三十九話 『空白の中心』
気がつくと、なぜか僕は知らない場所にいた。
「……あれ?」
声を出してから、ようやく自分が立っていることに気づく。さっきまで、星を見ながら寝転んでいたはずなのに、背中に地面の感触がない。
周りを見回す。町はなかった。丘も、岩も、灯りもない。視界の端から端まで、何もない空間が広がっている。
「……ここ、どこだ」
足元には、細かい砂が広がっていた。でも、火の国の地面とは全然違う。色が薄くて、均一で、踏んでも跡が残らない。
空を見上げる。夜みたいに暗いのに、星がない。月もない。雲もない。ただ、広がっているだけだ。……さっきの場所じゃない。それだけは、はっきりわかった。アリエスの姿もない。声も、気配もない。
「……アリエス?」
呼んでみたけど、返事は返ってこなかった。ここは、さっきまでいた場所とは、まったく別の場所だった。
しばらく、その場から動けずにいた。見渡しても、目に入るのは同じ色の地平線ばかりで、どこを見ても変わらない。近いはずの足元も、遠くの空も、全部が同じ距離にあるみたいだった。
「……夢、なのかな」
そう思ったけど、どこか違う気がした。
もう一度、空を見上げる。明るいわけでも暗いわけでもなくて、ずっと薄い光に包まれている感じだった。朝とも夜とも言えない。時間そのものが止まっているみたいだ。
「……火の国じゃ、ない」
それはすぐにわかった。あの場所の夜には、必ずどこかに赤や橙の光がある。遠くても、消えかけでも、火の色が混じる。
だけど、ここにはそれが一切なかった。熱も、匂いも、気配もない。
呼吸をしてみる。ちゃんと息はできる。でも、空気が軽いのか重いのか、よくわからない。吸っても吐いても、同じ感じが続くだけだった。
「……」
一人だ。その事実が、遅れて効いてくる。さっきまで隣にいたはずなのに。そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。あの日の嫌な感覚が蘇る。
お父さんも、お母さんも……お姉ちゃんも。もういない。わかってるのに、こういうときだけ、体が勝手に思い出す。足が止まりそうになる。ここで立ち尽くしたら、そのまま動けなくなりそうだった。
「……だめだ」
小さく、歯を噛みしめる。怖い。でももう前みたいに、ただ逃げているだけの自分じゃない。震えそうになる指を、ぎゅっと握る。
アリエスがいないから進めない、なんて言いたくなかった。深く息を吸って、吐く。足の裏の感触を、無理やり確かめる。
……一人でも、歩くんだ。誰かに言われたわけじゃない。でも、その言葉だけははっきり浮かんだ。僕はゆっくりと一歩を踏み出した。
「……あれ?」
足は確かに動いたはずだった。なのに、前に進んだ気がしない。おかしい。そう思って振り返る。だけど、そこには何もない。自分が立っていたはずの場所も、わからなくなっていた。
「……足跡が、ついてない」
砂の上は、均されているみたいにきれいだった。踏んだ感触はあったのに、残っていない。歩いているのに、進んでいる気がしない。
無意識に歩く速度を上げた。それでも景色は変わらなかった。
「……おかしいな」
声に出すと、すぐ消えた。遠くに響くこともなく、足元で切れる。その感じが、嫌だった。
「ねえ、アリエ――」
アリエスの名前が、喉まで出かかって、飲み込んだ。呼んでも意味がない気がした。ここには、いない。
一瞬、足が止まりかける。頭の中に、昔の感覚がよみがえる。誰もいない場所で、どうしていいかわからなくなる感じ――。
「……っ」
歯を食いしばる。止まったら、だめだ。ここでやめたら、また前の自分に戻ってしまう。そう思って、前を見る。
ふと、そこだけ歪んでいる気がした。まるで、円を描くように。色じゃない。形でもない。ただ、そこに何かある気がした。
「……ん?」
目を細める。見間違いかもしれない。でも、他に目印もない。僕はその方向に歩みを進めた。
しばらく歩いた。どれくらい歩いたのかは、よくわからない。空の色が変わらないから、時間が進んでいるのかも判断できなかった。
砂の上を歩いていると、地面の色が少しだけ違う場所が見えた。
目を凝らすと、円形の石が半分砂に埋もれて、ぽつんと浮かんでいる。ただの石じゃない。形が揃っている。まるで誰かが置いたみたいだった。
