三十六話 『願いにしなくていい』
風が通り抜けた。昼とは違う、夜の乾いた風。汗が冷えて、体がぞくっとする。
そうか……まだ、夜だ。戦いは終わった。完全に理解できたわけじゃないけど、足元に残る感触が、それを教えてくる。
「……ねえ」
アリエスが、空を見上げた。
「このまま、どっか行こ」
「えっ、どこに?」
「静かなとこ」
少し考えてから、彼女は付け足す。
「……ランタン、飛ばしに」
その言葉を聞いた瞬間、さっきまでの緊張が、ゆっくりほどけた。まだ夜は続く。終わりじゃない。でも、逃げる時間でもない。
「……うん」
僕たちは並んで歩き出した。足音が二つ、重なって、路地の奥へ溶けていく。坂を登りきると、風が一気に強くなった。砂が足元を流れて、靴の縁に当たる。
「――着いた」
アリエスが、足を止めた。そこは、小さな高台だった。岩がむき出しで、足場はよくない。でも、町を見下ろすには十分だった。
見下ろすと、広場の辺りに、祭りの明かりが集まっていた。赤と橙の光が多くて、昼よりも輪郭がはっきりして見える。
家と家の間、道の筋。全部が小さく縮んで、ひとつの塊みたいになっている。まだ人はいる。さっきまで戦っていた場所も、その中のどこかだ。
「まだだね」
アリエスが言った。
「えっ?」
「ランタン」
そう言われて、空を見る。星は出ている。でも、まだそれらしき光はひとつもない。
「そろそろだと思うんだけど――」
アリエスはそう言ってから、広場のあたりを指さす。
「ほら見て。人、集まってきてる」
よく見ると、明かりの近くで影が動いている。小さくて、顔も見えないけど、確かに数が増えていた。風に、かすかな声が混じる。言葉までは届かない。でも、祭りの終わりに近い、落ち着かない感じだけは伝わってきた。
「……まだ、賑やかそうだね」
「うん。でも、もうすぐ静かになるよ。一斉に飛ばすから」
アリエスは、当たり前みたいに言う。
僕は、もう一度空を見上げた。まだ何もない。広くて、暗い。ここにたくさん上がる。想像すると、少しだけ落ち着かなくなる。
僕たちは、岩の上に腰を下ろした。膝を抱えて、町を見る。
「ここ、見やすいでしょ」
「……たしかに」
「知る人ぞ知る、とっておきの場所!」
確かに、よく見える。遠いのに、ちゃんとそこにある。風の音と、遠くのざわめきだけが続いている。
しばらく、二人とも黙って町を見ていた。遠くのざわめきが、さっきより少し大きくなった気がする。……もうすぐだ。なんとなくそう思った。アリエスが、ふっと息を吐いてから立ち上がる。
「じゃ、準備しよっか」
「うん」
彼女は、背負っていた小さな袋を下ろした。地面に置くと、布が砂を少し吸う。その動きを、僕はじっと見ていた。
ランタン――街で見たのを、思い出す。アリエスが袋の口をほどく。そして、中のものを取り出した。ランタンが、一つ。折りたたまれた白い紙と、細い骨組み。見慣れた形。
でも――頭の中で、すぐに数える。
「……あれ?」
思ったより素直に声が出た。
「一つしか、ないけど」
アリエスは少しだけ困った顔をしたあと、すぐに笑った。
「あー……」
彼女は、ランタンを大事そうに膝の上に置く。
「もう一つは、さっきレオンにあげたの」
「……えっ」
言われて、すぐ思い出した。路地の光景。別れ際にレオンが持っていた袋――。
「そうだったんだ」
アリエスは、僕の顔を見て微笑んでいる。
「私たちは二人で一つ、飛ばせばいいよね」
「え、二人で?」
「うん」
当たり前みたいに言う。一瞬、言葉が出なかった。
「でも……」
「なに?」
「願いとかはどうするの? 一つしかないなら、どっちの願いになるのかなって……」
アリエスは少し考えるそぶりを見せてから、肩をすくめた。
「願いにしなきゃいいよ」
少しだけ言葉を探すようにしてから、アリエスは言った。すぐに意味が飲み込めなかった。
「飛ばすだけ。願いって、言葉にできるときもあるけど」
ランタンの紙を指でなぞりながら言う。
「できないときもあるでしょ」
僕は、何も言えなかった。アリエスは、顔を上げて、町の空を見た。
「レオンもさ」
「……うん」
「あの子も、きっと同じ空見てるよ」
ランタンを見ながら、続ける。
「どこにいても」
ランタンはまだ畳まれたまま、彼女の膝の上にある。火も、光も、まだ入ってない。それでも、さっきより存在感があった。
これを、二人で飛ばすのか――そう思うと、手のひらが少しだけ落ち着かなくなる。
遠くで声が上がった。さっきよりはっきり聞こえる。




