33話 『止まった時間』
気づいたときには、体が動いていた。
「やめろ!!」
声が、夜に響いた。自分でも驚くほど、はっきり響いた。魔物の動きが、止まる。初めて、こっちを見る。
視線が絡んだ瞬間、息が詰まった。底のない冷たい目。でも、その奥に、ほんのわずかな違和感があった。――怒り……いや、違う。戸惑ってる?
「誰だお前」
魔物の声が、わずかに低くなる。膝が震える。それでも、目は逸らさなかった。
「そ、その子から……離れろ……」
声は震えた。それでも、言えた。魔物が、じっとこっちを見つめる。青い炎が、わずかに揺らいだ。
「ハッ。弱ぇな、お前も」
その言葉で、一瞬、息を忘れた。――知ってる。僕は弱い。だから守れなかった。何度も。でも。
「……だから、来た」
言葉が、こぼれた。
「また、何もしないままなのは……嫌だから」
魔物の表情が、わずかに歪む。僕の言葉が、理解できていないみたいだった。
「意味ねぇよ」
冷たい声。
「力がねぇ奴は、いねぇのと同じだ」
その言葉のあと――魔物の姿が、消えた。
「――っ」
見えなかった。次に認識したときには、目の前にいた。気づいたときには、腕がそこにあった。鈍い衝撃が、腹の奥に突き刺さる。
「っ、が――!」
息が、潰れた。声にならない空気が、喉から漏れる。体が浮く。視界がぶれる。背中から地面に叩きつけられた。
「かっ……は……っ……!」
息が吸えない。胸が動かない。痛い。怖い。逃げたい。……あれ? 頭の奥で、何かがひび割れる。崖の縁。冷たい風。足元が崩れる感覚。
『ラッサルだけは渡さない!』
震えながら守ってくれた――リラのあの背中。伸ばした手。届かない距離。赤い炎。崩れる音。何もできなかった。また、同じだ。
「……っ、あ……」
指先が震える。体が動かない。立たなきゃ。なのに、力が入らない。怖い。無理だ。僕には――。魔物が、呆れたように視線を外した。
「ほらな」
嘲笑うような声。
「それが、力のねぇ奴の限界だ」
魔物が少年へ顔を向ける。青白い火が骨の形を薄く照らす。
「力がねぇなら――」
少年の肩がびくっと跳ねた。
「死ぬだけだ」
その瞬間――何かが弾けた。怖い。逃げたい。それでも、ここで止めなきゃいけない。
一瞬、音が遠のき、砂の粒が宙に浮いたみたいに見えた。……今だ。やり方なんてわからない。ただ、ここで止めなきゃいけない。伸ばした指先が、白く光った。
「……っ、やめろおぉっ!!」
叫んだ瞬間。音が、消えた。耳が聞こえなくなったわけでも、意識を失ったわけでもない。ただ――世界が、息を止めた。
すべてが止まっているわけじゃない。僕だけが、先に進んでいるみたいだった。
砂が舞い上がる途中で固まり、少年の叫びが、形を持たないまま宙に滲んでいる。魔物の体の青い炎も、揺れかけの形で、ぴたりと止まっていた。
「……え?」
自分の鼓動だけがうるさい。どく、どく、と胸の奥を叩く音。腕を動かすと、まるで水中みたいに重く感じた。
「――止まってる」
怖さは、消えてない。魔物はそこにいるし、少年も危険な位置にいる。でも、今すぐ終わる気配だけが、消えていた。時間を止めたんじゃない。少しだけ、隙間ができている。
「でも、どうして……」
指先に、何かが絡みついたような感覚が走った。反射的に手を開く。
「……っ、なに、これ……」
細い、一本の線。鱗みたいな模様が、手のひらにほんの一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。それが何だったのかはわからないけど、自分のものじゃない気がした。
もう一度見ると、もう普通の皮膚に戻っている。熱も、痛みもない。なのに、体の奥だけが、熱い。小さな火。ずっとくすぶっていた火が、今も消えていない。
過去の記憶が、浮かび上がる。立ち尽くしていた自分。理由を並べて、何もしなかった自分。嫌な現実から逃げていた。ずっと。
