↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
41/63

《第2巻 金牛編》【プロローグ 大地の予感】 41話 『大地はまだ、名を知らない』

 夜と朝の境目みたいな空の下を、僕とアリエスは歩いていた。ひんやりしていて、まだ色も温度も決められないような空気が、頬にしっとり貼りついてくる。


 空は、青とも紫とも言えない色をしていた。見ているうちに、その境目まで分からなくなってくる。


「静かだね……」


 思わず声が漏れた。昨日までいた火の国の空気は、いつも熱と声で揺れていた。音が途切れる瞬間なんて、なかった気がする。


 足元に視線を落とす。砂が土に変わっていた。胸の高さを吹く風までもおとなしい。


 ここは、火の国とはまるで違う。地面を踏むたび、冷たさと重さが足の裏を押し返してくる。その感触が、足の裏から体の芯にまでじわっと広がっていく。


「わぁ……見て」


 隣でアリエスが目を丸くした。眼下に広がっているのは、重なり合った丘と森。霧がゆっくりと流れ、緑の広がりがどこまでも続いている。


「草が、地面といっしょに息してるみたい……」


 アリエスが小さく呟く。


「うん。空気まで違う気がする……」


 僕がそう答えると、アリエスは地面を見つめたまま、少しだけ笑った。


 ここでは空気が跳ねない。土が静かに息をしている。火が寝たみたいに、静かに沈んで、ゆっくり溜まっていく。


 アリエスの笑い声も、この場所では炎じゃなくて、息みたいに柔らかく消えていった。


 遠くから……コン……コン……と、鍛冶槌の音が聞こえた。土に打つというより、大地に沈んでいくような音だった。まるで一定の間隔で、時間を刻んでいるみたいだった。


 そのすぐそばで、草を噛む音が重なる。太い首をゆっくり動かして、牛が一頭、振り向いた。黒い大きな瞳が、土の奥みたいに静かにこっちを見ている。


「……牛」


 アリエスが小声で呟いた。この静けさを壊しちゃいけない。そんなことを、もう知っているみたいだった。アリエスは牛のそばへ歩いていき、そっとその背を撫でる。


「ラッサルも触ってみなよ。ほら」


「え? あ、うん」


 僕はそっと手を伸ばした。指先が毛に触れる直前で、止まった。


 触れたら――。僕のほうの揺らぎが伝わってしまいそうだった。地の国の静けさを乱してしまう。そう思った。それが、ひどく怖かった。


 牛はまばたきもせず、ただそこにいた。どっしりしていて、揺らがなくて、落ち着いていて。まるで大地の形が、そのまま歩いているみたいだった。


 僕はゆっくりと手を下ろす。


「ねぇ、ラッサル」


 アリエスが牛の首を撫でながら、僕を振り返った。


「ん?」


「芯が強い気がする……地の国」


「芯?」


「うん。なんていうか、重さで踏ん張ってるみたい」


 アリエスはそう言って、足元の土を見た。足音が土に吸われていく。風じゃなくて、大地の息が足元から伝わってくる。深い時間みたいなものが、そこにある気がした。


「ラッサル!」


 アリエスが急に僕を呼んだ。


「なに?」


 両手を胸の前でぎゅっと寄せている。その目は、理由も分からないまま、まっすぐに光っていた。


「会える気がする」


「え、誰に?」


「魔法使い」


 アリエスは自分の胸を指でつついた。


「ここが、静かに燃えるの。ポッて」


「でも、どんな人たちかもわからないんでしょ?」


 僕が聞くと、アリエスは頷く。


「うん。だけど、会ったらわかる気がするの」


「えっ。顔も、名前も知らないのに?」


「んーと、名前は……」


 そこで言葉が止まった。


「あー、なんだっけ」


 アリエスの瞳が、どこか遠くの光を探すみたいに揺れる。


「変だね。出てこない。喉まで来てるのに……」


 誰か。その影が、ほんの一瞬だけ風みたいに胸の奥へ触れた気がした。ここで出会う。そんな気がした。


「きっと会えるよ」


 僕が言うと、アリエスは顔を上げた。


「ほんと!?」


「うん。たぶん」


 理由は分からない。それでも、その未来だけは曖昧じゃなかった。アリエスの顔が、ぱっと明るくなる。


「そうだね。ラッサルが言うなら、きっと!」


 その瞬間。アリエスの火が一度だけ、ふわっと弾けた。だけど、地の国の空気は、それを押し返さなかった。土が火をそっと抱くみたいに、その熱を包んだ。


 アリエスは深く息を吸った。どこか懐かしさに触れたあとのような、いつもより静かで穏やかな顔だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。