三十四話 『赤い火、青い炎』
魔物がもう一度踏み込もうとする。今度こそ、止められない。
その時、夜の空気が別の方向から揺れた。熱気だ。さっきまでなかった、はっきりした熱の流れ。魔物からじゃない。背後からでもない。――通りの方から。
「もしかして……ほんとに、来てくれた?」
胸の中の火が、さっきより強く反応した。魔物も、それに気づいた。青い炎が、一瞬だけ、周囲を警戒するように揺れる。
「……なんだ……?」
魔物の声が低くなる。僕は一度、深く息を吐いた。震えは止まらない。足も重い。それでも――まだ終わってない。夜の向こう。何かが近づいてくる。僕は歯を食いしばった。
魔物の青い炎が、不規則に揺れる。一瞬だけ、魔物の視線がこっちから逸れた。
「……なんだ、この熱は……」
苛立ちと、わずかな焦り。魔物が一歩踏み出す。まずい――。
ほとんど同時に、僕も踏み出した。足の裏の感覚が薄い。砂を踏んでいるはずなのに、地面が遠い。心だけが一歩遅れている。
守らなきゃいけないって、わかってる。でも……どうやって? 火は答えてくれない。
少年の震える体が、視界の端で揺れた。伸ばしかけた手が、途中で止まる。――間に合わないかもしれない。
その時――こっちへ向かって走る足音が重なった。
「ラッサルっ!!」
振り向く前に、熱が背中を包んだ。汗の匂い。走ってきた勢い。燃えている声が、かすかに震えている。アリエスだ。
「間に合って、よかった……!」
胸が熱くなる。こんな場所まで、一人で迷わず来てくれた。
「チッ……! よりによって魔法使いかよ」
魔物が舌打ちする。
アリエスは泣きそうな少年の前に、一歩出た。
「この子はね、燃えてるんだよ」
自分の胸元にそっと手を添え、ぎゅっと握る。
「弱くても、迷ってても……自分で灯した火は、誰にも消せないの」
声は震えていた。でも、怖がっているようには見えなかった。その背中を見て、思う。アリエスはきっと、いちばん最初に前へ出る人だ。迷うより先に、ぶつかってしまう魔法使い。
魔物が冷たく言い返す。
「そんな弱ぇ火なんざ、踏みつければ消えるんだよ」
アリエスはゆっくり首を振った。
「消えるよ。揺れるし、埋もれもする。でも――」
指先が動く。光がひと粒、弾けた。まるで、空気がひとつ息を吸ったみたいだった。その瞬間、風が止まる。熱が満ち、光がアリエスを包んだ。
白い息が炎の色に変わる。赤い布が舞い、ひらめきが火の粉のように弾けた。胸元の白いファーが光る。金色の髪が揺れ、きらめく。
一瞬、世界が赤く脈打った。――綺麗だ。迷いも、怖さも、そのまま燃やしてしまう火だった。アリエスは息を吸い込み、まっすぐ前を見る。
「だから、灯すの。何度でも。消えそうなら……もっと燃やす! 火は、重ねれば強くなるから――」
その言葉のあと、ぱちりと火花が走った。
「点火!」
赤い火が弾ける。アリエスが地を蹴った瞬間、炎が足元から広がり、一気に魔物の懐へ飛び込む。
「ちっ……!」
魔物がわずかに怯んだ。
「俺は……選ばれた強者……守る者だ……!」
「守る?」
アリエスの言葉に、魔物の青い炎がわずかに揺らいだ。その奥で、別の色が揺れて見える。
「……守った」
低い声が、吐き捨てるように落ちる。
「間違ってねぇ」
影が膨らみ、また縮む。
「弱ぇ火は足手まといになる。だから――最初からいなかったことにしたんだ!」
叫びが、わずかに揺れた。何かが、噛み合っていない気がした。壊しているのに――どこかで、止まっている。
アリエスの声の奥で、まだ火が揺れている。
「それ、火じゃないよ。私は、泣いてる子を傷つけるのが強さだなんて、思わない」
魔物の表情がぴたりと止まる。その顔が、わずかに揺れた。
「……うるせぇ! ……俺は守った! 俺が強ければそれでいいんだよ!」
影が爆ぜた。少年が悲鳴を上げる。
「だ、だめだ……逃げろ!」
その声に、アリエスの火がさらに燃え上がる。
「大丈夫! 君の火は、まだ消えてない!」
アリエスの足元から、光がふわりと立ち上る。
「行くよ……烈火の羊、召喚――ファイアーラッシュ!」
砂が赤く瞬き、その光を軸に炎の羊が立ち上がった。透明な星角を持つ焔獣が、地を蹴り、一直線に魔物へ突進する。速い。目で追えないくらい。
「や、やめろ……うげあぁぁぁ!!!」
魔物の輪郭が砕け、金の光が夜に散った。風がその光をさらっていく。
「終わりじゃ……ねぇ……これは……まだ、始まりだ……俺は、まだ、こんなもんじゃ……」
声は砂みたいに崩れ、影は夜に溶けていった。風に押され、焦げ跡の上の空気がゆらりと揺れた。小さな湯気が夜に溶けていく。
音がひとつ、抜け落ちた。そして、ひとつ。夜空に、星が灯った。静かで、透明で、忘れられない光だった。
「……すげぇ……っ……ほんとに……すげぇよ……!」
少年の声は、まだ少し震えていた。拳を握りしめて、僕を見る。
「さっきの、あれ。……すげぇ力、見たからな」
「え、いや……あれは、僕もよく……」
うまく言えなかった。まだ脈が強く残っている。アリエスが笑う。
「ラッサルはね、これからもっと燃える人なんだよ!」
「ちょっ、勝手に……!」
視線を逸らす。それにつられて、少年がふっと笑った。
「おれは、レオンだ。弱ぇなんて、もう言わせねぇ。……今はまだでも。絶対、強くなる」
レオンは、誓うように言った。
「……ラッサル」
僕も名乗った。声が少し震えた。
「僕は、ラッサル」
息を整えて、もう一度言い直す。
「私は、アリエス!」
そう言って、アリエスは胸を張る。声が火の粉みたいに弾けた。
「よし!」
レオンは木剣を握り直した。足元がわずかに揺れる。それでも踏みとどまる。
「絶対、追いつく。いや、追い越してやる。見てろよ!」
言い切ったあと、一瞬だけ視線が揺れた。
「うん。きっとなれるよ」
アリエスが言う。僕も頷く。レオンはふと空を見上げる。
「……姉ちゃん、見ててくれよな」
切なさの奥に、芯があった。僕はかける言葉を探す。
「あのさ、その……頑張って。あっ、でも、無茶はしないで」
「しねぇよ。もう……わかったから」
レオンが笑う。強がりは、もうなかった。
「じゃあな! 次会うときは、もっと強ぇから!」
背中で砂を蹴り、夜へ駆けていく。火の国の風が、その走りを押し上げていた。その背中は、もう震えていなかった。
しばらく、僕たちはその場から動けなかった。風の音が戻ってきて、遠くから祭りのざわめきがかすかに聞こえる。
遠くの方で、提灯の明かりが、ゆらゆらと揺れていた。高く掲げられた光が、夜の中で小さく瞬いている。
隣に立つアリエスの気配が、あたたかい。言葉はないけど、それで十分だった。
体の中で、火が静かに燃えている。大きくも、強くもない。でも、確かにある。次に手を伸ばすための火だ。
まだ足は少し震えていて、内側がじんと痛む。それでも、火は消えていなかった。




