32話 『その程度の火じゃ、ここにいる意味がねぇ』
角を曲がった瞬間、息が止まった。風も砂も、急に動きを失った。そこに、何かが立っていた。それは、人に似ていた。腕があり、脚があり、胴体がある。
でも、どこかおかしい。右肩だけが、わずかに前へ突き出ている。左腕は、半歩遅れてついてくる。動きが、ひとつに揃っていない。
「……魔物だ」
リラの時の、あいつとは違う。
よく見ると、胸元にひび割れのような痕があった。それは傷なんかじゃない。最初から欠けている、星の破片みたいだ。微かな光が、そこから漏れている。その光を見て、胸がざわついた。
顔には表情がなかった。目には一切光がなく、喜怒哀楽がわからない。まるで感情自体が欠けているみたいだ。
皮膚の内側で、青白い火が光ったり消えたりしている。外へ、外へと溢れ出そうとして、皮膚の奥でぶくぶくと膨れ上がっていた。この町の火と同じはずなのに、なぜか冷たさを感じる。
それは少年を見ていた。いや、見ている、というより――値踏みしているみたいだった。あの子の火を、試そうとしてる……?
その視線が、わずかに鋭くなる。木剣を握る手。震え。それでも逃げない足。青白い炎が、ほんの一瞬だけ強まった。
「……弱いな」
低く、静かな声。怒りでも、嘲りでもない。
「その程度の火じゃ、ここにいる意味がねぇ」
その言葉と同時に、魔物の胸の亀裂がかすかに光った。触れたら、終わる――理屈じゃなく、そう感じた。強いとか弱いとか、そういう次元の話じゃない。あれは、僕なんかがどうにかできる存在じゃない。
視界の端で、少年が小さく動いた。木剣を握る手が、震えている。歯を食いしばっているのに、音が漏れそうなくらい。魔物の視線が、そっちへ滑った。
「……っ」
――だめだ。声を出そうとして、喉が動かない。空気が、肺に入らない。心臓が跳ねると同時に、背中に冷たい汗がにじむ。
「……逃げるなら」
魔物が、ぽつりと言った。
「もっと早くしろよ」
その言葉に、少年の肩がびくっと跳ねた。ほんの一瞬、視線が泳ぐ。少年と目が合った。――見られた。逃げたいのを。怖いのを。
「お、おまえ……!」
少年が一歩、後ずさる。踵が石に当たり、乾いた音が響いた。それだけで、魔物の口元が、わずかに歪んだ。笑っているのか、わからない。でも――楽しんでいる。
「火ってのはな」
魔物は、ゆっくりと歩き出した。一歩。砂を踏む音が、やけに響く。
「怖がると、よく燃える」
もう一歩。距離が、縮まる。視界が狭くなる。魔物しか見えない。
なのに、頭の中では、昼間の光景が勝手に再生されていた。台車。瓶の音。怒鳴り声。必死に前へ進もうとしていた、小さな背中。……また、同じだ。あの時と、同じ距離。足が……動かない。
「来るな……!」
少年の声が裏返る。それでも、彼は逃げなかった。……逃げられなかったのかもしれない。
「なんで逃げねぇ?」
魔物が、首を傾げる。
「消えかけの火のくせに」
青い炎が、少年を映す。光に照らされて、少年の体が震えているのがわかる。思わず胸が、締めつけられる。
「やめ……」
声にならない。体が、動かない。……違う。このままじゃ、また――。脳裏で、何かが軋んだ。逃げろ、という声。無理だ、という声。その奥で、もうひとつ声がする。
『――それでも、行け』
足の裏が、じわっと熱を持った。昼の砂の感触が、よみがえる。
魔物が、少年の前に立つ。
「こんなちっぽけな火なんて」
指先が、ゆっくり持ち上がる。青白い光が、集まっていく。
「簡単に、消える」
……踏み出せ。変わるんだ、今度こそ――。




