【第二章 ひびの向こう】 四十八話 『仕度(したく)のじかん』
目を開けると、朝の光が部屋の中に差し込んでいた。昨日までとは違う天井。
そうだ。ここは、バルドさんの工房だ。体を起こして、隣を見る。アリエスはまだ眠っていた。
「……よく寝るな」
小さく呟いて、ベッドから降りる。部屋を出ると、工房のほうから明かりが見えた。もう誰か起きている。
そっと近づいてみると、ブルナがいた。作業台の前に立っている。昨日と同じ深い緑色の瞳。でも、昨日とは少しだけ違って見えた。
ブルナは作業台の上に置かれていた布を手に取り、髪を後ろへまとめているところだった。肩上の髪を一つに寄せて、紐で結ぶ。
それから、深い緑色のエプロンを手に取った。位置を合わせて、腰のあたりで紐を結ぶ。袖を整え、作業台の上に並んでいる道具を確認する。
慣れた手つき。ひとつ。またひとつ。置いてある場所まで、きちんと決まっているみたいだった。
僕は、いつの間にかその姿を見ていた。
「……何?」
「え?」
ブルナがこっちを見る。
「ずっと見てるけど」
「――あ」
気づかれてた。
「いや……なんか」
「なんか?」
「……ちゃんとしてるなって」
「それ、どういう意味?」
「いや、悪い意味じゃなくて」
僕は言葉に詰まった。
昨日は、壊れた器を前にしていたブルナしか知らなかった。静かで、少し怯えていて。触れることすら怖がっているように見えた。
でも今は違う。髪をまとめて、エプロンを着けて。これから仕事を始めるために、身なりを整えている。ただそれだけなのに、妙に目を奪われた。
なんというか……落ち着いていて。きちっとしていて。自分のすべきことを、最初から分かっているみたいだった。
「……あなた」
「え、僕?」
「アリエスの友達?」
いきなり話をふられて、少し戸惑う。
「あ……えっと、まあそんな感じ」
僕が答えると、ブルナが小さく息を吐く。
「大変でしょ」
「え?」
「……あの子、周りを見ずに突っ走るから」
そう言って、ブルナは作業台へ向き直った。そのまま、いつものことのように仕事の準備を続けている。
「……」
僕は少しだけその背中を見ていた。すると、後ろから声がした。
「……おはよー」
振り返る。寝ぼけた顔のアリエスが、部屋から出てきていた。
「おはよう、アリエス」
「んー……」
アリエスは目をこすりながら、ブルナを見る。
「ブルナ、もう起きてたんだ」
「そうだけど」
「早いね」
「いつもこの時間だから」
ブルナは小さく息を吐いて、作業台の上に道具を並べる。
「その前に――」
そう言いながら手を止め、僕たちの方を見た。
「朝ご飯、食べる?」
「え、いいの!?」
アリエスがすぐに答えた。その声に、ブルナの口元がほんの少しだけ緩んだ。
「……自分の分、用意するついでだから」
「やった!」
アリエスが嬉しそうに笑う。僕も、その様子を見ながら少しだけ笑った。
昨日はいろんなことがあった。この町に来たばかりなのに、もう少しだけ、この工房の朝が分かってきたような気がする。
ブルナはエプロン姿のまま、朝食の準備を始めた。
「なんか、手伝えることある?」
僕は躊躇いながら声をかけた。
「大丈夫」
短く答えて、ブルナは作業台から離れる。
工房の奥に、小さな台所があった。昨日は暗くて気づかなかった。ブルナはそこへ向かうと、棚からパンを取り出した。何枚か並べて、火をつける。
それから卵を取り出した。ひとつずつ手に取って、傷がないか確かめる。割る場所も決まっているみたいで、同じ動きを繰り返していく。
「まだかな、まだかな〜」
後ろからアリエスの声がした。
「いや……さっき始めたばっかりじゃん」
僕は思わず突っ込む。
「だってお腹すいたんだもん」
アリエスは椅子に座ったものの、落ち着かない。足を揺らしたり、台所のほうを見たり。少しすると立ち上がって、また座る。
「アリエス」
僕の声に、アリエスが振り返る。
「なに?」
「そんなに動き回ったら危ないよ。ほら、たくさん割れ物あるし……」
「もう、わかってるよ!」
頬を膨らまして不貞腐れるアリエスを見て、僕は思わず笑った。
台所からは、バターがじゅわっと溶ける甘い匂いや、卵が小気味よく弾ける音が響いていた。
ブルナは手を止めない。パンの焼け具合を確認して、卵の火加減を見て、皿を出す。
ひとつ終わるたびに、使ったものを元の場所へ戻していく。急いでいるようには見えなかった。むしろ、ひとつひとつ確かめながら進めている。
「あのさ……本当に手伝わなくて大丈夫?」
「うん」
「何かできることがあったら言って」
「分かった」
そう言ったあとも、ブルナは僕のほうを見なかった。作業に集中している。
僕は邪魔しないようにそっとその場を離れる。そして工房の中へ目を向けた。朝の光が差し込んで、昨日よりも工房の中がよく見える。
壁際には棚がいくつも並んでいた。その中には、同じ容器が何個も並べられている。その隣にも、別の棚にも、同じようなものがぎっしり詰まっていた。
「……こんなにたくさん」
思わず呟く。
容器だけじゃない。棚の中には、予備の道具がぎっしり詰まっている。色や形の違う布や、様々な種類の粘土まで。まるでここだけで一つの店ができるんじゃないかと思うほど。こんなに必要なんだろうか。
「できたよ」
声をかけられて、僕は振り返った。テーブルナの上には、焼いたパンと卵、それから温かい飲み物が並んでいた。
「わあ!」
アリエスがすぐに席へ向かう。
「いただきます!」
僕も席についた。焼きたてのパンを口に入れる。
「……美味しい!」
僕とアリエスの声が重なった。
「別に、普通だよ」
ブルナが言う。
「そんなことない! 初火町の焼き蜜パンと張り合えるくらい美味しいよ!」
アリエスが言うと、ブルナは一瞬黙る。
「……そう」
ほんの少しだけ、口元が緩んだ気がした。
僕はもう一度パンを食べる。温かくて、香ばしくて。昨日からずっと慌ただしかったせいか、こうして座って食べるだけの時間が妙に落ち着いた。
パンを頬張りながら、ふとさっき見た棚のことを思い出す。
「ねえ、ブルナ」
「なに?」
「さっき見たんだけどさ」
「うん」
「あの棚の中、すごいたくさんあったよね。同じものが何個も」
「ああ……」
ブルナが飲み物を一口飲む。
「うん」
「本当に、あんなに使うの?」
「使うこともある」
「でも、今すぐは使わない?」
「うん」
ブルナは少し考えてから、静かに言った。
「予備があるほうが安心するから」
「……安心……」
「なくなってから困るの、嫌だし」
それだけ言って、ブルナは自分の手のひらを小さく握りしめた。僕はその言葉を聞きながら、さっき見た棚を思い出していた。
もしかすると、ブルナにとってはそれも仕事の一部なのかもしれない。作るだけじゃなくて、必要になったときに困らないように前もって用意しておくことも。
そんなことを考えながら食べていたら、いつのまにか皿の中は空になっていた。




