【第1章 割れたものの町】 42話 『壊れたものにも名前がある』
坂を下るたび、霧が少しずつほどけていった。
草の深い緑の向こうに、石造りの町の輪郭がゆっくり浮かび上がってくる。煙突から細い煙が昇っていた。朝の光が土の粒をそっと照らしている。
アリエスが歩くたび、胸元の小さな羊のペンダントが揺れている。
僕は坂を下りながら、足元を見た。踏みしめるたび、靴底を押し返してくる土の重みがある。火の国とは違う。歩くたびに、地面そのものがこっちを受け止めているような感じがした。
やがて坂を下りきる手前で、石碑がひっそりと立っているのが見えた。苔むした石の表面に、文字が刻まれている。アリエスが足を止めた。
「これ、なんだろ?」
僕も隣に立つ。朝の光が石碑に触れると、削れかけた文字がゆっくり浮かび上がった。
《鍛冶と窯の里――職人の町/炉守町》
その隅には、小さな星の紋が刻まれていた。
「……かじと、かまの里?」
アリエスが首をかしげる。僕は続きを読み上げる。
「職人の町……だって」
「ろ……もり……ちょう?」
「たぶん」
「ろ……もり……」
アリエスが、もう一度ゆっくり読む。
「炉守町!」
今度はちゃんと言えた。その声が石碑の前で小さく響いた。
「えへへ、なんか強そう」
「町の名前なのに?」
「だって、炉を守るんでしょ?」
アリエスは楽しそうに笑った。その笑い声も、この町では火の国みたいに遠くまで跳ねていかない。石碑の苔に触れて、小さく震えて消えていった。
その向こうに、炉守町が広がっている。石造りの家々が斜面に沿って段々に並び、屋根の上にはところどころ草が芽吹いていた。
遠くの工房からは、白い煙が細い糸みたいに上がっている。鉄を打つ音。窯の火。土の匂い。それらが静かに重なって、この土地の呼吸になっているようだった。
「……ほんと、静かな町だね」
アリエスが囁く。
「初火町では、こんな静けさなかったよね」
僕は町を眺めながら言った。
「うん。なんていうか……」
そう言いながら、アリエスが少しだけ目を細める。
「火の町と違って、こっちは、ゆっくり息してるみたい」
そして、胸いっぱいに息を吸い込んでみせる。
「たしかに。深呼吸が得意そう、地の国の人って」
僕が言うと、アリエスがくすっと笑った。
「ふふ、なにそれ」
笑い声が、また土の中へ吸い込まれていく。僕も少し笑った。
町の入口に立ったまま、もう一度、炉守町を見た。
初火町とは、まるで違う場所だった。静かで、重くて。それなのに、眠っているわけじゃない。土のもっと奥で、何かがゆっくり息をしている。そんな町だった。
町の角を曲がったところに、小さくて素朴な屋台があった。
土色の布を張った屋根。その下に、使い込まれた木の台が置かれている。台の奥では、壺の形をした小さな炉が薪の火を抱えていた。
そこから、甘くて香ばしい匂いがふわりと流れてくる。焼けた小麦の匂い。砕いた木の実みたいな香り。それから、少しだけ土を思わせるような、乾いた匂い。
「……ん?」
僕が足を止めるより先に、隣を歩いていたアリエスがぴたりと止まった。鼻をヒクヒク動かしている。
「なに、この匂い」
「甘いね」
「うん」
アリエスは屋台のほうを見たまま、動かない。その目が、少しずつ大きくなっていった。
「……出た!」
「え?」
「炉守町名物!」
弾けるように言って、アリエスが屋台へ駆けていく。
「……知らないよね?」
「知らない。でも絶対そう!」
言い切ってしまうところが、いかにもアリエスらしい。僕も慌てて後を追った。
屋台の台には、焼き上がった小さなパイがいくつも並んでいた。丸いものもあれば、少し尖ったものもある。どれも形が揃っているわけじゃない。表面はごつごつしていて、ところどころに砕いたナッツが埋め込まれている。
