四十七話 『引き返した足跡』
石造りの道に出ると、さっきまでいた工房の熱が少し遠くなった気がした。外の空気は冷たくて、土の匂いがする。
アリエスは何も言わなかった。僕の前を歩いている。いつもなら、町の景色を見つけては何か言うはずなのに、今日は俯いたままだった。
しばらく歩いてから、アリエスの足が止まった。
「……ラッサル」
「うん」
振り返ったアリエスの目には、涙が溜まっていた。
「……ごめん」
「アリエス……」
「私……ブルナに会えて、嬉しかったの」
声が震えていた。
「ほんとに、嬉しくて」
アリエスは胸の前で手を握った。
「でも……」
そこで言葉が詰まる。
「ブルナの大事なもの、壊しちゃった」
ぽろ、と涙が落ちた。僕は何も言えなかった。
工房の中で聞いた、器が割れた音が頭の中に残っている。あの瞬間のブルナの顔。怒っていたわけじゃない。ただ、何かを失うことを怖がっているように見えた。
「……直せなかったね」
僕が言うと、アリエスが小さく頷いた。
「うん」
「ごめんって言ったのに」
「うん……」
アリエスは涙を拭った。
「ずっと、ブルナに会いたかった。だから、もっと近づきたかった」
「うん」
「なのに、私……」
また涙が落ちる。その言葉を聞いているうちに、僕はふと、さっきのブルナを思い出した。
『どうして、触れたの』
『もう、戻らない。そのお皿は』
アリエスは、触れたかった。ブルナは、触れるのが怖かった。反対みたいなのに、どこか似ている。二人とも、大事なものを壊したくないんだ。
アリエスは、大事だからこそ触れたかった。ブルナは、大事だからこそ触れたくなかった。その違いが、今は妙に胸に残った。
「……アリエス」
「なに?」
「あの子も――ブルナも、たぶん……」
言いかけて、やめた。
僕にはまだ、何も分からない。どうしてあんなに器を怖がっていたのか。どうしてアリエスを見たとき、あんな顔をしたのか。どうして二人とも、お互いを知っているみたいだったのか。
「……なんでもない」
「?」
アリエスが首を傾げる。そのときだった。アリエスが抱えていた小さな壺が、突然、強く光った。
「……え?」
僕も足を止める。壺の内側から、淡い光が漏れていた。さっき屋台で見たときよりも、ずっと強い。アリエスが両手で壺を抱え直す。
「ラッサル……これ」
「うん」
壺の表面が、かすかに震えている。嫌な感じがした。さっきとは違う。何かが、壺の中で動いているような気がした。
「……どうしよう」
アリエスが壺を見つめる。そのとき、壺の表面に細い線が走った。
「……ひび?」
僕が呟く。一本。また一本。さっきまでなかったひびが、少しずつ増えていく。アリエスの顔が曇った。
「これ、大丈夫かな」
「分からない」
僕は壺を見つめた。光は消えない。むしろ、ひびの奥で強くなっている。このまま持っているのは、よくない気がした。
「……やっぱり」
アリエスが小さく言った。
「バルドさんに見てもらった方がいいかも」
「うん」
僕も頷いた。
「戻ろう」
アリエスが壺を胸の前で抱え直す。二人で来た道を引き返す。さっき出てきた工房が、少しずつ近づいてくる。
そのあいだも、壺の中の光は消えなかった。ひびの奥で、何かが静かに脈打っている。
僕は何度も壺を見た。何が起きているのかは、分からない。ただ、このまま放っておいてはいけない。そんな気がしていた。
工房の前まで戻ると、アリエスが扉を開けた。
「バルドさん……」
そっと中へ入ると、バルドが作業台のそばに立っていた。その奥では、ブルナが割れた器を片付けている。
バルドが、僕たちに気づいて顔を上げた。
「どうした」
「この壺……」
アリエスが抱えていた壺を見せる。
「さっきから、変なの」
バルドが近づいてくる。
「変?」
「光ったり……ひびが入ったりして」
バルドは壺を受け取った。手の中でゆっくり回し、表面を確かめる。さっきまでの柔らかい表情が、少しだけ真剣になった。
「……なるほどな」
「直せる?」
アリエスが心配そうに尋ねる。
「まだ分からん」
バルドは壺を光にかざした。
「だが、ここに置いておけば見てやれる」
「ほんと?」
「ああ。しばらく預かっておく」
バルドは作業台の端に壺を置いた。
「心配するな。すぐにどうこうなるようなものじゃない」
「……よかった」
アリエスが胸を撫で下ろす。僕も少しだけ息を吐いた。これで、とりあえずは大丈夫そうだった。
そのとき、ふと視線を感じた。顔を上げる。ブルナと目が合った。
「……」
「……」
どちらも何も言わなかった。さっき器を割ってしまったことが、まだ僕たちの間に残っている。
アリエスも少し気まずそうにブルナを見る。ブルナは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……じゃあ」
僕が口を開く。
「僕たちは、これで」
アリエスも頷いた。
「うん」
二人で扉の方へ向かう。そのときだった。
「どこへ行くんだ?」
バルドの声が後ろから聞こえた。
「え?」
僕が振り返る。
「いや……」
僕は言葉に詰まった。そういえば、僕たちはこの町で泊まる場所を決めていない。アリエスも同じことに気づいたらしく、黙って僕を見る。
「……行くところ、まだ決まってなくて」
アリエスが小さく言った。
「そうなのか?」
「うん……」
バルドは少し考えるように黙った。それから、工房の奥へ視線を向ける。
「それなら、空いてる部屋を使えばいい」
「え?」
「工房の奥に部屋がある。今は使ってない」
アリエスの目が少しだけ大きくなる。
「泊まっていいの?」
「壺を預かった以上、途中で放り出すわけにもいかん」
バルドは壺を置いた作業台を見る。
「直るまでの間くらい、好きに使えばいい」
「……いいの?」
「部屋を貸すだけだ。遠慮するな」
アリエスが僕を見る。その顔に、少しずつ明るさが戻っていく。
「ラッサル」
「うん」
「泊まっていいって」
「聞こえてたよ」
「えへへ」
アリエスが小さく笑った。僕も笑った。
「じゃあ……お世話になります」
「ああ」
バルドが短く答える。
その横で、ブルナがこっちを見ていた。目が合う。今度は、さっきほど気まずくなかった。でも、やっぱり何かを言うことはできなかった。
僕たちは工房の奥へ進んだ。まだ見たことのない部屋。これから何日ここで過ごすのかも分からない。壺がどうなるのかも。ブルナが何者なのかも。あの白い少女が何なのかも。何も分からない。
ただ――。少なくとも今夜は、ここにいていいらしい。
僕は工房の中を振り返った。炉の火が、静かに燃えている。土と鉄と、少しだけ甘い匂いが混ざった空気。
僕たちの旅は、まだ始まったばかりだ。




