五十七話 『動けない人だっている』
男の姿が見えなくなってからも、アリエスはしばらくその方向を見ていた。やがて、手のひらを握る。もう火は灯っていなかった。
「ブルナ」
アリエスが振り向く。
「大丈夫?」
ブルナは少しだけ顔を上げた。
「……大丈夫」
「本当に?」
「うん」
そう答えたけれど、声にはいつもの力がなかった。アリエスはブルナの顔をじっと見る。
「こういうこと、たまにあるから」
「……そうなの?」
「うん」
ブルナはそう言って、乱れた器を一つずつ並べ直していく。
さっきまでと同じように。器の向きを揃えて、少しずつ間隔を空ける。でも、指先が少し震えていた。
「嫌じゃないの?」
ブルナの手が止まった。
「……」
すぐには答えなかった。器の縁に触れていた指が、ゆっくり離れる。
「……嫌だよ」
アリエスが目を丸くする。
「嫌なんだ」
「うん」
ブルナは器を見つめた。
「平気なわけじゃない」
そう言って、指先で器の縁をそっと撫でる。
「嫌なことを言われたら、嫌だし。怒鳴られたら、怖い」
「じゃあ――」
アリエスが言った。
「やめればいいじゃん」
「え?」
また、ブルナの手が止まった。
「だって、嫌なんでしょ?」
アリエスは不思議そうに首を傾げる。
「だったら、やめればいいじゃん」
ブルナは少しの間、何も言わなかった。
「……そんな簡単な話じゃないよ」
「でも、嫌なんでしょ?」
「そういう問題じゃない」
「なんで?」
アリエスは本当に分からないような顔をしている。ブルナは少しだけ目を伏せた。
「……器を作るのが嫌なわけじゃないから」
「じゃあ、売るのが嫌なの?」
「……」
ブルナは答えなかった。
並べられた器を見る。一つ一つ、時間をかけて作った器。形を確かめて、傷がないか見て、丁寧に並べたもの。
「作ったものを、誰かに使ってもらえるのは嬉しいよ」
ブルナが静かに言った。
「だから、やめたくない」
アリエスは黙ってブルナを見ていた。
「嫌なことがあるからって、それだけで全部やめられるほど……簡単じゃないよ」
ブルナはそう言って、また器を並べ始めた。今度は、さっきより少しだけゆっくりだった。しばらくの間、沈黙が落ちる。
「……あ、そうだ!」
アリエスが突然、顔を上げた。
「私たちね、今、魔法使いを探して旅してるんだ。ね、ラッサル?」
「え……あ、うん」
「……そう」
ブルナが僕を見る。アリエスはそんなことには構わず、続けた。
「ブルナも一緒に行こうよ」
ブルナの手が止まった。
「だから……そんな簡単に言わないでよ」
「でも、嫌なこと続ける必要ないじゃん」
「……」
「どっか行けばいいんだよ」
アリエスはまっすぐブルナを見る。
「ここじゃないところに行けばいい」
「……」
「そしたら新しい人に出会えるし、なんでも好きなこと始められるよ」
ブルナの眉が寄った。
「そんなことできるわけないでしょ」
「どうして?」
「……そんなのできたら」
ブルナの声が少しずつ強くなる。
「もうとっくにしてるよ」
アリエスも引かなかった。
「でも、動かなきゃ何も変わらないよ」
「……」
「ブルナ?」
「動けない人だっている!」
声が、通りに響いた。
僕は思わず息を止めた。ブルナがこんなふうに声を荒げるのを、初めて聞いた。アリエスも黙らない。
「でも――」
「できないものは、できないの!」
ブルナの手が震えていた。
「……」
僕は二人の間に入ろうとした。
だけど、足が動かなかった。アリエスを止めるべきなのか。ブルナを庇うべきなのか。それとも、二人の話を黙って聞くべきなのか。どれが正しいのか、僕には分からなかった。
「……私がここを離れられない理由なんて」
ブルナが、アリエスを見た。
「アリエスには分からない」
「だったら言ってよ」
アリエスが返した。
「え……」
「分からないなら、教えてよ」
ブルナは口を開きかけて、それから閉じた。
「……」
アリエスが一歩近づく。
「私、ちゃんと聞くから」
それでも、ブルナは何も言わなかった。
「……」
ブルナは目を伏せる。握りしめた指先が、白くなっていた。
「……なんとか言ってよ」
アリエスが小さく呟いた。
それでも、ブルナは何も言わない。アリエスの顔から、少しずつ表情が消えていく。
「……なんで?」
誰に聞いているのか分からないような声だった。
「なんで、なんも言ってくれないの?」
ブルナは顔を上げなかった。
「私が嫌いだから?」
「……違うよ」
ブルナがようやく口を開いた。でも、それだけだった。
「じゃあ、なんで何も言ってくれないの?」
アリエスの声が震える。
「私、ブルナのこと心配してるのに」
「……分かってる」
「だったら――」
アリエスはそこで言葉を止めた。ぎゅっと拳を握る。
「……もういい」
「アリエス」
「ブルナなんて知らない!」
アリエスはそう言うと、くるりと背を向けた。
「待って!」
僕が呼んだときには、もう走り出していた。
「アリエス!」
小さな背中が、通りの向こうへ遠ざかっていく。僕は考えるより先に走っていた。




