四十三話 『ひび割れた脈動』
屋台の周りにも、人が何人か集まっていた。
誰かがパイを買い、誰かが受け取った包みを抱えて帰っていく。特別なものを買っているようには見えない。きっと、この町ではいつものことなんだ。
「ラッサル」
「ん?」
「これ、食べようよ」
アリエスが僕を見る。その目は、まだパイから離れていない。
「……食べたいんだね」
「うん!」
即答だった。僕も少し笑う。
「じゃあ――」
そのときだった。屋台の横。石畳の隙間に、何かが転がっているのが見えた。小さな土色のものだった。最初は石かと思った。でも、違った。
それは、壺だった。手のひらにすっぽり収まりそうなくらい小さな壺が、屋台の影に転がっている。表面には土がついていた。それだけなら、町のどこにでもありそうなものだった。だけど――。
僕が目を向けた瞬間、壺の内側で何かが小さく光った。
「……あれ?」
思わず声が漏れる。
「どうしたの?」
アリエスが振り返った。僕が指を向けると、アリエスも壺を見つめる。
「……光ってる?」
「うん。たぶん」
アリエスがパイのことを忘れたみたいに、壺へ近づいていく。
そのとき、壺が石畳の上でほんの少しだけ動いた。ころ、と転がる。アリエスがしゃがみ込んだ。
「……なんだろ、これ」
その声は、さっきまでパイを見ていたときとは違っていた。好奇心だけじゃない。何かを気にしているような声だった。
僕も壺を見つめる。よく見ると、表面に細い線が走っていた。ひびだった。しかも、そのひびの奥で――小さな光が、脈を打つように揺れている。
「アリエス、待って」
僕が声をかけるより先に、アリエスの手が壺へ伸びていた。細い指が、土色の表面に触れる。
次の瞬間。壺の内側で、光が走った。
「……!」
アリエスが小さく息を呑む。さっきまで外から見ても分からなかった光が、壺の内側だけに浮かび上がっていた。
細い線だった。ひびの形に沿うように、淡い光が伸びている。それは傷を照らしているようにも見えたし、傷そのものが光っているようにも見えた。
「ラッサル……」
「うん」
僕も壺を覗き込む。光は消えない。むしろ、アリエスが触れているあいだだけ、少しずつ明るくなっているようだった。
「これ……」
アリエスが両手で壺を持ち上げる。
小さい。手のひらにすっぽり収まるくらいの大きさだった。表面には土がついていて、ところどころ擦れた跡もある。
特別きれいなものじゃない。新しいものでもない。むしろ、何度も使われてきたような古さがあった。だからこそ、僕は少し嫌な感じがした。
「……置いておいた方がいいんじゃない?」
僕が言うと、アリエスが壺を見たまま首を傾げた。
「どうして?」
「なんとなく。さっきから光ってるし……」
説明しようとしても、うまく言葉にならない。怖いわけじゃない。でも、触らない方がいい。そんな感じだけがあった。
「それに、割れてるっぽいよ」
僕はそう言って、もう一度見る。壺の内側を走る光。その形は、どう見てもひびだった。細くて、薄くて、今にも消えてしまいそうなのに、そこだけは妙にはっきりしている。
「……うん」
アリエスが頷いた。それでも壺を置こうとはしなかった。
「でも」
小さく呟く。
「ほっとけない」
その声は、いつもの明るさとは少し違っていた。アリエスは壺を胸の前に抱えた。
「ほっとけないよ」
「アリエス……」
「これね」
アリエスが壺を見る。その目が、少しだけ揺れていた。
「ほっといたら、泣いちゃいそうな気がするの」
「……壺が?」
「うん」
アリエスは真剣だった。冗談を言っている顔じゃない。僕は何も言えなくなった。でも――。
この壺を抱えるアリエスを見ていると、今までとは少し違う気がした。
壺のひびが、もう一度だけ光った。とくん、と。小さな脈みたいに。胸の奥にも、同じようなざわつきが走った。
「……わかった」
僕は小さく息を吐いた。
「でも、気をつけて」
「もちろん!」
アリエスが笑った。いつもの太陽みたいな笑顔だった。
だけど、僕はまだ壺から目を離せなかった。どうして光るのか。どうして、アリエスが触れたときだけ反応するのか。分からない。
ふと、さっきまで屋台の上に並んでいた陶片パイのことを思い出した。
割れたもの。それでも形を変えて、誰かに食べられて、町の中で当たり前みたいに使われているもの。
そのすぐそばに、今度は本当にひびの入った壺が落ちていた。偶然なのかもしれない。でも、僕には少しだけ引っかかった。アリエスが壺を抱え直す。
「行こ」
「うん」
僕たちは屋台を離れた。




