六十話 『同じ毎日がちゃんとくるから』
しばらく、何も話さなかった。
工房の中には、窯の火が小さく燃える音と、外から聞こえてくる町の音だけがあった。
ブルナは作業台の前に座っている。けれど、さっきから手は動いていなかった。
僕も、何度か窓の外を見た。アリエスはまだ戻ってこない。でも、それとは別に、もう一つ気になっていることがあった。
ブルナが言った、あの時の言葉。
『私がここを離れられない理由なんて、アリエスには分からない』
どうしてブルナは、あんなに強くここを離れることを嫌がるんだろう。
アリエスが旅に誘ったとき、ただ嫌だと言っただけじゃなかった。怯えているみたいだった。なぜかはわからない。だけど、僕にはそう見えた。
少し迷ってから、口を開く。
「……ブルナ」
「なに?」
「どうして、アリエスについて行かないの?」
ブルナの手が止まった。すぐには答えなかった。深い緑色の瞳が、作業台の上に置かれた器へ向いている。
「……さっきも言ったでしょ」
「うん」
「できないものは、できないって」
「うん」
それ以上、ブルナは何も言わなかった。僕も急かさなかった。しばらくして、ブルナが小さく息を吐く。
「……この工房が、好きだったの」
「好き、だった……?」
その言葉に、少しだけ引っかかった。ブルナは棚のほうを見る。
そこには、たくさんの器が並んでいた。同じように見えても、よく見ると少しずつ形が違う。
「お父さんがいて……弟がいて」
ブルナの声は、いつもより小さかった。
「バルドもいて。それから、他にもたくさんの人がいたの。弟子の人とか……手伝ってくれる人とか」
僕は黙って聞いていた。
「朝からここで土をこねて、器を作って。窯に入れて……焼き上がったら、みんなで並べて」
ブルナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「失敗したら、みんなで笑ったりして」
その顔を見ていると、今の工房とは違う景色が見えるような気がした。
もっと人がいて。もっと騒がしくて。たくさんの器が作られていた場所。
「……楽しかった?」
僕が聞くと、ブルナは小さく頷いた。
「うん」
それから、静かに続ける。
「楽しかった。すごく」
でも、その声はそこで途切れた。笑っていたはずの顔から、少しずつ表情が消えていく。
「だけど……ある日、全部なくなった」
僕は何も言わなかった。ブルナの指が、作業台の端を握る。
「あの日、私、ここにいなかったの」
「えっ?」
「……町に用があって。少し、出てたの」
「一人で?」
「うん」
ブルナは目を伏せた。
「本当に、少しだけだった。すぐ戻るつもりだった」
その言葉の一つ一つが、ひどくゆっくりだった。
「でも……戻ってきたら」
ブルナの声が止まる。僕は息を呑む。
「……みんな、いなくなってた」
工房の中が、急に静かになったように感じた。
「……なんで?」
ブルナは何も言わない。その時、ふと工房の壁に大きな傷があるのが見えた。
その傷は、異様なほどに深く、何かの拍子にできたにしては、不自然な形をしていた。まるで、人間のものとは思えない傷だった。
「もしかして……魔物……?」
ブルナが頷く。
「……うん」
それだけだった。でも、その一言で十分だった。僕にも、魔物に奪われたものがある。
――お姉ちゃん。
あの日の記憶が頭をよぎる。胸の奥が、少しだけ痛んだ。だから、ブルナがそれ以上話さなくても、なんとなく分かった。
「……私が、ここを離れたから」
ブルナが言った。
「え?」
「私がちゃんとここにいれば、みんなは……」
そこで、また言葉が止まる。
「……違うよ」
僕は思わず口を挟んだ。
「ブルナが出かけたことと、魔物が来たことは――」
そこまで言って、言葉が続かなかった。ブルナが顔を上げていた。
「分かってる」
静かな声だった。
「……分かってるよ」
少しだけ、唇が震える。
「私が出かけたから魔物が来たわけじゃない。そんなこと、分かってる」
「……うん」
「でも……」
ブルナは自分の手を見る。土で汚れた指。昨日、器を直していた手。何度も同じ作業を繰り返していた手。
「……怖いの」
その言葉だけが、工房の中に落ちた。
「また、同じことになるのが怖い」
僕は何も言えなかった。
「私がここを離れたら……また何かが起こるんじゃないかって思うの」
「……」
「もし、いない間に何かあったら」
ブルナの指が、ぎゅっと握られる。
「戻ってきたときに……また誰もいなかったら」
その声は、だんだん小さくなっていった。
「……もう、嫌なの」
ブルナは俯いた。
僕は、棚に並んだ器を見る。きれいに並べられた器。何かが倒れないように、少しずつ間隔を空けて置かれている。
昨日、ブルナが何度も確認していた道具。余分に用意されていた材料。
失敗しないように、同じ手順を繰り返していたこと。全部、ただ几帳面だからだと思っていた。
でも、違ったのかもしれない。壊れるのが嫌だった。だから、壊れる前に備えていた。
「……この工房も」
ブルナが言う。
「バルドも」
少し間を置いて。
「……アリエスも」
そして、僕を見る。
「……ラッサルも」
僕は目を見開いた。
「みんな、失いたくない」
その言葉は、強くはなかった。むしろ、とても弱かった。でも、だからこそ胸に残った。
「動かなければ……」
ブルナが小さく呟く。
「ここにいれば……」
そこで一度、目を閉じる。
「……きっと、同じ毎日がちゃんとくるから」
僕は、何も言えなかった。それが正しいのかどうかなんて、僕には分からない。きっと、ブルナ自身だって分かっていない。
ただ、これだけは分かった。
ブルナは、怖いんだ。大事なものを失うことが。日常が変わってしまうことが。だから、動けない。何かが変われば、また壊れてしまう気がする。
「……だから、ここにいたい」
ブルナはそう言った。
「ずっと……みんなと」
その言葉を聞いたとき、僕は少しだけ胸が苦しくなった。ここにいれば大丈夫。そう思って、ずっとここにいる。
だけど、本当にそうなんだろうか。
ブルナが守ろうとしているこの工房だって、決して壊れないわけじゃない。それを僕は知っていた。
壊れる時は、壊れる。ひびが入ることもある。それでも、ブルナは直そうとしていた。
僕はブルナの横顔を見た。その顔には、まだ怖さが残っていた。僕には、何も言えなかった。




