五十六話 『理不尽な足音』
「ね? もっと売れるよ!」
「そうだね」
ブルナが器を並べ直す。そんなときだった。一人の男が、器を手に取った。しばらく眺めてから、眉をひそめる。
「これ、ちょっと歪んでるな」
ブルナが顔を上げた。
「……はい。少しだけ」
「少しだけ、ねえ」
男は器を持ったまま、しばらく眺めた。
「こういうのって、見た目だけの問題じゃないだろ。俺は毎日使うんだ。置いたときに傾いたりしないのか?」
「それは……大丈夫です」
「じゃあ、なんで歪んでる?」
ブルナは答えに詰まった。
「……持ったときに、手になじむように作っています」
「そんなの、作った側の都合だろ」
男は器を置いた。
「この程度のものに、この値段は高すぎる」
ブルナの肩が、びくりと小さく跳ねるのを僕は見逃さなかった。
「……そう思われるかもしれません」
ブルナの声はいつも通り平坦だった。けれど、その視線は男に投げつけられた器に釘付けになっている。
「ですが、こちらは手のひらになじむように、あえて、ほんのわずかに形を変えて作っています」
いつもなら「歪んでる」と言われても、「そうかもね」と小さく笑うだけのブルナが、男の顔をまっすぐに見据えて言葉を返していた。少しだけ声が震えている。
「だからなんだよ」
男の冷たい一言に、ブルナは唇をきゅっと噛みしめる。ブルナの指が、器の縁から離れなかった。
「一度、お手に取っていただければ――」
ブルナがそう言って器を差し出すと、男はちっと舌打ちして言った。
「しかたねえな。じゃあ、これ買ってやる」
「えっ――」
「その代わり、いくらかまけてくれよ」
男は当たり前のように言った。ブルナは少し黙ってから口を開いた。
「……申し訳ありません。値段は、変えられません」
ブルナが言いかけた、その時。
「あぁ!? 口答えすんのかよ」
男が声を荒げた。
「……!」
アリエスがびくっとする。ブルナは一瞬だけ目を伏せた。
「……申し訳ありません」
「謝れば済むと思ってるのか?」
男の声がさらに大きくなる。
「こっちは金払って買うんだぞ?」
「……はい」
「だったら、ちゃんとしたもの置いとけよ」
ブルナは何も言い返さなかった。もう一度、頭を下げる。
「気になるようでしたら、こちらは――」
「だから、そういう問題じゃないって言ってんだろ!」
男の怒鳴り声が、通りに響いた。僕は思わず肩をすくめた。ブルナは何も言わない。ただ、器の横で手を止めたまま、じっと頭を下げている。
その横で、アリエスが男を見ていた。
「……もういいでしょ」
小さな声だった。
「あ?」
男が振り向く。アリエスは、まっすぐ男を見ていた。
「ブルナ、ちゃんと謝ってるじゃん」
「アリエス……」
「これ以上言う必要ないよ」
声は静かだった。でも、いつもの明るい声とは違っていた。
「なんだ、お前」
男が鼻で笑う。
「ガキは黙ってろよ」
アリエスの眉が、ぴくっと動いた。
「……ガキでも、分かるよ」
「何がだ?」
「ブルナは、ちゃんと謝ってる」
アリエスが一歩前に出る。
「なのに、ずっと怒鳴ってるのはそっちじゃん」
「なんだと?」
「買わないなら帰りなよ」
男の顔が険しくなる。
「俺は客だ。お前みたいなガキに命令される筋合いはねえ!」
「……だから」
アリエスの手が、ぎゅっと握られた。
「もういいって言ってるでしょ!」
その瞬間だった。アリエスの手のひらに、小さな火が灯った。
「……!」
僕は息を呑んだ。
アリエス自身も気づいていないのか、火を見ようともしなかった。ただ、男だけを睨んでいる。小さな炎が、怒りに呼応するようにゆらりと揺れた。
男が一歩、後ろへ下がった。
「な……」
「ブルナを傷つけないで」
アリエスの声が低くなる。
「器が気に入らないなら、買わなくていい」
もう一歩、前へ出る。
「だけど、ちゃんと謝ってる人に、そんなに怒鳴るのは間違ってる!」
手のひらの火が、ぱち、と小さく弾けた。男は黙った。アリエスは目を逸らさない。
「……帰って」
短い言葉だった。男はアリエスの手のひらに浮かぶ火を見て、それからブルナを見た。
「……ちっ」
舌打ちをして、踵を返す。
「こんな店、二度と来るかよ!」
そう吐き捨てて、男は人混みの中へ消えていった。
しばらく、誰も何も言わなかった。アリエスの手のひらで、火が小さく揺れている。
「……アリエス」
僕が呼ぶと、アリエスは自分の手を見た。
「あ……」
火が、ふっと消える。アリエスはそのまま男が去っていったほうを見つめていた。
ブルナは、何も言わなかった。ただ、呆然と立っていた。




