、少しだけ力が返ってくる。それから、少しだけ間を置いて。


「きっと、アリエスも。ほんとは待ってるから」


 僕はそう言った。根拠はなかった。でも、そう思いたかった。


 アリエスは、どこかで一人になっているかもしれない。怒っているかもしれない。僕たちのことなんて、もう知らないと思っているかもしれない。


 それでも。


 僕は、アリエスに会いたかった。さっき、僕はアリエスを追いかけるのをやめた。自分で戻ることを選んだ。その選択が間違っていたのかは、まだ分からない。


 でも、今は違う。ここで待っているだけでは、何も分からない。だから。


「行こう」


 もう一度、言った。


 ブルナはしばらく黙っていた。それから、ゆっくり立ち上がる。足元が少しふらついた。


 僕は握った手を離さなかった。ブルナも、離さなかった。


「うん」


 小さな声だった。それでも、ちゃんと聞こえた。二人で工房の扉へ向かう。


 ブルナが一度だけ振り返った。作業台。棚に並んだ器。窯。いつもの工房。全部を確かめるように見つめている。


 そして、もう一度前を向いた。僕たちは、工房の外へ出た。

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