52話 『夜の繕(つくろ)い』
夜。部屋の中は、もう暗かった。隣では、アリエスが小さな寝息を立てている。布団を胸元までかぶって、すっかり眠っていた。
僕は目を閉じたまま、しばらく天井を見つめていた。
……眠れない。
今日はいろんなことがあった。朝から粘土をこねて、器を作って。窯に入れて、お茶を飲んで。夕方には、アリエスの器が割れた。そのときの音が、まだ耳に残っている気がした。
「……はぁ――」
小さく息を吐いて、布団から起き上がる。そして、アリエスを起こさないように、そっと部屋を出る。
廊下は暗かった。工房のほうへ目を向けると、明かりがついていた。
「……?」
こんな時間に、一体誰が――。僕は少し迷ってから、工房へ向かった。
近づくにつれて、かすかな物音が聞こえてくる。何かを削るような音。一定の間隔で、静かに続いている。入り口から中を覗く。
「……ブルナ?」
作業台の前に、ブルナがいた。深い緑色のエプロンを着たまま、椅子に座っている。
作業台の上には、二つの器の破片が並べられていた。一つは、今日アリエスが作ったもの。そして、もう一つは――昨日、アリエスが割ってしまったものだった。
ブルナは破片の一つを手に取っていた。
「まだ起きてたんだ」
声をかけると、ブルナが顔を上げた。
「あ……アリエスの友達の……」
「ラッサル、でいいよ」
僕が言うと、ブルナは少し顔を赤くする。
「……ラッサル……どうしたの?」
「眠れなくて」
「そう」
ブルナはそれだけ言って、また器へ目を戻す。
手元には小さな道具があった。欠けた部分に少しずつ土を塗って、指先で形を整えていく。ゆっくり。ほんの少しずつ。
「それ……」
「うん」
ブルナが答える。
「アリエスが今日作ったやつ」
「直せるの?」
「わからない」
ブルナは欠片を一つ持ち上げ、割れた場所を確かめる。
「焼いたあとだから、前より難しい」
「……そっか」
僕は作業台の上を見る。もう一つの器は、まだ手つかずだった。
「こっちは?」
「……それは――」
「昨日、アリエスが割ったやつだよね」
「……うん」
ブルナが頷く。
「これも直すの?」
「直せるなら」
その言葉を聞いて、僕はもう一つの器を見た。細かく割れている。全部を元の形に戻すのは、簡単じゃなさそうだった。
「僕も手伝うよ」
「え?」
「こっち、やってみてもいい?」
ブルナが僕を見る。少しだけ驚いた顔だった。
「……いいけど」
「じゃあ」
僕はブルナの隣に座った。作業台の上に散らばった欠片を、一つずつ並べていく。
「これと……これかな」
「違う」
「え?」
「そっちは反対」
「あ……ほんとだ」
形を合わせる。少しずれる。もう一度、角度を変える。
「……こう、かな?」
「うん。合ってる」
「よかった」
小さく息を吐く。ブルナは何も言わず、また作業を続けていた。
しばらくの間、二人とも黙っていた。工房の中には、土を削る小さな音と、僕たちの手が器に触れる音だけが響いている。
小さなランプの灯りが、作業台の上の無数の破片と、僕たちの手元を頼りなげに、けれど温かく照らし出していた。
「……ブルナ」
「なに?」
「これもブルナが作ったの?」
僕は手にしている器を見ながら聞く。
「……違う」
ブルナは少しだけ目を伏せた。
「それは、弟が作ったの」
「……弟?」
「うん」
僕は思わず顔を上げた。
「これを?」
ブルナの手が、ほんの少しだけ止まった。
「……昔ね」
「そうなんだ」
それ以上、聞いていいのか分からなかった。ブルナはしばらく黙っていた。やがて、器の欠片を指先でなぞる。
「まだ小さかったから。形も、ちょっと歪んでて」
「でも、ちゃんと残してたんだ」
「うん」
「大事だったから?」
「……うん」
短い返事だった。それだけなのに、その声が少しだけ遠く聞こえた。
「この工房で作ったの」
そう言ってブルナは作業台の向こうを見た。
「お父さんと一緒に作ってた」
「お父さんも?」
「うん」
「じゃあ……バルドさんも?」
ブルナが小さく頷く。
「バルドは、お父さんの弟子だったから」
「そうだったんだ」
「昔は、もっと人がいたよ」
その言葉に、僕は工房の中を見回した。朝からずっと静かだった工房。今は、僕とブルナしかいない。
「……今は?」
思わず聞いてしまう。ブルナはすぐには答えなかった。ただ、手元の器を見つめている。
「今は……私とバルドだけ」
「……そっか」
それ以上は、聞かなかった。ブルナも、それ以上は話さなかった。ただ、もう一度、欠片を手に取る。
「そこ、少し押さえて」
「ここ?」
「うん。強くしすぎないで」
「分かった」
僕は言われた通りに、器の欠片をそっと押さえる。ブルナがその隙間に土を埋めていく。
「……できた」
「ほんと?」
「まだ」
「まだなの?」
「乾かさないと」
「あ……」
思わず苦笑する。ブルナもほんの少しだけ口元を緩めた。
「急がなくていいから」
「……うん」
僕はもう一度、手元の器を見る。
割れた欠片は、少しずつ形を取り戻していた。綺麗には戻らない。ひびも、きっと残る。それでも――。
「……これ、使えるようになるかな」
「なるよ」
ブルナは迷わず答えた。
「ひび、残ってるけど」
「うん」
「でも、使える」
ブルナは器をそっと持ち上げた。
「ちゃんと直せば」
その言葉を聞いて、僕は昨日のことを思い出した。白い服を着た、あの女の人。
『形は、必ず崩れる』
あの言葉が、頭の中に浮かぶ。でも――。目の前では、崩れたものをもう一度つなごうとしている人がいる。
「ブルナは……なんで、そこまでして直すの?」
気づけば、そんなことを聞いていた。ブルナは少しだけ考える。
「作ったものだから」
「……それだけ?」
「うん」
それから、ほんの少しだけ視線を落とした。
「ちゃんと作ったものは、簡単に捨てたくない」
「……」
「残せるなら、残したいから」
静かな声だった。それ以上、ブルナは何も言わなかった。僕も、聞かなかった。
作業台の上には、二つの器。どちらも、まだ完全には元に戻っていない。それでも――少しずつ、形を取り戻している。
僕は隣で、もう一度欠片を手に取った。
夜の工房には、土の匂いが残っている。さっきまであれほど眠れなかったのに、今は不思議と、まぶたが少し重くなっていた。
指先に残るかすかな土の冷たさが、なぜか、毛布よりも心地よかった。




