二十九話 『何も約束していないのに』
しばらくすると、広場の中央に、人の輪ができはじめていた。
さっきまで屋台の前に散っていた人たちが、自然と同じ方向に集まっていく。誰かが声を張り上げたわけでもないのに、足がそっちに向いてしまう。
「何か始まるみたい」
アリエスが、つま先立ちで中を覗く。
輪の中心には、低い台が組まれていた。その上に立つ人たちは、派手な衣装というほどじゃないけれど、布の色がどれも濃い。赤、橙、紫。動くたび、火の色みたいに揺れる。
さっきまでの呼び声や笑い声が、少しだけ遠のいた。人の輪が、静かに息を揃える。
輪の中心、低い台の上に立った一人が、わずかに足を引いた。踏み出す前の、ほんの一瞬のためらい。
次の瞬間、その足が強く踏み込まれる。乾いた音が、広場に落ちた。もう一歩。さらにまた一歩。続けて踏み鳴らされる足音が、少しずつ重なっていく。
「いいぞ!」
誰かが声を上げた。それに応えるみたいに、あちこちで笑い声や短い掛け声が弾ける。はっきりした言葉にならない声までが、背中を押してくる。
誰かがまた踏み込み、それに別の足音が重なる。気づけば、あちこちで同じように足が鳴っていた。ばらばらのはずなのに、不思議と一つのリズムになっていく。
赤、橙、そして火の奥に残るような紫。布が踏み出すたびに、火の層みたいに揺れる。
「――行け!」
遅れて、一つだけ声が飛ぶ。それを合図にしたみたいに、さらに強く足音が重なった。
踊りが始まった。足を踏み、腕を振る。円を描いて、また戻る。決まった型はあるのに、完全には揃っていない。そのずれが、かえって生きている感じを強くする。
火を扱う仕草が混じる。手のひらをかざし、引き、また差し出す。――差し出す動きだけが、やけに強い。火はないのに、そこにあるみたいだった。
「すご……」
自然と声が漏れる。
太鼓の数が増え、笛の音が重なる。気づけば、呼吸まで同じ速さになっていた。周りを見ると、知らない人同士なのに、同じように体を揺らしている。肩が触れても、誰も気にしない。
子どもが一人、輪の外で真似をしていた。大人の動きを見て、少し遅れて手を振る。うまくいかなくて、転びそうになって、それでも笑っている。隣の大人が、さりげなく手を伸ばして支えた。
踊りは、だんだん激しくなる。熱気が、上からも下からも迫ってくる。火の明かりは増えてないのに、景色が明るい。——その理由が、少しだけわかる気がした。
僕は、その輪を見ながら、無意識に視線を動かしていた。輪の外。屋台の影。人の流れの隙間。台車が通れそうな場所。
……いない。あの少年。そんなのわかってる。今ここにいなくても、おかしくない。忙しいって言ってたし、まだ荷物を運んでいるのかもしれない。そういう理由はいくらでも浮かぶ。
「ラッサル?」
アリエスが、こっちを見る。
「どうかした?」
「……いや」
答えながら、視線を戻す。
踊りは、ちょうど盛り上がりの真ん中だった。何人かが輪の中心に入り、即興みたいな動きを見せる。上手いとか下手とかじゃない。思いきりがいい。それだけで、周りが湧いた。
拍手が起きる。歓声が上がる。その瞬間、喉が、少しだけ詰まった。
「……」
もう一度、広場を見渡す。踊りの輪の向こう。屋台の列。人の背中。火の明かり。全部あるのに、足りないものが一つだけ、はっきりしてきた。
「やっぱり、いない……」
思ったより、はっきり浮かんだ言葉だった。
踊りが、最後の動きに入る。全員が足を踏み鳴らし、腕を高く上げる。太鼓が、強く一打。笛が、短く鳴って、音が止まった。
一拍の沈黙。それから、どっと歓声が上がる。拍手が、波みたいに広がった。誰かが笑い、誰かが肩を叩き合う。輪が崩れ、人が動き出す。祭りは、完全に熱気に包まれていた。
「すごかったね!」
アリエスが、興奮した声で言う。
「毎年見てるけど、やっぱいいなぁ」
「……うん」
そう答えながら、僕はまだ、広場の奥を見ていた。理由のわからない焦りが、足元から上がってくる。胸の奥が、落ち着かない。何かを忘れている気がする。何も約束していないのに。
「……ねえ」
アリエスが、少しだけ声を落とす。
「もしかして、あの子のこと、気になってる?」
言われて、はっとする。
「……うん」
「そっか」
それ以上、何も言わなかった。無理に慰めるでもなく、軽く流すでもなく。ただ、同じ方向を見る。
広場の向こうで、また太鼓が鳴った。次の催しの合図らしい。人の流れが、ゆっくり移動する。誰もが楽しそうで、浮かれていて、忙しい。この中に、あの少年だけがいない。
「……何してるんだろう」
考えたところで、わかるはずもない。それでも、頭の中に、昼間のことがよぎる。
重たい台車。怒鳴る声。必死に押す背中。呼べば届く距離にいないだけで、こんなに落ち着かないとは思わなかった。祭りの音が、急に遠くなった気がした。
「次、どうする?」
アリエスが聞く。
「……もう少し、回ろう」
そう答えた声が、思ったより硬かった。
人の流れに乗って歩き出す。火の明かりが、足元を照らす。笑い声が、横を通り過ぎる。全部、ちゃんと楽しいはずのものだ。なのに、心のどこかで、ずっと引っかかっている。
もしこのまま、あの子ともう一度も会えなかったら――。そんな考えが浮かんで、慌てて打ち消す。まだ、何も終わっていない。始まったばかりだ。そう自分に言い聞かせる。
火の国の夜は、ますます熱を増していく。その中で、僕だけが、少し遅れて歩いている気がした。追いつかなきゃいけないものが、何なのかもわからないまま。