「……なんだあれ」
息を止めて近づく。砂地の中に、円を描くように刻まれた場所があった。
僕は、その前で足を止めた。円の中に、細い線が刻まれている。文字か模様かわからないけど、なぜか気になる。引き寄せられるみたいに、一歩踏み出す。
――気づけば、円の内側にいた。足元の感触が変わっている。さっきまでの砂とは違う。硬くて、冷たい。
中心に立つと、砂の色と同化していた線が、淡く光った。赤でも橙でもない、白く柔らかい光。風が止まったみたいに静かだった。耳を澄ませても、砂の音しかないのに、体の奥に何かが伝わる。
《――やっと来たか》
声が聞こえた。空間に溶けるような声。だけど、どこを見ても、誰もいない。どこからともなく、直接頭の中に響いてくる。
声を聞いた瞬間、体が震えた。姿のない声なのに、はっきりと存在感があった。
「ん」
視線を落とすと、円の縁に沿って、同じ大きさの刻印が並んでいた。単純な線で描かれた、記号みたいな形。どれも少しずつ違う。角のあるもの。丸が重なっているもの。左右が揃っているもの。
「……なんだ、これ」
思わず数える。ひとつ、ふたつ――全部で、十二。
その中で、一つだけ、目が離れなくなるものがあった。二本の細い線が、左右に開くように伸びている、その形。角のようにも、何かが跳ね上がっているようにも見える。
「……これ……羊?」
見ているだけなのに、胸がじんわりあたたかくなる。火の熱とは違う。もっと静かな、残り火みたいな感覚。
ここに立っていると、自分がやけに小さく感じる。何かの中心にいるのに、それが何なのか、わからない。
気がつくと、風が止んでいた。音もない。自分の呼吸だけがやけに大きい。
足元を見る。円の中央だけ、何も刻まれていなかった。ぽっかりと空いた場所。ただの空白なのに、そこに何かがあるみたいに感じる。
「……ここ……」
声は遠くまで届かない。足元に落ちて、そのまま消える。逃げ場はない。でも、閉じ込められている感じもしない。ただ、ここに立っているだけなのに――世界の方が、こっちを見ている気がした。
しばらく、何も起きなかった。風も、動きもない。もともと何もなかったはずなのに、何かが消えた後の静けさだけが残っていた。
「……」
喉が鳴る。黙ったままでいるのが正しいのか、それとも。
《よく来たな、星を継ぐ者よ》
声がもう一度響く。問いかけみたいなのに、返事を求めている感じじゃなかった。
「……あなたは、誰なんですか」
思ったより、声が小さく出た。答えはすぐには返ってこなかった。代わりに、足元の石がわずかに軋む。
《……名は持たぬ》
短い言葉。それだけで、この話は終わらせるつもりみたいだった。
「……そう、ですか」
それ以上、踏み込めなかった。聞けば教えてくれるという感じじゃない。でも、拒まれているわけでもなさそうだ。
視線がまた黒い円に戻る。その縁に刻まれた、羊を思わせる紋章。今はもう、はっきりと目に焼きついている。
そのときだった。羊の紋章が、かすかに赤く光った。
「――!」
一瞬だけだった。けれど、その赤い光は紋章の形に沿うように淡く残っている。
《白羊は、目覚めた》
今度ははっきり聞こえた。体の中心がわずかに熱を持つ。火に近づいたときの熱じゃない。もっと、深いところに残る感じの。
「……」
祭りの光景が浮かぶ。少年。逃げなかった足。ランタンの中で揺れていた、静かな火。
そして――その紋章を見た瞬間、なぜかアリエスの顔が浮かんだ。魔物と戦う姿。ランタンを支えていた手。笑っていたときの目。理由はわからない。何かが繋がりかけて、最後だけ届かない。
円の縁。羊の隣に刻まれた紋章が、ほんの一瞬だけ、影を落とす。光ったわけでも、動いたわけでもない。ただ、そこにまだ触れていない場所がある、とわかるだけ。
《それと》
声が、少しだけ低くなる。
《もう一つ、動き出したものがある》
「えっ……もう一つって……」
それきりだった。空気が、すっと軽くなる。さっきまで張りつめていた何かが、ほどけていく。名前も、答えも、全部置き去りのまま。でも不思議と怖くはなかった。
円の中心の空白に、もう一度目を落とす。……何もない。なのに、何かが灯ったという感覚だけが残っていた。




