↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
60/61

六十話 『同じ毎日がちゃんとくるから』

 しばらく、何も話さなかった。


 工房の中には、窯の火が小さく燃える音と、外から聞こえてくる町の音だけがあった。


 ブルナは作業台の前に座っている。けれど、さっきから手は動いていなかった。


 僕も、何度か窓の外を見た。アリエスはまだ戻ってこない。でも、それとは別に、もう一つ気になっていることがあった。


 ブルナが言った、あの時の言葉。


『私がここを離れられない理由なんて、アリエスには分からない』


 どうしてブルナは、あんなに強くここを離れることを嫌がるんだろう。


 アリエスが旅に誘ったとき、ただ嫌だと言っただけじゃなかった。怯えているみたいだった。なぜかはわからない。だけど、僕にはそう見えた。


 少し迷ってから、口を開く。


「……ブルナ」


「なに?」


「どうして、アリエスについて行かないの?」


 ブルナの手が止まった。すぐには答えなかった。深い緑色の瞳が、作業台の上に置かれた器へ向いている。


「……さっきも言ったでしょ」


「うん」


「できないものは、できないって」


「うん」


 それ以上、ブルナは何も言わなかった。僕も急かさなかった。しばらくして、ブルナが小さく息を吐く。


「……この工房が、好きだったの」


「好き、だった……?」


 その言葉に、少しだけ引っかかった。ブルナは棚のほうを見る。


 そこには、たくさんの器が並んでいた。同じように見えても、よく見ると少しずつ形が違う。


「お父さんがいて……弟がいて」


 ブルナの声は、いつもより小さかった。


「バルドもいて。それから、他にもたくさんの人がいたの。弟子の人とか……手伝ってくれる人とか」


 僕は黙って聞いていた。


「朝からここで土をこねて、器を作って。窯に入れて……焼き上がったら、みんなで並べて」


 ブルナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「失敗したら、みんなで笑ったりして」


 その顔を見ていると、今の工房とは違う景色が見えるような気がした。


 もっと人がいて。もっと騒がしくて。たくさんの器が作られていた場所。


「……楽しかった?」


 僕が聞くと、ブルナは小さく頷いた。


「うん」


 それから、静かに続ける。


「楽しかった。すごく」


 でも、その声はそこで途切れた。笑っていたはずの顔から、少しずつ表情が消えていく。


「だけど……ある日、全部なくなった」


 僕は何も言わなかった。ブルナの指が、作業台の端を握る。


「あの日、私、ここにいなかったの」


「えっ?」


「……町に用があって。少し、出てたの」


「一人で?」


「うん」


 ブルナは目を伏せた。


「本当に、少しだけだった。すぐ戻るつもりだった」


 その言葉の一つ一つが、ひどくゆっくりだった。


「でも……戻ってきたら」


 ブルナの声が止まる。僕は息を呑む。


「……みんな、いなくなってた」


 工房の中が、急に静かになったように感じた。


「……なんで?」


 ブルナは何も言わない。その時、ふと工房の壁に大きな傷があるのが見えた。


 その傷は、異様なほどに深く、何かの拍子にできたにしては、不自然な形をしていた。まるで、人間のものとは思えない傷だった。


「もしかして……魔物……?」


 ブルナが頷く。


「……うん」


 それだけだった。でも、その一言で十分だった。僕にも、魔物に奪われたものがある。


 ――お姉ちゃん。


 あの日の記憶が頭をよぎる。胸の奥が、少しだけ痛んだ。だから、ブルナがそれ以上話さなくても、なんとなく分かった。


「……私が、ここを離れたから」


 ブルナが言った。


「え?」


「私がちゃんとここにいれば、みんなは……」


 そこで、また言葉が止まる。


「……違うよ」


 僕は思わず口を挟んだ。


「ブルナが出かけたことと、魔物が来たことは――」


 そこまで言って、言葉が続かなかった。ブルナが顔を上げていた。


「分かってる」


 静かな声だった。


「……分かってるよ」


 少しだけ、唇が震える。


「私が出かけたから魔物が来たわけじゃない。そんなこと、分かってる」


「……うん」


「でも……」


 ブルナは自分の手を見る。土で汚れた指。昨日、器を直していた手。何度も同じ作業を繰り返していた手。


「……怖いの」


 その言葉だけが、工房の中に落ちた。


「また、同じことになるのが怖い」


 僕は何も言えなかった。


「私がここを離れたら……また何かが起こるんじゃないかって思うの」


「……」


「もし、いない間に何かあったら」


 ブルナの指が、ぎゅっと握られる。


「戻ってきたときに……また誰もいなかったら」


 その声は、だんだん小さくなっていった。


「……もう、嫌なの」


 ブルナは俯いた。


 僕は、棚に並んだ器を見る。きれいに並べられた器。何かが倒れないように、少しずつ間隔を空けて置かれている。


 昨日、ブルナが何度も確認していた道具。余分に用意されていた材料。


 失敗しないように、同じ手順を繰り返していたこと。全部、ただ几帳面だからだと思っていた。


 でも、違ったのかもしれない。壊れるのが嫌だった。だから、壊れる前に備えていた。


「……この工房も」


 ブルナが言う。


「バルドも」


 少し間を置いて。


「……アリエスも」


 そして、僕を見る。


「……ラッサルも」


 僕は目を見開いた。


「みんな、失いたくない」


 その言葉は、強くはなかった。むしろ、とても弱かった。でも、だからこそ胸に残った。


「動かなければ……」


 ブルナが小さく呟く。


「ここにいれば……」


 そこで一度、目を閉じる。


「……きっと、同じ毎日がちゃんとくるから」


 僕は、何も言えなかった。それが正しいのかどうかなんて、僕には分からない。きっと、ブルナ自身だって分かっていない。


 ただ、これだけは分かった。


 ブルナは、怖いんだ。大事なものを失うことが。日常が変わってしまうことが。だから、動けない。何かが変われば、また壊れてしまう気がする。


「……だから、ここにいたい」


 ブルナはそう言った。


「ずっと……みんなと」


 その言葉を聞いたとき、僕は少しだけ胸が苦しくなった。ここにいれば大丈夫。そう思って、ずっとここにいる。


 だけど、本当にそうなんだろうか。


 ブルナが守ろうとしているこの工房だって、決して壊れないわけじゃない。それを僕は知っていた。


 壊れる時は、壊れる。ひびが入ることもある。それでも、ブルナは直そうとしていた。


 僕はブルナの横顔を見た。その顔には、まだ怖さが残っていた。僕には、何も言えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。