焼き色のついた生地の隙間から、甘い香りが立ちのぼっていた。見ているだけで、まだ温かいのが分かる。その横を、町の人が一人通り過ぎた。
「ばあさん、いつもの三つ」
「はいよ」
店主らしい老婆が慣れた手つきでパイを紙に包む。
老婆の手は土色に染まっていた。まるで鉄か岩をそのまま削り出したかのような、ごつごつと硬く、深い皺の刻まれた手。指の間にも細かな粉が残っていて、爪の先には煤のような黒が少しついている。
「今日は焼きがいいよ」
「そりゃ楽しみだ」
男は包みを受け取ると、匂いを確かめるように鼻を近づけてから笑った。
「家のやつが待ってるんだ」
「じゃあ、急いで帰んな」
「言われなくてもな」
二人が笑う。男が去っていくと、今度は小さな女の子を連れた女性がやってきた。
「一つだけね」
女性がそう言うと、子供は少し悲しそうな顔を浮かべる。
「……一つ」
老婆が笑いながら、一番大きなものを選んで包んでやる。女の子は包みを受け取ると、胸の前で大事そうに抱えた。
「熱いから、冷まして食べるんだよ」
「うん!」
その返事があまりにも嬉しそうで、アリエスがじっとその子を目で追っていた。女の子は母親に手を引かれながら、屋台の角を曲がっていく。
「……いいなぁ」
アリエスが小さく呟いた。
「食べたい?」
「……うん」
素直だった。屋台の上に並んだパイを見つめている。目がきらきらしている。口元まで少し緩んでいて、今にもよだれが落ちそうなくらいだった。
「アリエス」
「なに?」
「顔」
「顔?」
「すごいことになってる」
「えっ」
アリエスが慌てて口元を手で隠した。
「うそ!」
「ほんと」
「……ラッサルの意地悪」
「だって、本当に食べたそうだから」
「だって美味しそうなんだもん」
アリエスはそう言って、もう一度パイを見る。
「これ、なんていうの?」
老婆がこっちを見て、少しだけ笑った。
「陶片パイっていうんだ」
「とうへんぱい?」
「ああ。割れた壺のかけらみたいな形をしてるだろ」
老婆が台の上のパイを指で示す。
たしかに、丸く整えられた普通のパイとは違っていた。表面の凹凸も、焼き上がった生地の欠け方も、どこか焼き物の破片を思わせる。
「陶片って、壺のかけら?」
「そうさ」
「でも……これ、甘いんだよね?」
「甘いよ」
「壺じゃないの?」
「壺は食べられん」
老婆が真顔で答える。
「ふふっ」
アリエスが吹き出した。老婆も笑う。
「ここじゃな、割れたものにも名前があるんだよ」
「割れたものにも?」
「ああ。壊れたからって、そこで終わりじゃない。名前をつけて、形を変えて、もう一度使う。そういうものが、この町には多いのさ」
その言葉が、なぜか僕の胸の奥に、硬い石が落ちたような音を立てて響いた。壊れたものは、もう一度形を変えられるのだろうか。
アリエスがパイを見る。さっきまでただ美味しそうだと見ていた目が、ほんの少しだけ変わった。
「……なんか、いいね」
「そうかい?」
「うん。割れてるのに、ちゃんと美味しそう」
「食べてないのに分かるのかい?」
老婆が笑う。アリエスは胸を張った。
「分かるよ!」
「本当かねぇ」
「だって、甘い匂いするもん」
アリエスはまたパイに顔を近づけた。そのまま少しだけ目を細める。
「甘いけど……なんか、どっしりしてそう」
「どっしり?」
「うん。火の国のお菓子とは違う感じ」
「そりゃそうだ。地の国の菓子だからな」
「地の国って、お菓子まで重いの?」
「さてね」
老婆が楽しそうに笑った。アリエスも笑う。
僕はそんな二人を見ながら、屋台の奥に目を向けた。炉の中で薪が静かに燃えている。火は小さい。でも、消えそうには見えなかった。
火の国の炎とは違う。弾けるような勢いはなくて、ただそこに熱を溜めている。
それは、一度火がついたら何百年も消えない地熱そのもののように、静かで、圧倒的な意思を感じさせる火だった。




