【エピローグ 朝の目覚め】 四十話 『止まらずに歩く』
目を開けたとき、最初に感じたのは、まぶたの裏を通り抜けるあたたかい光だった。火の町の朝だ。そう思っただけで、心の内がそっと和らぐ。
「……ん」
夜のあいだに冷えていた砂が、ゆっくり温まり始めている。僕はゆっくり体を起こした。
同じ空。赤茶けた大地。あちこちから立ちのぼる細い煙。朝の空気は、夜より少しだけ乾いていて、鼻の奥がつんとした。
遠くから、ぱちぱちと火のはぜる音がいくつも重なって聞こえてくる。どこかの家で、もう朝の仕込みが始まっているんだと思う。
砂の上を吹き抜ける風に、炭と油と香辛料が混じった匂いが乗ってくる。その匂いを吸い込むと、不思議と一日が始まる感じがした。
昨日までの出来事が、夢だったみたいに遠く感じられる。でも、地面の熱と空の色だけは、はっきり現実だった。
「起きた?」
すぐ近くから声がした。振り向くと、焚き火のそばにアリエスがいた。もうとっくに目を覚ましていたらしく、小さな鍋を火にかけている。
「お、おはよう……」
「おはよう。よく寝てたね」
そう言って、アリエスはいつもの調子で笑った。……そのとき、ようやく気づく。
「あれ」
服が違う。落ち着いた赤のチュニックワンピース。胸元には、白いファーが少しだけ残っていて、それだけが昨夜の名残みたいだった。
「……着替えたの?」
「うん。とりあえず、もう戦う予定ないし」
さらっと言う。そういうところは、本当に普通だ。
風が吹くたびに、胸元の白い毛がかすかに揺れる。全部消えたわけじゃないというのが妙に印象に残った。戦うための姿はもうないのに、完全に元に戻ったわけでもない気がした。
「ねえ、ラッサル。寝言言ってたけど、なんか夢でも見たの?」
突然聞かれて、一瞬だけ言葉に詰まる。あの場所。白い石。声。
「……変な夢だった。けど……なんか、忘れちゃいけない気がする」
それだけ言った。細かく話す気には、なれなかった。
「へえ」
アリエスはそれ以上、踏み込んでこなかった。
「でも顔は悪くないから、悪夢じゃなさそう」
「うん……よくわかんないけど」
夢だったのかどうかも、正直はっきりしない。ただ目が覚めても、胸の奥のほうに残っている感覚があった。――止まるな。そんな感じの感覚。
火の消えかけた跡を踏み越えて、街のほうを見る。朝の光の中でも、足の裏にだけ、あの白い石の冷たさが残っていた。
朝食を済ませて、僕たちは街へ戻った。朝の通りはもう賑やかで、あちこちから声が飛び交っている。
「おっ。お前ら!」
聞き覚えのある声に振り向くと、香辛料屋のオレガノが手を振っていた。
「まだいたのか? てっきりもう次の町かと思ったぜ」
「今日出る予定なの」
アリエスが答える。
「へえ。相変わらず忙しいな。ま、これ持ってけ」
小さな袋を僕に放り投げてよこす。
「道中退屈したら嗅げ。目が覚めるぞ」
「……ありがとう」
袋から、ぴりっとした香りがした。それをポケットにしまいながら、僕は少しだけ振り返る。
町の出口に向かう道は、昨日までと同じなのに、少し違って見えた。何が変わったのかは、わからない。
「……あ、そうだ」
アリエスが思い出したみたいに言った。
「出る前に、ちょっと家だけ寄っていい?」
「お母さん?」
「うん。言っとかないと、あとで怒られる」
冗談みたいな言い方だったけど、本気なのは伝わってきた。
「すぐ終わるから」
「わかった」
僕たちは来た道を少しだけ戻った。思っていたよりもすぐに着いた。見覚えのある扉。前に来たときと同じ、火の町らしい家。
「ただいま」
アリエスが声をかけると、間を置かずに返事が返ってきた。
「おかえり」
顔を出したのは、アリエスのお母さんだった。
「あら、ラッサルくんも一緒なのね」
僕の顔を見てすぐにわかってくれた。
「こ、こんにちは……」
「こんにちは。元気そうでよかった」
それだけのやり取りで、十分だった。彼女はアリエスに視線を戻す。
「……で?」
「行ってくる」
短い返事。でも、意味はちゃんと通じている。
「……また、行くのね」
「うん」
少しだけ間があって、それからいつもの調子で続ける。
「気をつけなさいよ。火は便利だけど、油断するとすぐ火傷するから」
「わかってる」
「それと。ちゃんと食べて、ちゃんと寝ること」
「はいはい」
軽いやり取りだったけど、その中に心配がちゃんと混じっていた。アリエスのお母さんは僕の方を見た。
「ラッサルくん」
「は、はい」
「この子、無茶するところあるけど」
「ちょっと!」
「ちょっとじゃないわ」
言い合いながら、二人とも笑っている。
「よろしくね」
「……はい」
そう答えるしかなかった。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
明るい声だった。背中を押すみたいな、火の町らしい見送り方。
扉が閉まる音がして、また通りの音が戻ってくる。アリエスは何も言わなかったけど、歩き出す足取りは少しだけ軽く見えた。
「ねえ、アリエス」
「なに?」
「……あのさ」
言いかけて、言葉を選ぶ。
「なんていうか……前みたいに、止まらずに歩けてる気がする」
アリエスは少しだけ目を丸くして、それからいつもの笑顔で言った。
「その調子だよ、ラッサル!」
理由も、説明もない。でも、それで十分だった。町を抜けた先に、道は静かに続いている。朝の光の中、僕は一歩踏み出す。
まだこの先のことは何も決まっていない。あのランタンみたいに、どこへ行くのかは、まだわからない。
でも――きっと、アリエスとなら、進んでいける。そんな気がした。
***
第一巻、完。




