三十七話 『火が揃うまで』
「……始まるね」
アリエスが言う。
「うん」
空は、まだ暗いままだ。でも、もうすぐ変わる。
僕はランタンから目を離さなかった。丘の下、町のあちこちで火が動き始めていた。一つ、ぽっと明るくなる。少し離れた場所で、また一つ。
「あ……」
空に上がったわけじゃない。まだ、手元で灯された火だ。家と家の間。広場の縁。屋根の近く。それぞれの場所で、ランタンがゆっくり膨らみ始めるのが見えた。
「……みんな、早いね」
「うん。この町の人は、みんなせっかちなの」
でも、誰も飛ばしていない。みんな、待っている。アリエスは、ランタンを両手で包むみたいに持っていた。火はまだついていない。紙も冷たいまま。
……待つ時間なんだ。理由はわからないけど、そう思った。遠くの声が、また響く。
「――もう飛ばしてもいい?」
「――まだだよー!」
笑い声が混じる。それに応えるみたいに、町のざわめきが少しだけ大きくなった。ランタンの光が増えていく。一つ、また一つ。ランタンが膨らみ、光を帯びていく。
アリエスの方を見ると、ランタンを持ったままじっと町を見下ろしていた。
正直、少し意外だった。アリエスなら、誰よりも早く飛ばしてしまうと思っていた。思いついたら、すぐやる。そういう人だ。でも、今は違う。
「……待つんだね」
気がついたら、そのまま声に出ていた。
「うん」
短く返事をして、アリエスは視線を空に向けたまま言う。
「こういうのはさ」
少しだけ間を置く。
「みんなで一緒の方が、きれいじゃん」
「……きれい?」
「うん。ほら」
彼女が顎で示した先で、一つランタンが浮かび上がった。赤い光が、夜の中に溶けていく。
「一個だけ先に行くよりさ」
アリエスは、ほんの少し笑う。
「揃った方が、気持ちも合う気がする」
その言い方が、妙にアリエスらしいと思った。理屈じゃなくて、感覚で決めている。彼女は待っている。迷っているわけじゃない。ちゃんと選んで止まっている。ランタンは、まだ僕たちの手の中にある。
町の火が、先に夜を満たしていく。その光を見ながら、僕は何も言わなかった。手の位置を少しだけ直して、同じように待った。
遠くで、誰かが大きな声を上げた。言葉までは聞こえない。でも、その声を合図にするみたいに、町の空気が一段、張りつめる。
そして――一つ、ランタンが浮いた。さっきまで広場で揺れていた火が、ふわりと宙へ離れる。それをきっかけに、次々と上がっていく。一つ。また一つ。
「……わ」
アリエスが、声を漏らした。
赤い光。橙の光。少し濃いものも、淡いものも混じっている。ランタンは、ばらばらに上がるんじゃなかった。重ならないように、でも離れすぎないように、ゆっくりと夜へ吸い込まれていく。
「……すごい」
空が、少しずつ埋まっていく。星が見えなくなるほどじゃないのに、暗さが後ろへ押しやられていく感じがした。
「……そろそろ、飛ばそっか」
アリエスが言う。彼女は、ランタンを両手で持ち上げた。その仕草に、迷いはなかった。
「うん」
二人で、ランタンを広げる。折り目がほどけ、紙が夜の空気を含んで膨らむ。アリエスが、指を鳴らす。
「――点火」
小さな音と共に火が生まれた。炎は暴れなかった。紙の中で、呼吸するみたいに揺れている。
……あったかい。指先に、やさしい熱が伝わってくる。怖さはない。ただ、包まれる感じがあった。僕の知っている、初火町の火だ。
「いくよ」
「……うん」
二人で、ランタンを支える。軽くなっていくのが、はっきりわかる。
「せーの!」
手を離す。ランタンは、ふわりと浮いた。一瞬だけ下を向いて、それから夜へ向き直る。
「……行った」
「行ったね」
僕たちのランタンは、町の光の中へ溶けていく。すぐに、どれが自分たちのものかわからなくなった。
空にはもう、数えきれないほどのランタンが浮かんでいる。赤と橙が重なって、まるで夜そのものがあたたかくなったみたいだった。




