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五十八話 『追いかけない背中』

「待って、アリエス!」


 振り返らない。人の間を抜けて、アリエスはどんどん先へ進んでいく。


 僕も追いかける。町の中心から離れていく。店の数が少なくなって、家の間隔が広くなる。


「アリエス……!」


 呼んでも、返事はない。それでも僕は走った。


 町の外へ続く道が見えてきた。朝の光が少し強くなっている。そのままアリエスは町の外へ出ようとしていた。


「アリエス――!」


 もう一度、名前を呼ぶ。その声が、自分でも驚くほど大きく響いた。


 アリエスの足が、ほんの少しだけ緩む。でも、止まらない。僕はその背中を追いながら、頭の中にさっきの言葉を思い出していた。


『私がここを離れられない理由なんて、アリエスには分からない』


『そんなのできたら、もうとっくにしてるよ』


 走りながら、何度もその言葉が頭の中で繰り返された。


 僕は、ブルナのことを知らない。一昨日、初めて会ったばかりだ。


 どんなところで育ったのかも。どうしてここにいるのかも。何を失ったのかも。何を抱えているのかも。何も知らない。だから何も言えなかった。


 なのに、アリエスは言った。嫌ならやめればいい。ここにいたくないなら出ればいい。動けば何かが変わる。確かに、そうなのかもしれない。でも――。


 きっと、ブルナには、ブルナの考えがある。それは僕にも分からない。——分からないからこそ、アリエスの言葉だけを聞いて、ブルナのことを分かったつもりになるのは違う。そう思った。


 足が止まった。


「……」


 前を走っていたアリエスが、少し先で振り返る。


「ラッサル?」


 僕は息を整えながら、アリエスを見る。胸が苦しい。走ったせいだけじゃない。アリエスについていくこともできる。このまま町を出てしまえばいい。


 でも、それをしたら、僕はただアリエスの決めたほうへ行くだけだ。僕は、それでいいのか?


 昨日までの僕なら、きっと何も言わなかった。アリエスが走れば、追いかける。アリエスが怒れば、隣にいる。それでいいと思っていた。でも、今は違う。


「……アリエス」


「なに?」


「戻らないと」


 アリエスの顔が変わった。


「ブルナのところに?」


「……うん」


 アリエスは黙って僕を見る。その目に、怒りが浮かんでいく。


「ラッサルは、ブルナの味方なんだ」


「……そういうわけじゃない」


「じゃあ、なんなの?」


「僕は……」


 言葉が詰まる。うまく説明できない。


「……ブルナのこと、まだ何も知らないから」


「私だって知らないよ」


「うん」


「じゃあ、なんで戻るの?」


「……分からない」


 でも、知らないまま置いていくのは、嫌だった。正しいのかどうかも分からない。ブルナの味方になりたいわけでもない。


 ただ、何も考えずアリエスについていくのだけは、もう嫌だった。


「……やっぱり、ブルナの味方なんじゃん」


 アリエスがもう一度言った。今度は、少し寂しそうだった。


「違うよ」


「……じゃあ、私、一人で行く。……ラッサルは戻りなよ」


 アリエスが背を向ける。その背中が、小さく震えているように見えた。僕は何も言わなかった。


 アリエスが歩き出す。少しずつ遠ざかっていく。僕は、その背中を見つめた。追いかけたい。そう思った。今までなら、きっと追いかけていた。でも――。


 僕は足元を見た。そして、ゆっくり顔を上げる。


「……うん」


 アリエスが止まった。振り返らない。僕も、もう追いかけなかった。


「行ってくる」


 自分の声を聞いて、少しだけ胸が痛んだ。それでも、言った。僕は町のほうへ向き直った。アリエスの足音が、遠ざかっていく。


 僕は一度だけ振り返った。小さくなっていく背中を見て、拳を握る。寂しかった。怖かった。本当にこれでいいのかも、分からない。それでも――。


 僕は、自分で戻ると決めた。そして、一人で町へ向かって歩き始めた。

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