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四十六話 『戻らない欠片』

 工房の中へ入ると、外より少しだけ空気が暖かかった。


 大きな炉が奥で赤く燃えている。炎は激しく揺れているわけじゃない。ただ、そこに熱が溜まっているように見えた。


 壁際には棚が並んでいた。そこには、いろんな形の器が置かれている。


 丸い壺。細長い瓶。口の広い鉢。手のひらに乗りそうな小さな器。赤茶色のものもあれば、深い青や緑に光るものもある。細い模様が走っているものや、土の色をそのまま残したようなものもあった。


「わぁ……」


 アリエスが小さく声を漏らす。棚の上だけじゃない。作業台にも、焼く前の器が並んでいた。


 まだ柔らかそうな土の器。その隣には、焼き上がったばかりなのか、少しだけ赤みの残ったものもある。床の隅には土が積まれ、道具がいくつも置かれていた。


 工房の中には、たくさんのものがあった。作られる前のもの。作られたもの。焼き上がったもの。形の違うものが、同じ場所に並んでいる。


 僕は棚に並んだ器を見ながら歩いた。


 どれもきれいだった。同じ形のものは一つもない。少し歪んでいるものもあれば、表面に細かな傷が残っているものもある。それでも、そこに置かれていると、それぞれがちゃんと一つの器に見えた。


「こっちだ」


 バルドが作業台の前で足を止めた。


「その壺、見せてみろ」


「うん」


 アリエスが壺を渡す。バルドは作業台の上に壺を置いた。近くで見ると、ひびがよく分かった。細い線が壺の表面を走っている。バルドは顔を近づけて、ひびの部分をじっと見る。


「……妙だな」


「やっぱり変なの?」


「普通のひびじゃない」


 バルドが指先を近づける。触れる直前で止めた。


「こいつは、いつから光ってた?」


「さっき」


 アリエスが答える。


「私が触ったら、急に光ったの」


「触ったら?」


「うん」


 バルドは少し黙った。それから、壺を持ち上げて裏側を見る。


「……なるほどな」


 何が分かったのか、僕には分からなかった。バルドは壺を作業台へ戻した。


「ちょっと待ってろ」


 そう言って、工房の奥へ顔を向ける。


「客だ。ブルナ」


 バルドが工房の奥へ声をかけた。……返事はなかった。代わりに、奥のほうから小さな足音が聞こえてくる。ゆっくりとした足音だった。急ぐ様子もない。


 やがて、棚の向こうから一人の少女が姿を現した。


 肩上で揃えられた、茶色の髪。白い肌は工房の中の明かりによく映えていた。深い緑色の瞳は静かで、こっちを見ても大きく揺れない。生成りの服の上に、深い緑のエプロンを着けている。


 その姿を見た瞬間、アリエスの表情が変わった。


「……ブルナ」


 名前を聞いたから、そう呼んだだけなのかもしれない。だけど、その声には、初めて聞いた名前を口にしたような感じがなかった。


 アリエス自身も、それに気づいたみたいに少しだけ目を瞬かせている。


「……知ってるの?」


 僕が聞くと、アリエスは首を傾げた。


「分かんない。でも……知ってる気がする」


 アリエス自身も、少しだけ不思議そうな顔をしていた。


 ブルナがアリエスを見た。深い緑の瞳が、ほんの少しだけ揺れる。さっきまでほとんど変わらなかった表情が、わずかに柔らかくなった。


「……アリエス」


 その声は小さかった。けれど、迷いがなかった。まるで、ずっと前からその名前を知っていたみたいだった。


「やっぱり……」


 アリエスが呟く。


「やっぱりって?」


 僕が聞く。アリエスは僕のほうを見なかった。ただ、ブルナを見つめている。


「分かるの」


「何が?」


「分かんない」


 アリエスは少しだけ首を傾げた。


「でも……この子、知ってる」


 その言葉に、ブルナの眉がほんの少しだけ動いた。ブルナも同じことを考えているように見えた。でも、何も言わない。ただ静かにアリエスを見ている。


「ブルナ!」


 次の瞬間、アリエスが駆け出した。


「おい」


 バルドが何か言った。でも、もう遅かった。アリエスは嬉しそうにブルナへ近づいていく。僕も慌てて後を追う。


「ちょっと、アリエス――」


 そのときだった。僕が声をかけるより早く、アリエスの足が石に引っかかる。


「わっ……」


 体が傾いた。アリエスの肩が棚に触れる。その反動で、棚の上に置かれていた器が揺れた。


「あっ」


 アリエスが手を伸ばす。


 だけど、間に合わなかった。目の前で、一つの小さな土の器が、吸い込まれるように石の床へと落ちていく。器が床へ落ちた。


 次の瞬間、破滅を告げるような乾いた音が響き、繊細なひびが無数に走って、器はいくつもの欠片に割れた。


「……っ」


 アリエスの顔が固まる。


「ご、ごめん……!」


 すぐにしゃがみ込んで、欠片を寄せ集める。


 ブルナが割れた器を見た。立ったまま、動かない。怒っているようには見えなかった。ただ、目だけが床に散らばった欠片へ向いている。


「どうして、触れたの……」


 声は小さかった。静かすぎるくらいだった。アリエスが手を止める。


「ごめんなさい。私、ブルナに会えて、それで……」


 慌てて言葉を続ける。


「嬉しくて、近づきたくて……そしたら足が勝手に……」


「知ってるはずなのに」


 ブルナが言った。アリエスが顔を上げる。


「……え?」


「割れたら、直せないって」


 ブルナの声には、怒りがなかった。だからこそ、余計に怖かった。


「違うの。わざとじゃなくて……」


「言い訳はいらない」


 ブルナはそれだけ言った。そして、ゆっくりと床に散らばった欠片へ視線を戻す。


「もう、戻らない」


 指先が、わずかに動いた。


「そのお皿は」


 アリエスが慌てて首を振る。


「直すから、私、火の魔法で――!」


 アリエスは、指先に力を込める。けれど、火花がパチパチと散るだけで、割れた器のかけらはびくともしない。


「火で直るなら、職人はこんな苦労してない」


 ブルナの声は静かだった。その言葉を聞いた瞬間、アリエスの顔が曇った。


「……ごめん」


 小さな声だった。ブルナは何も言わない。怒鳴ることもしない。ただ、割れた器を見つめている。


 僕は、その横顔を見ていた。怒っている。最初はそう思った。でも、違う気がした。


 怖がっている。器が割れたことを。壊れたものを見ていることを。まるで、割れる瞬間そのものが、何か取り返しのつかないものを連れてきたみたいに。


 ブルナの指先が、ほんの少しだけ震えていた。


「出てって」


 その一言が落ちるとすぐに、工房の扉が閉まった。

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