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44話 『形は、必ず崩れる』

 数歩歩いたところだった。ふと、空気が変わった。さっきまで聞こえていた町の音が、少し遠くなったような気がした。


 鉄を打つ音も。人の話し声も。薪の燃える音も。消えたわけじゃない。なのに、薄い膜が一枚だけ間に入ったみたいに、遠く感じる。僕は足を止めた。


「……ラッサル?」


 アリエスが振り返る。


「いや……」


 何かいる。そう思った。理由は分からない。ただ、背中に冷たいものが触れたような感じがした。そのときだった。


 屋台の向こう。石造りの道の先に、誰かが立っていた。白い服。灰色の長い髪が、風もないのに静かに揺れている。その顔は、どこか人形みたいに整っていた。僕は足を止めた。


「……ラッサル」


 アリエスが振り返る。


「どうしたの?」


「……あそこ」


 僕が指を向ける。アリエスは僕の指先を見る。


「どこ?」


「え……」


 いる。確かに、そこにいる。白い服の女が、僕を見ていた。


「……なんでもない」


「ふーん、そっか」


 アリエスは不思議そうに僕を見る。その間も、女は動かなかった。ただ、静かに僕を見つめている。そして、口元だけがほんの少し動いた。


「形は、必ず崩れる」


 声がした。近くから聞こえたわけじゃない。もっと遠くて、もっと古い場所から届いたような声だった。


「……誰?」


 思わず声が漏れる。


「ラッサル」


 アリエスが僕を見る。


「今、なんか言った?」


「……なんでもない」


 僕は女から目を離せなかった。女は、悲しそうでもなかった。ただ、何かを知っているような目で僕を見ていた。


「物を持てば」


 また声がした。


「後悔するわよ」


 その言葉と同時に、女の姿が薄くなる。白い服も、淡い灰色の髪も、石畳に落ちた影さえも、最初からそこにはなかったみたいに消えていった。


「……え?」


 僕は一歩前へ出た。もう、誰もいない。


「ねぇ、ラッサル」


 アリエスの声が背中から聞こえる。


「何か見えてたの?」


「……女の人」


「女の人?」


 アリエスが首をかしげる。


「どこ?」


「もう、いない」


「……?」

 

 アリエスは不思議そうに首をかしげた。


 僕も、もう一度その場所を見る。そこには何もなかった。でも、声だけが耳の奥に残っている。


『形は、必ず崩れる』


『物を持てば、後悔する』


 あの人は誰だったんだろう。


 僕たちは、壺を抱えたまま町の奥へ歩いていた。アリエスは何度も、胸の前に抱えた壺を見ている。


「ラッサル」


「ん?」


「これ、どうしよう」


「どうしようって?」


「ひびが入ってるでしょ」


 アリエスが壺の表面を見る。


「このままにしておいたら、もっと割れちゃうかもしれないよね」


「うん……」


「だったら、直してもらおうよ」


「誰に?」


「うーん」


 アリエスが周りを見る。


 町には工房がいくつも並んでいた。鉄を打つ音が聞こえる。窯から煙が上がっている。道の端には、焼き物を並べている店もあった。


「ここなら、直してくれる人いるかな」


「いるかもしれないね」


「探してみよう」


 アリエスが歩き出す。僕もその隣を歩いた。

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