息を吸った瞬間、胸がぎゅっと締め付けられたような感じがした。誰かに、内側から押さえつけられているみたいに。
「……もう、見てるだけは嫌だ」
視線を少年へ向ける。震えたまま、必死に前を見ている。この子も、僕と同じだ。――守らなきゃ。そう思った。怖いのは変わらない。自信なんかない。それでも……動く。
足を一歩、踏み出す。砂が、音を立てずに沈む。止まった時間の中を歩く。不思議な感覚だ。
魔物の近くに立つと、凍った炎から、冷たい気配が伝わってきた。これはきっと、消えない火だ。僕ひとりじゃ――届かない。
心の中で、火が揺れた。誰かに渡す火だ。――アリエス。名前を呼ぼうとして、声が出ないことに気づく。ここでは、音が動かない。それでも、届いてほしいという気持ちだけは、はっきりしていた。
「お願い……来て」
ただの、願い。心の火が、ふっと明るくなった。白い光が、指先から零れ落ちる。それはまるで、誰かを呼ぶための合図みたいだった。
次の瞬間――世界が、深く息を吸った。止まっていた時間が、音を立てて、動き出す。
「……ッ!?」
魔物が短く息を呑み、影が跳ねた。わかりやすく視線が揺れる。
「今の……何だ……! まさか、お前……時間を? いや、そんなはず――」
一瞬だけ、魔物が怯んだ。
「火じゃねぇ。……今のは、なんだ?」
「僕は……ただの人間だ。魔法なんか使えない。でも――何もできないままで終わるのは、もう嫌なんだ」
声は震えた。それでも、言った。魔物の顔が歪む。
「……力のねぇ人間が、偉そうに自分を主張すんじゃねぇ!」
叫びと同時に、世界がきしんだ。
「……殺してやる」
魔物が呟く。
風が動く。止まっていたはずの時間が、一気に押し寄せてきて、頭の奥を強く殴った。
「――っ!」
視界が歪む。胃がひっくり返る。誰かの息が、耳元でかかった気がした。足元がふらつき、膝が折れかけた。踏みとどまる。でも、うまく力が入らない。
「……まずい……」
時間を止めた感覚はない。ただ――終わりかけていた何かに触れた気がした。
さっきの妙な感覚が、腕の内側をゆっくりと這う。気のせいだと思いたかった。だけど、消えない。胸の中の小さな火が、今は不規則に揺れている。
「……っ、はぁ……!」
呼吸が浅い。空気を吸っているのに、肺が満たされない。視界の端で、魔物がこっちへ踏み出す。速い。さっきまで、あんなにゆっくり動いていたのに。
「なに、しやがった……」
魔物の声が、低く割れる。
「僕は、何も――」
「俺の、邪魔をするな……! 割り込むんじゃねぇ!」
青白い炎が、さっきよりも不安定に揺れている。もしかして……さっきのが、効いてる? 炎の脈が乱れ、色がわずかに濁る。
「……逃げ……」
少年の方を見る。声が出ない。かすれた息だけが漏れる。それでも、少年は気づいた。視線が合う。一瞬迷い、それから歯を食いしばる。
「……っ!」
少年は走ろうとして、足がもつれた。転びかけた、その瞬間。
「チッ! 雑魚が」
魔物が舌打ちをする。魔物の視線が、少年へ向く。
だめだ……体が言うことを聞かない。腕が重い。視界が白く滲む。胸の火が、今にも消えそうに揺れている。
「――終わりだ」
魔物の声が、すぐ近くで響いた。次の瞬間――冷たい圧が、空気ごと押し寄せた。
「……っ!」
思わず目を閉じる。
終わる、と思った。――でも、来ない。代わりに来たのは、違和感だった。
魔物の動きが、ほんの一拍、遅れている。速いはずの踏み込みが、わずかに引っかかる。青い炎が、一瞬だけ、内側から軋むように歪んだ。
「……クソ」
魔物が、低くうめいた。
「……おかしい」
声に苛立ちが混じる。僕じゃない。僕の中の火を見ている。魔物が、自分の腕を見る。青白い炎が、微かに揺れている。
「人間風情が、焼き切れねぇ……?」
……まだ残ってる。あの歪みが、まだ消えてない。今だけでいい。体の中で、小さな火を掻き集める。さっきみたいに派手なことはできない。ただ、消えるな、と願った。




