四十九話 『それぞれの歩幅』
「……そういえば」
アリエスが空になった皿を見ながら、ふと顔を上げた。
「バルドさんは?」
「あ」
僕も思い出す。朝起きてから、まだ一度も姿を見ていない。
「そういえば、いないね」
僕が言うと、ブルナはカップを置いた。
「バルドなら、買い出しに行ってる」
「買い出し?」
「うん。昨日、材料が少なくなってたから」
ブルナはそう言いながら、空になった皿を重ねていく。
「そろそろ戻ってくると思う」
「そっか」
アリエスが椅子の背もたれに寄りかかる。そんな話をしていると、ちょうど工房の外から足音が聞こえてきた。僕たちが顔を向ける。
「ただいま」
聞き覚えのある声だった。
「あ、バルドさん!」
アリエスが立ち上がる。入り口から、バルドが大きな袋を抱えて入ってきた。
「おう。朝飯はもう食ったか?」
「食べた!」
「そうか。ならちょうどよかった」
バルドは袋を作業台の近くに置いた。中から粘土や布、それからいくつかの道具を取り出していく。ブルナがすぐに近づいた。
「これ、頼んでたもの?」
「ああ。粘土はいつものだ。あと、釉薬も何種類か買ってきた」
「ありがとう」
ブルナは一つずつ手に取って確認していく。容器の蓋を確かめ、数を数える。
「……これ、三つ?」
「ああ」
「たしか二つで足りたはずだけど」
「念のため、予備にな」
「……そういうこと」
ブルナが納得したように頷いた。
僕はその様子を見て、さっきの棚を思い出した。やっぱり、この工房では予備を持っておくのが普通なのかもしれない。
「それでよ」
バルドが僕たちを見る。
「今日は二人にも、ちょっとやってもらおうと思ってる」
「え?」
僕が聞き返す。
「何をするの?」
アリエスが身を乗り出す。バルドは作業台の上に粘土を置いた。
「せっかく工房に泊まってるんだ。見てるだけじゃ暇だろ」
「私、やる!」
アリエスがすぐに答える。
「まだ何をするか言ってないだろ」
「でもやる!」
「……まあ、いいけど」
バルドが苦笑する。
「陶器、作ってみるか?」
「陶器?」
僕は作業台の上の粘土を見る。昨日、ブルナが触れていたもの。この町で何度も見かけたもの。それを、自分で作る。
「僕たちが?」
「ああ」
バルドは頷いた。
「やり方はブルナに教えてもらえばいい」
「ブルナに!?」
アリエスがブルナを見る。ブルナは少しだけ目を丸くした。
「私が?」
「ああ。頼めるか?」
「……うん」
ブルナは粘土を一つ手に取った。
「じゃあ、準備する」
「よし!」
アリエスが嬉しそうに拳を握る。僕はそんなアリエスを見ながら、作業台の上に置かれた粘土へ目を向けた。
これから、自分で作る。……ちゃんと形にできるだろうか。少しだけ不安だった。でも――
「ラッサル!」
アリエスが僕を見る。
「一緒にやろう!」
「……うん」
僕も頷いた。
「やってみよう」
作業台の前に、三人分の粘土が並んだ。僕は椅子に座り、その一つを手のひらで持ち上げる。思っていたより、ずっしりしていた。
「まずは、土をこねる」
ブルナが言った。
「中に空気が残ってると、焼いたときに割れやすくなるから」
「へえ……」
僕は粘土を台の上に置いた。ブルナがやっているのを見ながら、同じように手を動かす。
押して、折る。また押して、折る。最初は少し硬かった土が、何度も触れているうちに少しずつ柔らかくなっていく。
「こんな感じ?」
「うん。もう少しだけ」
ブルナは僕の手元を見て、短く答えた。その隣では――
「よし!」
アリエスが声を上げた。
「もういいんじゃない?」
「え?」
僕が顔を上げる。まだ僕は、粘土を何度か折り返している途中だった。アリエスはもう次の工程に入ろうとしている。
「ちょ、ちょっと待って。早くない?」
「そう?」
「いや、早いよ」
「だって、こんなのずっとこねてても仕方ないじゃん」
アリエスはそう言いながら、粘土を手のひらで押していく。勢いがある。僕が一回押している間に、アリエスは二回、三回と手を動かしていた。
「こうやって――」
ぐっと押して。
「こう!」
折り返す。また押して。
「ほら、できた!」
「いや、できたって……」
僕は思わず自分の粘土と見比べた。僕のほうは、まだ最初の形から少し整ったくらいだ。アリエスの粘土は、もう丸くまとまり始めている。
「ん?」
少し離れたところから、バルドの声が飛んできた。そして、アリエスの手元を見る。
「お前、早いな」
「そう?」
「ああ。陶器作るのは初めてなんだよな?」
「うん! 初めて!」
アリエスは即答した。バルドが少し驚いた顔をする。
「初めてでその速さか」
「だって、早く作ったほうがいいじゃん」
「まあ……早いに越したことはないが」
「でしょ?」
アリエスは嬉しそうに笑った。そのまま、どんどん手を動かしていく。
「ほら、ラッサルも!」
「いや、僕は僕のペースでやるよ」
「もっとこう、ぐっとやったほうが早いよ!」
「……分かってるって」
言いながらも、アリエスの手元を見る。確かに速い。でも――
「アリエス、それ……」
「え?」
「いや、なんか……形が」
僕が言うと、アリエスは自分の粘土を見た。
「なんか変?」
「ちょっと歪んでる気がする」
「うーん。まあ、あとで直せばいいじゃん」
「……それなら、いいのか」
なんとなく納得してしまう。
アリエスは、最初から綺麗に作ろうとしているわけじゃない。とにかく形にする。細かいところは、そのあと考える。そんな感じだった。
僕はもう一度、自分の粘土に目を戻す。
押して、折って。少し形を整えて。また確認する。僕には、このくらいがちょうどいい。特別早くもない。特別遅くもない。たぶん、普通。
「……あれ?」
ふと、隣を見る。ブルナは――まだ、同じところをこねていた。
「……ブルナ?」
「なに?」
「まだそこ?」
「うん」
ブルナは粘土から目を離さない。押す。折る。土を整える。手を止める。向きを変える。また整える。その動きが、さっきからほとんど変わっていなかった。僕よりも遅い。
「そんなに時間かけるんだ……」
「うん」
ブルナはそれだけ答えた。
「急がないの?」
「うん」
「アリエス、もう次に進んでるけど」
「見てないから分からない」
すると、アリエスが声を張り上げる。
「ブルナー! 私もうこんなところまでできたよ!」
でも、ブルナは顔を上げなかった。
「そう」
「見てよ!」
「今、手が離せない」
「えー!」
アリエスが不満そうな声を上げる。それでもブルナは、まったく気にした様子がない。自分の手元だけを見ている。
土を押す。形を整える。少しだけ手を止める。それから、決まったように向きを変える。また同じように手を動かす。まるで、最初から最後までやることが決まっているみたいだった。
「……すごいな」
僕が小さく呟く。
「何が?」
アリエスが聞いてくる。
「ブルナ。ずっと同じことしてる」
「え?」
アリエスもブルナを見る。
「ほんとだ」
「でも、あれでいいのかな」
僕がそう言ったときだった。ブルナが、ふと口を開いた。
「なるべく同じように作ったほうが、違いが分かりやすいから」
「分かりやすい?」
「うん」
ブルナは粘土を見つめたまま答える。
「毎回やり方を変えると、どこが悪かったのか分からなくなる」
「……なるほど」
「小さなことだけど。そういうの、結構大事」
短い言葉だった。でも、その言い方には迷いがなかった。
僕はもう一度、ブルナの手元を見る。確かに、さっきから何も変わっていない。急がない。途中でやり方を変えない。誰かに声をかけられても、横を見ない。
アリエスが隣で騒いでいても。僕が自分の粘土に苦戦していても。ブルナはずっと、自分の手元だけを見ている。
「……すごい集中力」
僕が言うと、バルドが少し離れたところから笑った。
「ブルナはいつもああだ」
「いつも?」
「ああ。始めたら、終わるまで自分の手順を崩さねえ」
「へえ……」
僕は感心しながら、自分の粘土に向き直る。アリエスはもう、かなり先まで進んでいる。僕はその少し後ろ。そしてブルナは、僕たちよりずっと遅いところにいる。
なのに――ブルナの手元だけは、妙に安心して見ていられた。遅い。でも、迷っていない。ひとつひとつの動きが、全部きちんと決まっている。
僕はそんな三人の違いを眺めながら、もう一度、粘土を手のひらで押した。
アリエスみたいに早くはできない。ブルナみたいに、何も迷わず同じ動きを続けることもできない。でも――
「……僕は僕で、やってみるか」
そう呟いて、また土をこね始めた。




